サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

山梨県の文化財検証

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http://blogs.yahoo.co.jp/hakusyunetto2009/1546787.html

 私は樹木医ではありませんが、製材所経営の中で木材や樹木の価値観を見極める能力は一般の人よりあるつもりです。そうした中で樹木を見る目を現在でも養っています。これまで数十年行く先々で多くの巨木や名木を見てきましたが、その中で自らの力で表面樹皮や辺材のみでいき続けて、それが見る人に感動を与えます。

 しかしこうした天然記念物の保存事業の中には、「面体」「装い」「観光価値」などを加味して多くは「ウレタン樹脂吹付」などの化学物質や空洞部分を仮想樹皮として、鉄筋をいれ金網で成型それにウレタン樹脂を拭きつけそして塗装。
 しかしこの保存工事が、ときによれば樹木の存続に悪影響を及ぼすこともあります。
山梨県の国や県の記念物指定樹木の中には再検を要するものが多くあり、特に北杜市内のものにそれが顕著に現れています。「枯れ死した舞鶴の松」「根古屋神社のケヤキ」「大糸桜」「遠照寺の夫婦松」などにそれが見られます。
 確かに教科書では正しくとも、現況が好ましくない場合は直ちに取り除く勇気も必要です。
 もし大糸桜が枯れ死すれば、それは「舞鶴の松」と同様、観光に趣きを置き過ぎた人工枯れ死となります。
 山梨県の場合、その表記看板などすっかり色褪せていりものもあります。維持管理を行政だけでなく民間を交えて見て行く姿勢も大切ではないのでしょうか。

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<甲州金>(『山梨百科事典』山梨日日新聞社編)

<図版は『甲斐国志』>

 甲斐国内にあって国中三郡と郡内領は生活・民俗などで異なる点が多かったが、とくに甲金(幣制)、甲州桝(量制)「大小切(税制)は三郡に限られて、郡内領でみられなかった。
 甲州金は三郡のみに通用した独特の地方貨幣で、武田氏時代以来金座を勤めた松木氏が甲府佐渡町に吹所を置いて、請負制度により冥加金を納めて鋳造していた。元禄時代までの甲金は総称して古甲金とよばれ、その種類は100余に及んだという(甲斐国志)。元禄8年幕府は「元字金」改鋳に際して甲金を元字金に引替えさせる甲金廃止の触を発したが、翌九年国中の大小百姓をはじめ商人・職人などの反対運動が起こり、幣制統一の企図を断念した(「甲金書類綴」県立図書館蔵)。甲府藩成立後、幕府の金銀吹替に準じて甲金の改鋳が行われた。宝永4年「元字金」にならった甲安中金、次いで幕府が乾字金(宝永金)を鋳造すると正徳4年甲安中金を廃して「甲金今吹」を鋳造、以後「享保金」に対する享保六年の「甲重金」と続いたが、柳沢氏の国替で吹替が中途で終わったため、同12年から吹足として「甲重金」と同品位の「甲定金」が鋳造された(甲斐国志)。
当時三郡で日常使用された貨幣は甲金と銭で、甲金は一分判(目方一匁)以下二朱判・一朱判・朱中判(目方一分二厘五毛)の四種で、時々の吹替が行われても民衆にとっては古くから使い慣れた重宝な貨幣であった。甲府家から甲府藩の時代には小判と甲金取混ぜての貢納が許されていたが、幕府領になって以後は年貢その他の上納金はすべて小判に限られ、また従前どおり他国からの移入品の支払には小判を充てなければならなかったことから(前掲甲金書類綴)、貨幣経済の発展に伴い小判との甲金の両替相場いかんによっては両替損を生ずる恐れが多分にあった。
両替相場の変動について「裏見寒話」は「他国より小判多く来るときは下がる。貢納金等に、小判国中に入用の時は上る也」と端的に述べている。

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 最近酸くなってきている山梨県の史跡名勝の観光地。新しく作り直されたり取り組みが容易く観光商品(?)になりやすく、どうでもよいようなものでもテレビや報道で取り上げると人々はすぐに飛びつき出かける見物する。それは本来の自前のよさではなく、紹介されたことへの小さな感動を求めていく。しかし2度とは訪れない。普遍的な観光地はそんなに変わらないまた変えてはいけない。ラーメン屋が新築したら客を失いようなもので、観光地の整備には相当量の配慮が必要となる。
 これは巨木や御神木にもいえることで、観光物件としてみるか樹木信仰でみるかでもだいぶ違ってくる。特に神事に使われてきた樹木を最近では簡単に確かな資料や調査能力のない中で簡単に腐食箇所にウレタン注入したり、蘇生箇所まで保護と称する手を加えて、結果的に存命期間を縮めてしまうことになる。樹木は必要以上の人口修理を可としない。しかし行政によっては何でも手をつけて見るも無残な姿に変えてしまう場合も多く、いったん人工を加えると、御神木はその神の心も御宣託もなくなり、ただの老木に成り下がる。神の声など聞こえてこない。
 私は現在でも数本の巨樹を追跡調査しているが、国の補助金を使って必要以上の保存事業を繰り返している国指定記念物がある。木の周囲をウレタンで包囲して、呼吸困難を呈しているものもある。中は内部がすっかりかびていて痛々しいものもある。
 こうした現場を見ていると、それは保存が求められているのでは無く、それに伴う国の補助金がほしさにやっているとも考えられる。いわゆる事業資金の捻出のために巨木が御神木が犠牲になっているのではないか。事業費捻出ためにこうした行為が繰り返されている現実には私は悲観する。
 樹木にすれば指定など無くて自由に生きて生命期限を全うすることのほうがよい。同じケヤキでも国指定記念物を凌ぐものも多い。そうした樹木は近くの人々の生活に溶け込み、風景になじみ、神の樹木風格もある。誰に見られなくても、行政の手を経て無駄な工作されるより、私はこうした樹木を静かに看まり育てた地域の人に感謝したい。間違っても国指定記念物に指定したり、観光商品にして欲しくない。そっと生かしてやりたい。この樹木がどこにあるか私は忘れてしまった。しかし心の中にはいつも生きていて大きな枝で私を覆っていてくれる。御神木である。

 この樹木の中はまったくの空洞、周囲の細胞のみで生きている。その生きる逞しさは感動する。そこには人の関与を否定する力強さを感じる。だから御神木である。このなかでかくれんぼをしたり、多くの遊び場と自然と人間の一体感を与えてきた木に人工は許されない。手を加えると祟りが起きる。

 末尾の三枚の写真は、現在も保存事業が行われている「国指定天然記念物」のケヤキです。

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「甲州金」文献資料(山梨県歴史・伝説・伝承研究者 泉昌彦先生著作集より)

土塀から甲金ザクザク 甲金地蔵の下からも16個

塩山市千野部落に村田七郎家という旧家がある。「峡中家歴鑑」という甲州武家の総系譜は、実にその家譜を詳しく伝える武家資料だが、村田七郎氏の始祖については、黒川金山最初の発見者だとある。
多分これはすでに採掘されていた黒川谷鶏冠山において、新しい別の間歩を発見したものと解すべきだろう。すでに同市上粟野「村高書上げ帳」では、田辺家も金山の発見考としているから別に金筋を発見した者が重く用いられたものである。
村田家の由緒によると、その始祖は村田弥三と称し(京都出身の僧)、武田氏に仕えていた当初に黒川で金山を発見し、信虎に上申して大いに金脈に当たった。これを奇として作られたのが「金見地蔵尊」で、正しくは千野村字鴬居原に祀り、つつじケ崎の守護のために古府中へ向いていた。
信玄時代は「普譜奉行として仕へ十二代昭貞に至る」と、武田氏より給わった物品も数種あるが、とくに元亀二年(1571)に、信玄より与えられた
「一間棟別共御赦免、然而御普請役隠田等軍役衆可為重、云々」
の朱印状を伝えている。この村田家が、いかに黄金との関係があって栄えたかは、隣村まで他人の地所を一歩もふまなかったという点でも、近くの鳶の宮神杜が村田助之丞正次の創建といわれ、始祖の墓が五輪塔の並ぶ大きな墓地だったことでもわかる。
すっかり産を傾けたことを悔やみもLない七郎氏は、
筆老にその金見地蔵を贈呈すると言い出した。幾重にも辞退したが、この金見地蔵の下から十六個の駒金(石打金)が発見されている。それも真面目なるが故に、むかしの警察へ渡してしまったという。
この甲金は多分、屋敷墓の下にまだ埋もれているだろう。たまたま新仏を埋める時に掘り返した土にまじっていた物であると判じられる。この村田家の真裏にある家来宅の村田源一二さん(現在空屋敷)宅で、土塀を崩したとき、塗り込めてあった甲州古金がザクザクと出て来たのは近年のことで、今は厳重た竹垣をして東京へ移ってしまったので、隣家で行先きを訊ねるのも面倒なので、その駒金の詮索は市の住民課ででも訊ねて、読者に任せたい。ただしザクザクという近所の人の弁の通り、一升マスヘ一杯も出たという程ではあるまいから、量についても、出土の状態も、本人の方が正確だが、東京まで訊ねて行くことは筆渚としても時問が許されないので、埋蔵金の出たことだけは確実である点を保証するにとどめたい。
ともかく、さすがは黄金王国だった甲州のことであるから、埋蔵金だけでも前記のように続々と出ているだけに、今後の発掘の成行き次第で、とんだ大口に当たる可能性も高い。実際に埋蔵金とは、必ず出るというデータによって発掘の範囲を縮めていけば、山吹色に頗が染まるような夢も叶うものである。
本願寺門主顕如と相婿だった信玄が、本願寺へ軍資金だけでなく、出兵して紀州雑賀衆と共同作戦で信長と戦わせたことは、NHKの「国盗り物語」には出て来なかったが、現実には勢州長島の門徒教団が信長に抵抗した長島へ出兵している。その大将の種村兵部丞に対し、武田信豊(信虎の孫)が出した次の印書がある。

「至勢州、長々存陣炎天時分苦身推察候----」
また甲州へは、別に本願寺の教如から末寺へ軍資金を求めた檄文が寄せられている。これは、筆者の生家の寺と程遠からぬ勝沼町の万福寺に三通ほかが遺されているが、愚民の信徒をして武力に対抗させ、双方何十万もの人を殺し合っている点では、いつの世も「万民ノ心ヲ以ヅテ心トスル」為政者は不在のようである。
坊主が戦争や政治に介入することに対し、
「僧トハ影キ珪いでずこけいすまず
(自己)山ヲ不出、客ヲ送リテ虎渓ヲ不過」(無住国師)が本釆の姿で、教団の屋根の高さを競い合うことは、いずれの始祖も本願とするところではなかった。

「三衣一鉢ヲ身二随ガヘテ、四海ヲ以テ家トナシ、父母妻子を離レテ山林二交ル」
宗祖道元も教団を否定し、
「僧トハ水ノ如クニ流レユキテ、寄ル処モナキヲコソ僧トハ云フナリ。従へ衣鉢ノ外二一物ヲ得ズトモ、一人ノ檀那ヲモ頼、ミ、一類ノ親属ヲモ頼ムハ自他トそ二縛住セラレテ不浄食ニテアルナリ」(正法眼蔵随聞記)
と断じ、門徒宗の始祖親驚が、
「死後は鴨川の水に捨てよ」
と言ったのも、教団の主となることは、望みでなかったからである。

信玄の黄金に踊った坊主はあまりにも多い。坊主嫌いの信長が、甲州攻めの折りに、戦さに加担した寺々を片っ端から焼き払ったのも、坊主が戦争の媒介をしていたからである。
信玄の師、快川和尚も、また恵林寺(古文書では栄林寺が本来の名だ)の山門上で、八十余人の坊主、法印、山伏とともに生きながらに地獄の業火の中で果てた。
表土にしか黄金の盛山期が存在しなかった黒川金山の黄金も、幾十万という人間の血を吸ってどこかへ失せてしまい、古府中のつつじが崎へ大穴を開けて、大騒ぎを起こす埋蔵金探しの勇者が現われる始末だ。
「玉ノ台(ウテナ)ハミガケド毛野辺コソ遂ノ栖(スミカ)ナレ」
英雄信玄を、もっと黄金史の裏側から追ってみると、神格化された信玄の映像にも、一個の支配者の束の間の強欲しか映らない。筆者には、黄色い砂塵を捲いて掠奪による英雄を生んだ北方大陸の鏡馬民族の姿を、信玄から思い浮かべずにはいられない。
その信玄時代に盛山の幕を閉じた黒川鶏冠山は、全身に穴を掘込まれた満身創夷の孤影を、佗しく春日の空にかこっているかのようだ。


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