サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

消え行く観光資源

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 さあ〜出かけよう。そして昇仙峡の岩場から「猿岩石」を見つけてください。普通に見たら見えません。自然の恩恵・自然への感謝の心ともって、自然と一体となったときに初めて見えてきます。
 さあ〜探してください。

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 人間は過去の遺産や先人の努力をつい忘れてしまう。昇仙峡も最初から山梨県を代表する観光地ではなかった。そこには地域の人々の弛まざる命をかけた取り組みがあった。現在のような行政主導ではなくそこには民意が彷彿としていた。今山梨県がするのは行政は二歩も三歩も後になり、民意を育てることが出来るかどうかが山梨県観光の今後の最大の課題である。

 昇仙峡を開発した人々の努力を振り返って見ましょう。

御岳昇仙峡
(『山梨県の地名』日本歴史地名大系19 平凡社1995刊)

 荒川渓流の費食によって形成された峡谷で、天神森の長瀞橋から川沿いにさかのぼって仙蛾滝に至る約4・1キロの間に展開する景勝地をいう。東岸は甲府市、西岸は敷島町(現甲斐市)に属する。黒雲母花崗岩の地質である両岸には奇岩・怪石が続き、清流は滝や淵となって南流し、とくに羅漢寺山(1085メートル)覚円峰・石門や仙蛾滝付近は絶景として知られる。渓谷探勝路の途中には羅漢寺山中の旧地から移された羅漢寺(現敷島町)があり、仙蛾滝から北に進むと御岳の里宮金桜神社へ至る。
 この渓谷の景観は天保5年(1843)看工、同14年完成の御岳新道開削により出現した。とくに仙蛾滝は天保5年から7年の第一期工事で天狗岩東寄り岩壁をうがつ工事により発見された。同11年からの第二期工事は新道開削提唱者の一人であった長田円右衝門と猪狩村など村万が別個に進めたが、円右衝門は甲府勤番士や城下の商人らから寄付金を募り、また金桜神社の神職・社僧らを世話人に加えている(同14年「御岳斯道募資録」長田家文書など)。これは新道が同社への参詣路として従来からの御岳道に替わって利用されるであろうことや、探勝客で賑わい名勝地として世に広まることを見越したものであろう。天保14年には峡谷を訪れた名士が円右衛門の要請により雪虹瀑(せっこうばく)・沸玉泉(ふつぎょうくせん)・眩(めまい)岩などの命名を行った(「円右衛門差出書下書」同文書)。また当地を訪れた画家竹村三陽は仙嫉滝・石門・覚円峰などを描いた。その絵は詩文を添えた木版画「仙嶽閉路図」として安政元年(1854)出版され、宣伝の役割を果した。また「甲斐叢記」にも御岳新道として記され、詩文挿絵が載せられている。弘化4年(1847)円右衛門は高成村に接待亭と称する小屋を建て晩年を過ごした。同所近くの道路に面した大岩石には嘉永4年〈1851〉円右衛門画像を刻した頌徳碑が建てられた。なお渓谷は当初巨摩渓と称されていた(中州三島毅「巨摩渓並序」)。御岳昇仙峡という名称は明治20年(1887)以後からで、命名の由来等は不明。
 大正12年(1923)3月国名勝に指定され、昭和28年(1953)3月には国の特別名勝となる。同25年には同年7月指定の秩父多摩国立公園内の特別地域になった。同28年には全国名勝地百選(毎日新聞社主催)で渓谷の部第一位に入選している。同47年7月には天神森と仙賊滝間の交通緩和を図る目的で開設された御岳昇仙峡有料道路(昇仙峡グリーンライン)が完成した。仙蛾滝上部の猪狩には売店などの観光施設が並び、また羅漢寺山のパノラマ台展望客を迎える昇仙峡ロープウェイ(せんがたき駅−パノラマだい駅)がある。パノラマ台駅の北に旧御岳道の八王子峠があり、八王子を祀る石両(八雲神社)がある。

<写真は昇仙峡のゴミと道路周辺の赤松虫害材枯れ倒壊危険木>
 

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 忘れてはならない水晶伝統工芸技の歴史。今こそ復活

 金桜神社の神主郡が御嶽水晶の伝達者だったことは恥かしながら今まで知らなかった。

御岳の玉造り技術(「技術と民族上」小学館)

水晶は最初、自然のままで床の間の置物などにされていたが、これを研磨し、玉造りする技術を教えたのは京都の玉屋の番頭高木弥助であった.天保5年(1834)、水晶原石を買いに御岳村(甲府市御岳町)を訪れた弥助は、大雨などにより水晶が露出するのを待つその滞在中のつれづれに、ありあわせの包丁や鰍の刃先で水晶を磨く方法を、御岳の金桜神社の神主らに教えた.弥助は次回には、京都から研磨材の金剛砂を持参し、本格的に教えこむようになった。
 こうして、金桜神社の御師(神主・社家)74軒のうち半数が、趣味的段階からしだいに水晶工芸に身を打ち込むようになり、研磨技術を進歩させ、やがて、塩入寿三・相原三有楽・内藤覚造といった名工が輩出した.この三人は、明治9年(1876)、県主催の水晶工芸長期講習会の講師に選ばれ、研磨技術を教え、水晶工芸を盛りあげた。
 初期の研磨工具江戸時代には、玉造り挽割り工具はまだなく、水晶体を両足の親指筋肉に挟み、金槌で余分の部分を叩き落とし、コプカキ(長さ30cm)の四角の鉄棒で両端をとがらせた工具)で、角張った部分を掻き取った.これをさらに、ハリと呼ぶ工具を用いて、細かい角を削り落とし、荒玉に仕上げる.ハリは金火箸に似たもので、大工が使うノミの役目をした。次に、小判形の盥(たらい)を、手前のほうを小高く、前方に傾斜させ、中に摺台板とトイを固定させ、水を加えた金剛砂をトイにときどき入れながら、荒玉を研ぐ.トイは、厚さ1ミリの細長い鉄板を縦に半円に曲げた雨樋の形に似たもので、樋は探さ1〜2cm、荒玉の大きさによってこの溝幅がきまり、数本のトイを鍛冶屋に作らせた。

名工の仕事(「技術と民族上」小学館)

塩入寿三は、カシの木で曲尺をつくり、目盛りをつけて使っいたが、さらに工夫をして6面立方体の箱を作り、その三等面をはずして縁に目盛りをつけ、この中に玉を入れてまわし、球形の的確さを計る工具とした。明治維新後、寿三は、上栗平村向山で掘り出された草入水晶で、直径6寸(約18,2cm)と5寸7分(約17,3cm)の二つの玉を仕上げた.このうち6寸玉はフラソス人に売り、4年半かかって仕上げた5寸7分玉は金桜神社に奉納した。この玉が明治6年(1873)、オーストリアで開かれた万国博覧会に出品された.
 明治10年(1877)、東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に、相原三有楽が出品した水晶作品は、18種類、
81点にのぼり、他の出品老にくらべて種類・点数とも最も多かった。そのなかに、すでに現在の首飾りのさきがけとなる首掛けがあった.
 寿三・三有楽は、その後、甲府に転居し、また、弟子らも甲府で店をもち、作品を販売するいっぽう、裏の一室を家庭工場として、玉をはじめ、指輪・帯止・眼鏡玉・印材のほか、床の間飾りの彫刻ものなどを作ったので、甲府の柳町・桜町が山梨の水晶工芸の本場となった。

原石挽き割り機(「技術と民族上」小学館)

明治23年(1890)、柳町の深輪屋九代、土屋愛道は、メノウ細工の先進地若狭(福井県西部)から職工を雇い入れ、原石挽割機を作った.これは、弓形の鉄製の蔓に時計のスルメ(鋼)を張ったもので、磨き盥の中央盤上に原石を固定させ、長さ61cmの鉄製蔓の重さと、さらに天井から下げた2本の竹の弾力によって、蔓のノコギリが原石面へ食い込み、徐々に水晶を切断していく仕組みである.この原石挽割機の完成により、従来、一石一物に限られていたものが、一石で多数の材右を得
ることになり、水晶業の革命的機械となった。

穴あけ技法(「技術と民族上」小学館)

簪(かんざし)や数珠玉の穴あけ法は、穴あけ台木の上に、膠(にかわ)を熱でとかして張り、その真ん中に水晶玉を置き、膠が固まると固定するので、それを柄がしなう小槌で針をうつ.針は鋼鉄製で、三味線バチのように先端が開いたものを使うと、針二本で穴があけられる。この穴あけ技法と切子連結摺技法が考案されたことで、切子首飾りができあがり、これがアメリカ向け輸出品の王座を占めるようになった.そして、とくに甲府市東青沼町の菅沼工場(菅沼美之作)製作の「スガヌマ・ブリリアンカット」は一流品の評判をかちえた。三角ピラミット形切子の三隅をカットし、玉の斜面に三段の段をつけ、外形は七角面であるが、段の曲折によりさらに数面が加えられ、そのカット線から強い反射光が出るかがやかしさが、外国の女性に受けたのである.
 山梨県産水晶は、大正期、ブラジル産水晶に転換し、第二次世界大戦後は、これに色彩石を加え、カンバスや壁面に細かい石片を接着剤で貼って、一つの画想を構成する貴石画が誕生した工具は手芸からしだいに機械化され、それにともなって、多角的な作品になっている.

参考文献
甲府商工会議所「水晶宝飾史」1986年.
小沢秀之・大森文衛『水晶ものがたり』、私家版、1971年
山梨県水晶商工業協同組合「水晶」1952年
古賀逸策「水晶四十年史」『国際通信の研究』36号、1963年

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 <図版資料は昭和初期山梨県の自然界や名勝地などの資料作成研究に携わり多くの史跡を世に広めた石原初太郎先生の訃を知らせる刊行本>

山梨県の水晶研磨に尽くした人々 

 相原三有楽(あいはらさうら)(「山梨百科事典」山梨日々新聞社編 1972年刊)

1829(文政12)11.25一?。甲斐国巨摩郡北山筋御岳村(甲府市御岳町)金楼神社の神主、相原相模の長男。神主守御師(おし)のかたわら1834(天保5)年いらい御岳に伝わった水晶研磨の技術を覚え、玉や印材など初期の作品から進んで、細工ものに技巧に富んだものを作った。1876(明治9)年、県令藤村紫朗は水晶工芸を甲州特産品に育成するため、甲府城内に設置した勧業試験場の一部を使って水晶加工講習会を1年もにわたり開いた。三有楽はこの指導者に守御岳から招かれた名工3人の1人で最年長者。翌年8月、東京上野公園で開かれた第1回内国勧業博覧会に山梨県からは生糸、織物など440点を出品、うち水晶関係は56口、150点だった。三有楽の出展した水晶玉36個をはじめメガネ、時計鎖、花びん、指輪など16口、約90点。特に後世、水晶装身具で、輸出の王座を築いた首飾りの先駆「首掛け」を考え出品した。「玉二具、十八角一具、二十六角一具、八角一具、草入玉一具、草入ナツメ形三揃」と記録にあり、それぞれを一連にしたものであったが、18角、26角、8角と切り子の多面と角度から放つ水晶の反射光をひき出すことが考えられ、これにナツメ形の異形を添えて一連とした工夫は後世に多くの示唆を与えた。また「十字水晶」の切り子で「えり飾り」を作っているのも後世のブローチの先駆となった。このはか明治(1868−1912年)後期以後流行した水晶花びんや香炉のとってに、同体の水晶から切り抜いて作る連環の初期の作品もあり、水晶工芸界初期の名工である。1901(明治34)年、東京市神田区神田堅大工町へ転籍後、没している。<小沢秀之氏著>

塩入寿三(しおいりとしぞう)(「山梨百科事典」山梨日々新聞社編 1972年刊)

1854(安永7)・4・8−1933(昭和8).1・26。甲斐国巨摩郡御岳村(現在甲府市御岳町)金楼神社神主の石原堅盤の孫の2男に生まれ、同じく神主の塩入石見守の孫の婿となり、塩入を名乗った。神主名は佐仲といい、明治18(1868−1912年)の水晶工芸時代寿三の名を使っている。幼時から父の堅盤に水晶研摩を習い覚え、12歳の1867(慶
応3)年、御岳の人々と、外国貿易で盛んになってきた横浜港を見物に行き、外国商品のガラス製五重塔(当時五条堂と呼んでいた)を買い求めて帰り、その後これを水晶で刻んでみた。これが後人が現在でも作る全反射を利用した特殊加工品の最初である。また寿三は御岳の銘玉つくりとして名を知られるようになったが1873(明治6)年、オーストリアの首都ウィーンで開かれた万国博へ日本政府の名で初めて出品した中に塩入作の径17.3cm(5寸7分)の銘玉もはいっている。上黒平村向山(甲府市)から掘り出した水晶を4年間の日子を費やして玉にしたもの。万国博が閉会後、遠州灘で汽船が沈没したが、沈没船の引き揚げに成功、銘玉も戻り金楼神社に奉納された。この話が明治天皇のお耳に達し、金櫻神社から献納した。現在はは上野の国立博物館に保存されている。その後、寿三は玉泉堂土屋甚兵衛(柳町)方の客分になり多くの名作を刻んだが、山梨大学の水晶館にも寿三の名作水晶玉と水晶硯、水晶花びんが保存されてある。<小沢秀之氏著>

 内藤寛三)(ないとうかんぞう)(「山梨百科事典」山梨日々新聞社編 1972年刊)

1852(嘉永5年12.20−1908(明治41).1.18。巨摩郡御岳村(甲府市)に生まれ、父の誉喜は内藤播磨といい御岳金桜神社の神主である。父から水晶研摩技術を習い覚え、塩入寿三とともに明治(1868−1912年)初期の水晶名工として選ばれた。県令藤村紫朗は1876(明治9〉年、甲府城内に勧業試験場を設直し、その一部を水晶加工場とし、塩入、内藤と相原三有楽の3講師による1年にわたる水晶加工講習会を開き、多数の水晶技術者を輩出させた。寛造は後に甲府市楼町一丁目に水晶店を設け、養子に迎えた内藤斜松は甲府市水晶組合長となった。<小沢秀之氏著>

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