サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

山梨県の文化財検証

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<武田信玄公、ご家中の武士の手柄>(「甲陽軍艦」品第三十九)
一、
・第一に、一番鑓を合せた者。
・第二に鑓で敵を突き伏せての手柄、および馬上から組んで落してあげた手柄。
・第三に二番鑓または一番鑓の脇からの鑓をつけたこと。
この三つの種類をあっぱれな手柄とされた。
・また、自分が所属していた隊から突進して人より先に攻めかかったところ、敵がくいとめることができず、追っていって鑓で突くというのも、一番鑓に劣らぬ名誉である。
・同じく敵中に深入りして退くとき、自分だけが一歩後に残って、ゆっくりと退くのは一番鑓に匹敵する心がけである。
・まして、味方が負傷したのを守って退く、あるいは討死した味方の首を敵にうたせず、首をあげて退いてくるというのも、あっぱれな心がけである。
・逃れる敵を追って取った首は、上の下の手柄である。
・しかし敵を討とうとしているうおに、首を取りそこねることもあるであろう。
・したがって合戦の現場では、どんな者であっても敵ならば、まず討ち取ることである。
・もし悪首と思えば、首帳に記載すべきではあるまい。
一、
また虎口から押し入った場合、城を乗取った場合の戦功の上中下は、その入口において、第一番に敵と鑓を合せたものを上の手柄とする。また城砦の堀が浅くせまく、構造が堅出でないところに、いち早く乗りこんだものを上の手柄という理由は、門口や、堅固でない場所には、城内の兵力が集中しており、弓、鉄砲なども多く備えられているからである。
以上のような定めが信玄公御家の手柄の判断基準である。
一、
かりに五千でも兵を持っている大将を討つのは、武上としては、冥加(連の強い)侍である。だから大切に目をかけることだ。また臣下の首々が、采配を振っている将の首をとった場合も冥加の武士といえる。尊ぶべきだと申された。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。

<信玄公、御一代敵合の作法三ヶ条>(「甲陽軍艦」品第三十九)

1、
敵の強い点、弱い点をくわしく検討する。またその国の大河、山城、財力のようす、その家中の武士たちの行儀、剛の武士が大身、小身のうちにどれだけいるかについて、味方の物頭衆(指揮者)たちに、よくそのようすを知らせておく。
2、
信玄公が仰せられたことで、合戦における勝敗とは、十のものならば六分か七分勝てば、それで十分な勝利であるとお定めになった。とりわけ大合戦においては右の点がとくに重要である。というのは、八分の勝利はすでに危険であり九分十分の勝利は味方が大敗を喫する下地となるから、というのである。
3、
信玄公が仰せられるには、戦闘のしかたとして、四十歳以前は勝つように、四十歳から先には負けぬようにとのことであった。
ただ、二十歳前後のころであっても、自分より小身な敵に対しては、負けたければよいのであって、勝ちすごしてはならない。敵に対しては、なおのこと右のとおりである。十分な思慮判断のもとに追いつめ、圧力を加え、将来を第一に考えて気長に対処していくことが肝要だとのことである。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。

<信玄公、人の御つかいなされ様>(「甲陽軍艦」品第三十九)

1、
第一にまず、陰日向がたいようにということである。人人に陰日向ができるのは、恩賞を与えるにあたって、功績の上中下をよく判断したいときだ。忠節忠功を尽くして、奮闘したということもたい者に、領地を下さるようなことがあれば、手柄のない者たちは、必ず追従をしてうわべをつくろい、出世しようとする。そのために真の忠節忠功の武士をねたみ、その悪口をいって、白分たちの仲問の者をほめたてる。その本心は、主君のおんためなど考えもせず、意地きたなく卑下して動くだけだから、これが陰日向があるということなのだ。
2、
信玄公は、忠節忠功の武上に対しては、大身小身によらず、身分の高低によらず、当人の手柄に応じて、御感状、御恩賞を下さり、人次が最演やとりなしをしても少しも役に立たなかった。これによって人々の陰日向といったことは、まったくなかったのである。
◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。

武田信玄の遺言そのニ

29、 
跡継ぎについては四郎勝頼の子息、信勝が十六歳になったら家督を譲る。
30、 
それまでは陣代として、四郎勝頼に申しつける。ただし勝頗に、武田累代の旗を持たせることはない。わが孫子の旗・将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の旗、いずれもすべて持たせてはならぬ。太郎信勝が十六歳の家督をつぎ、初陳のおりには尊帥(孫子)の旗だけ残し、それ以外はすべて痔って出陣せよ。
31、 
勝頼は前のよう大文字の小旗を持ち、差物、法華経の母衣は典厩(信豊)に譲ること。
32、 
諏訪法性の冑は勝頼が斎用し、そののちに信勝に譲ること。
33、 
典厩信豊・穴山信君の、二人は、信玄が頼りにしていることゆえ、四郎を屋形のようにもり立てて万事につきとりおこなってもらいたい。
34、 勝頼の倅で七歳となった信勝を信玄のように重んじて、十六歳となったとき家督にすえてほしいのだ。
35、 
なお、自分の葬儀は無用である。遺体はいまから一二年後の亥年四月十二日に、諏訪湖へ甲冑を着せて沈めてもらいたい。
36、 
信玄の望みは天下に旗をたて号令することであった。が、このように死するからは、つまるところ都に上りながらも支配を固めることができぬままで果てるより、いっそいまのままならば、世の人々は、信玄は命を永らえれぼ、都に上ったであろうにと評価するだろうから、大慶というものである。
37、 
なんとしても、戦いの面で信長・家康のように幸運に恵まれたものたちと戦いを重ねたために、信玄は、いっそう命を縮めてLまったものと考える。
38、 
たとえていえば、矢勢が盛んな時は何でも射ぬくものだ。矢の勢いが盛りを過ぎた頃には浅く射るようになり、さらに過ぎれば白然に矢は地におちる。そのように人の連勢も長くよいことばかりは続かぬものだ。幸運な勢いが過ぎぬうちに盛んに戦勝して領土をひろげはじめたが、今天道から見放されようとしているのだ。
39、 
信玄が信長・家康との戦いで一対一だったならばこれほど早く命を縮めることもなかったのだが逆に、戦いでは信長・家康は二人がかりでも信玄に匹敵しないのだから、やはり(実力でなく天道が運命を決められたので、天が先に信玄を召すのだ。
40、 
その証拠に輝虎も三年の間に病死なされるはずだ。そうなれば信玄の次には輝虎が実力者であったのだから、信長を    踏みつけ破る者はいなくなると、仰せられる。
41、 
次に勝頼のとるべき戦略として、まず謙信輝虎とは和議を結ばれよ。謙信は男らしい武将であるから、若い四郎を苦しめるような行いはするまい。まして和議を結んで頼るといえば、決して終始約束を破ることはすまい。信玄は、大人気なくも謙信に頼るということを最後までいわなかったために、ついに和議を結ぶことがなかった。
42、 
勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りとするのがよい。謙信はそのように評してよい人物である。
43、 
次に、信長が侵攻してきた際には、難所に陣をはって持久戦に持ちこむこと。そうすれば、敵は大軍で、遠路の戦いであるから、五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労し、無謀な戦いをいどむであろう。その機会に一撃を加えて破れば、相手は立直ることはできまい。
44、 
家康は信玄が死んだと聞けば、駿河にまで侵入してくるであろうから、駿河の国内に引き込んでから討ち取ることとせよ。小田原(北条氏政)は、強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。
45、 
氏政はきっと信玄が死んだと聞けば、必ずや人質をも捨てて裏切り、敵となるであろうからその覚悟をしておくように、と御一族や家老の大将に言い渡された。
46、 
弟の逍遥軒(信廉)は、今夜、甲府に使いに行くといって、心安い従者四人を連れ、出るふりをして、従者たちを土屋右衛門尉のところに預けよ。そして明日の早暁、輿に逍遥軒を乗せ、信玄公は御病気のため甲府に御帰陣になるといえば、我ら(信玄)と逍遥軒とを見分ける者はあるまい。永年見てきたところ信玄の顔を誰もがしかと見た者はないということになると、逍遥軒を見た者が必ずや信玄は生きていると思うのは確実である。
47、 
四郎は、くれぐれも好戦的にふるまうことがあってはならぬ。そして信長・家康の運の尽きることを待つことが肝要である。
48、 
運命を哀えさせるもの、それは身を飾り、ぜいたくにふけり、心おごること、この三つである。はじめに信玄が信長・家康の運の尽きるのを待てといったのは、勝頼への注意でもあるのだ。
49、 
その道理は、信長は信玄よりも十三歳若く、家康は二十一歳若く、謙信は九歳、氏政は十七歳若い。そのため彼らは、信玄の末路を待っていたのである。
50、 
一方勝頼は、謙信より十六歳、信長より十二歳、氏政より八歳、家康より四歳、いずれにもまして若いのであるから、彼らのような年長の考どもに負けぬようにし、これまでに信玄が取って渡した国々を危げなく持ちこたえることである。
51、 
そして、もしも敵どもが無碑な戦いを仕かけてきたならば、わが領国の中に引き入れ、必勝の決戦をいどむことだ。
52、 
そのときに、信玄が使ってきた大身、小身、下々の者までが一体となって奮闘するならば、信長・家康・氏政の三人が連合してこようとも、こちらの勝利は疑いあるまい。
53、 
輝虎(謙信)については、他と共謀して四郎を苦しめることはあるまい。武勇においては信玄が死んだのちは、謙信である。
54、 
天下を手にした信長と、武勇日本一の謙信との運命、この両人の運が尽きるのを待ち受けよ。
55、 
万事について思慮判断、将来への見とおしは、信玄の十倍も心するように、と仰せられる。ただし、敵がそのほうをあなどっていどんできたならば、甲斐の領内まで引き入れ、耐えぬいたうえで合戦をとげるならば、大勝利を得ることができよう。決して軽率な戦さはしてはならぬ。と、馬場美濃守・内藤修理・山県昌景にくわしく御指示なされた。
56、 
その次に信玄が生きている間は、氏康父子も謙信も信長、家康もみな国を取られぬようにと用心をしていたにもかかわらず、北条は深沢、足柄地方を、家康は二俣、三河の宮崎・野田、信長は岩村・堪の大寺・瀬戸・恵那までを信玄に取られている。
57、 
謙信の領地の越後だけは、こちらに奪い取ることはなかった。高坂弾正の部隊だけの力で越後に侵入し、謙信の居城春日山から東道六十里のところまで入って放火、掠奪を働き、女子供を奪って無事に帰還したのであるから、我ら信玄とかたを並べるというわけにはいくまい。
58、 
信玄病中とはいえ、生きている問は、わが領国に手出しをする者はおらぬはずである。三年問は深く慎め、といわれて御目を閉じられた。
59、 
また山県三郎兵衛を呼び、「明日はそのほうが旗を瀬田に旗を立てよ」、と仰せられたのは、御心が乱れたためであろう。しかし、しばらくして目を開かれて仰せられる。「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流』と遺作の詩句を残され、惜しいことに、誠に惜しいことに御歳五十三歳にして、朝の露と消えられたのである。
60、 
御家中各右、御遺言のとおりに取り計らったが、家老衆が相談の上遺体を諏訪湖にお沈めすることだけは取りやめることになった。
61、
三年後の四月十二日、長篠合戦の一月前に、七仏による御葬を営んだ。
62、
信玄公御一代の御武勇、御勝利にほどは、三十八年間、一度も敵に背を見せられたことはなかったのである。以上

《註》「大底還他肌骨好不。塗紅粉白風流」
----不朽の本質的なすこやかな人カの全身に伝えよう。それは少しも飾気がなく、自然に風流なのだから----

◎天正五年(1576)丙子正月吉日 高坂弾正これを記す。

姿を消す富士山の野鳥

姿を消す野鳥
朝日グラフ1961新春号 掲載記事「開けゆく裾野」より

最後に、こうした登山者や開発によって大自然の姿が失われてゆくのを野鳥研究家中村幸雄さん(昇仙峡在住)は、悲しみながら、こう語る。
富士山は高いだけに、気候、地形も上から下までさまざまな変化をもっている。植物の分布も草林地帯、針葉樹林、広葉樹林、針広混合林と非常に豊富だし、それにつく昆虫類もさまざまだ。木の実や虫などエサが多いから富士は日本一の鳥獣の生息地として名高い。とくに繁殖鳥類は四十一科二百十種を数えている。その野鳥が、最近は目立って減りつつある。木を切りはらわれて、ヤマドリやクロツグミが影をひそめ、相次ぐゴルフ場の出現で草原にすむキジやホオジロ、ヒバリが住み家を奪われた。
五月、裾野をゆくと楽しげな小鳥の鳴き声が終日木陰にたえないが、この可愛い小鳥のさえずりが消えてしまうとしたら…。開発はやむをえないとしても大自然の面影は壊さずに、とどめておいてほしい。

日本一のゴミ捨て場
朝日グラフ1961新春号 掲載記事「開けゆく裾野」より

登山老のエチケットがなってない。あたりかまわず紙くずを捨て、空きかんをすてる。紙くずは風で飛び腐りもするが、空きかんは年々登山道、にうず高くいたるところに山をなす。どこの山も近ごろ汚れがひどいが富士ほど汚ない山も珍しい。日本一の高いゴミ捨て場と化した体たらくはアメリカの雑誌にも紹介された。
本場のアルプスでは、ゴミなど探したくても見つからず、吸殻の捨て場にも困るという。ビールやジュースの会社も儲けることばかり考えず、今年からは後片つけの費用でも寄付したらどうだろう。登山者にも、清掃代を払えといいたくなる。
「山頂は神杜に返すのが当然だ」
「いや、国有が本当だ」
と四年越し浅間神社(あさまと呼ぶのが正しい)と国の間で争われてきた山頂帰属間題も、今年の夏前には名古屋地裁で決着がつくようだ。どちらに所属がきまるとしても、いまのようにプーンと臭気が鼻をつく山頂であっていいわけはない。

貧弱な山小屋
朝日グラフ1961新春号 掲載記事「開けゆく裾野」より

山小屋もおそまつ極まる。最近サービス改善にのり出したアルプスの山小屋などとは大違い。部屋も汚ないしメシもまずい。このままではとても観光客を呼ぶどころの話ではない。それにはそれなりの理由もある。富士山五合目でたったひとつ冬も小屋を開いている佐藤小屋の佐藤善治さんは
「むかし、富士講が盛んなころの登山は東京から一週間かかった。山では少なくとも一泊したものだが、戦後は日帰り登山で、客は泊まらず休むだけ。小屋相互の競争もはげしいし、大勢きても、金はおちな<なりました。私も三百万円なら喜んで小屋の権利を譲ります」
という。それでも登り道にある小屋はまだいいが、下山道にあると、客は文字通り素通りするばかり。
登頂千六百回の記録をもつ後殿場の梶房吉さんは、七合目の小屋の経営者だが
「オリンピックまでに小屋をよくしたいのはヤマヤマだが、個人の資カではとても改造などおぼつかない。今後は現存の小屋の経営者が共同出資の形で一つの会社をつくり、小屋の数も減らし立派なものにしなくてはダメだと思うが、話は容易にまとまるまい。大資本がのり出してくれれば別だが」
という。御殿場口には小屋が十八軒あるが千〜千二百万円で権利一切を買い占めできるそう


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