サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

さぶやんの歴史散歩

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▽ 市川團十郎発祥の地三珠町
  ホームページ『甲州勤番風流日誌』より
 甲府盆地の南に位置する三珠町は歌舞伎の市川團十郎発祥の地であるとされている。
 この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上 野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越 十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。
 その孫の重(十)蔵は弟に田畑を譲り江戸に出る。その子として生まれたのが蝦蔵である。そして十四歳で初舞台をふみ芸名を「市川段十郎」と名乗った。芝居で紅と墨を使い、顔に隈取りをして、斧を持って激しい立ち回りを荒々しく演じた。これが好評を博し後に荒事と呼ばれ、市川家の芸風の基礎を作る。二十歳になり「団十郎」を「團十郎」に改める。「国構えに専らと書く。日本で一番えらい役者という意味だ」と言う意味で文字通り日本一の役者になる。ただ初代市は川團十郎役者仲間の生島半六に刺されて四十五歳の生涯を閉じる。
 これが市川團十郎のル−ツが西八代郡三珠町であるゆえんである。ちなみに現在の十二代市川團十郎の本名は堀越夏雄氏であり、三珠町の名誉町民である。
 現在一条信龍の城のあった甲府盆地南の曽根丘陵に歌舞伎文化公園が建てられている。そこは江戸歌舞伎の最高峰市川團十郎に関する市川家寄贈の資料が展示されている。中に入ると九代目市川團十郎の市川家十八番の演目「暫」の写真が迎えてくれる。初代から十二 代市川團十郎の役者絵と写真それぞれの紹介がかかれている。
 一条信龍の館址は蹴裂神社となっていた、昭和のはじめに五代目市川三升がこの地に「 市川團十郎発祥の地」という標識を建てた。それもいつしか朽ち、第十一代團十郎が再度建てたがそれも朽ちたが、現在の團十郎がまだ十代目市川海老蔵が昭和五十九年十一月に 顕彰碑をこの地に建てることになった。
 私は2000千年十一月十九日に朝早く訪ねた。中に入ると案内の男性がおり、客が私  一人であったこともあるが、一時間近く話を聞かせてくれた。それは私があれやこれや質問したこともある。
 資料館の外は牡丹園になっている。そしてその中央の正面に「市川團十郎発祥の地」と 刻まれ、上部には市川家の紋「三升」、右側面にはイライラが募って竹の根を抜こうする  がなかなか抜けずに体が赤くなるという初代の役者絵「竹抜き五郎」が浮き彫りにされて いる。
 ちなみに市川家の花とされている牡丹の花であるが、二代目に由来するとされてい る。二代目の贔屓方であった江戸城大奥に権勢を張った絵島(?確かな記憶ではないが)が二代目に贈った着物の柄が牡丹であったところからそれを使うようになったという。
 (中略)歌舞伎はいろんな意味で市川家のル−ツ甲州が影響を与えている。
 まず市川家の家紋の三桝は三つの桝が三個重ねあわされたデザインである。歌舞伎の役 者絵にも誇張された袖に市川家の三桝が描かれていることから目にされている方も多いであろう。一番大きな桝が甲州桝、中の桝が京桝一升、中央の桝が京桝五合である。甲州桝 は京桝の三倍、三桝である。
 ここから市川家が歌舞伎の芸名では「團十郎」を使うもののそれ以外の書や絵の場合は 「三升」を使っていることが理解できるであろうか。
 さらに團十郎の話によると、江戸歌舞伎の荒事の言葉の荒っぽさは甲州弁に起源がある とのことである。
 市川の姓は三珠町の隣にある市川大門町であることとなんか関係があるのだろうか。
 初代團十郎は自らのルーツがここ市川の庄にあることを知っていたのであろうか。(諸説あり初代團十郎が千葉県市川の生まれというのもある)
 また舞台で「成田屋」!と声をかけられる意味も團十郎の祖先が甲斐から成田の庄に逃れたからということに起源があることをご理解いただけるであろう。




▽ 『市川団十郎』……人物叢書 西川松之助氏著
 (前文略)
 市川家の祖先については、甲州の士で、永正年中(1504〜1521)北条氏康の家 臣となり、小田原の没落後下総(千葉県)幡谷村に移って郷士となったが、のち慶安年間(1648〜1652)に江戸に出た。とするものと(焉馬筆『市川団十郎家譜』)市川 家は奥州坪の碑(イシブミ・宮城県)の近在に在る市川村から出たとするもの(『松屋筆記』巻四)などがあるが、今日では前者が有力である。 すなわち武田後北条の浪人であったが、武士出身で父の重蔵の頃から江戸に出て江戸の 劇場街に近い和泉町に住み着いた。この人はなかなかの利けた者で地主組合の組合長になり、町の顔役でもあった。一方またその当時有名な侠客であった唐犬十右衛門とも親交の間柄  にあり、彼自身、菰(コモ)の重蔵と呼ばれる侠客仲間であった。
 それで初代団十郎が万治三年(1660)に生まれたとき、侠友唐犬十右衛門はみずか らその名附け親となって、これに海老蔵と命名したと伝えられている。このような初代団十郎の荒事はその出自にも深い関係があったことを容易に想像することができる。

▽ ホームページ『成田屋早わかり』テキスト−服部幸雄氏著『市川團十郎代々』
   〈祖先〉
   團十郎の祖先の出自は諸説ある。
 ●代々甲州(山梨県)の武士であったが、下総国(しもうさのくに)埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、初代の父親の代になって市川の郷士となった。その後、慶・承応(1648〜55)に江戸に出たという説…烏亭焉馬『市川家譜』

 奥州坪の碑の近くにある市川村から出たという説…『松屋筆記』巻四
葛飾郡市川村から出たという説…栗原東随子(東随舎)『古今雑談思出草子』  
 宗教的性格がひとり團十郎の芸だけに色濃く付与されているので、あるいは、宗教的芸能民の血筋が流れているかもしれないと想像される。

 十代目は甲州出身説をとり、山梨県西八代郡三珠町を市川團十郎家の発祥の地と断定し た。それを受けて十一代目は三珠町に発祥の地の木標を建立。そして当代團十郎襲名にあ  たり、昭和59年(1984)十一月には黒御影石の発祥記念碑が建てられた。さらに平 成六年(1994)四月には三珠町歌舞伎文化公園が完成した。

▽ ホームページ『やまなしマップ百科』
 初代市川団十郎の大祖父は甲斐武田氏の武将一条信竜に仕えた堀越十郎で、北条氏との 戦いの武功によって、三珠町の地を拝領したと伝えられる。武田氏滅亡後は千葉に移り、孫の重蔵の代に江戸へ。その子蝦蔵は十四歳で山村座の舞台を踏み、市川段十郎を名乗っ た。
 十二代団十郎は先祖の地の顕彰を実現しようと、三珠町上野に市川家の紋「三桝」をあしらった碑を1984(昭和59)年建立。町は88年、碑を中心にした歌舞伎文化公園を造成、意までは「歌舞伎の町」としてすっかり定着している。

 こうして資料を読み取れば、市川団十郎の初祖についての史実は曖昧な内に
 十代目は甲州出身説をとり、山梨県西八代郡三珠町を市川團十郎家の発祥の地と断定し た。それを受けて十一代目は三珠町に発祥の地の木標を建立。そして当代團十郎襲名にあたり、昭和59年(1984)十一月には黒御影石の発祥記念碑が建てられた。さらに平 成六年(1994)四月には三珠町歌舞伎文化公園が完成した。
 となり、これが
▽ 市川団十郎の祖は甲斐の三珠町の出自地の歴史なっていくのであろうか。史実とするには確かな史料を積み重ねることが肝要である。歴史は創作してはならない。
山梨県西八代郡三珠町のいう説は、合併により誤った認識のまま歴史となっていくのであろうか。





歴史は創作してはならない

『俳優世々の接木』による市川團十郎は
  本国 甲斐
 傳ニ曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。農堀越氏といふ。        (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 この記載のように甲斐の市川の出自としたほうが史実のように聞こえるがいかがなものであろうか。団十郎が記載されている著書は多く見られる。

▽ 『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)

 元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。 堀越某カ男、幼名海老蔵。(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

▽ 「團十郎の家紋、三升」

 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案 化したものである。一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝え る。(『役者名物袖日記』)
  
 また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は 「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得たという説もある。正確な由来はわからない。 (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)  

 ここで、市川家家系について記述し本人も談洲桜と名乗って、団十郎と無二の親友であった烏亭焉馬について調べてみた。

▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 
 『江戸時代おもしろ人物百科』 

 寛保三年(1743)に生まれる。
 本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。 本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。
 主著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』 『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。

▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬
  『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著
 年80歳。江戸出身。寛保三(1743)〜文政五(1822)
 本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。
 父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうものか自宅では木綿製の足袋を売ってい た。大工の棟梁からきた狂号を「鑿言墨金」と称した。
 相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。
 さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。
 また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々
   
▽ 市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬  
 『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著

 烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だん じゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係 の親密さを物語るもののように思う。
 焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気 団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々

▽ 『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」
   『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著  市川家
 元祖市川團十郎三ケ津立役の開山
 才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)
 堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。

 さて市川家と甲斐の関係が見える資料に次の著がる。

▽ 甲府の芝居と亀屋座(四)…               … 小沢柳涯著 『甲斐』第四號所収
 ○ 寛政五年(1793)六月、市川蝦蔵(五代目團十郎)来る、狂言は「御前戀相撲曽我」に「鏡山」。 局岩藤。工藤祐經(蝦蔵)、お初(富三郎)これは江戸河原崎 座の於ける狂言にて、市山富三郎は瀬川菊之丞なりと。
 ○ 此年秋八月、お馴染みの坂東彦三郎、瀬川菊之丞と共に来り、「假名手本忠臣蔵」を演じ、彦三の由良之助と菊之丞の顔見尤も好評あり。
 ○ 同七年六月、又々蝦蔵一座、亀屋座に来る。狂言は「碁盤太平記白石噺」、大切浄瑠璃の作事「積變雪 關扉」にて、初代男女蔵初めて登場。男女蔵は白猿門下の秀才にて此時歳漸く十五。
 ○ 同九年六月、重ねて市川蝦蔵来る。白猿一世一代の触込にて、乗込み前より夥しき人気なり。外題「菅原傳授手習鑑」。
 ○ 役割は、源蔵女房千代(佐野川市松)。菅丞相、武部源蔵(坂東三津五郎)、松王丸 (蝦蔵)
 ○ 蝦蔵は前年(寛政八年)十一月、江戸の都座にて「大當源氏」に碓井貞光「暫」に修業者實は相馬太郎、二番目に山姥の分身を勤め、之を一世一代として舞臺を退き、成田屋七左衛門と改名して江東向島に閑居せりとある故、甲府へはお名残りの為時に出演せりと思はる。

 さて市川団十郎と言えば成田山新勝寺との関係が深い。その成田山と団十郎の関係については次の著がある。

▽ 成田山新勝寺
……『郷土資料辞典』「千葉県・刊行と旅」
 (前文略)
 寺は中世に入ると衰退したが永禄九年(1566)成田古薬師に移転され、近世初期、 佐倉藩の祈願所として復興された。元禄十三年(1700)香取郡医王院から入山した昭範上人は寺の再興を図り、宝永二年(1715)寺基を現在地に移して諸堂塔を造営、寺 観を整えるとともに、不動尊の霊験を世に広く宣伝し、多くの信者を集めて、今日の隆盛 の基礎をつくった。昭範上人が中興第一世とされている。

 江戸の市民たちの、信仰とレクリエ−ションを兼ねた「成田詣で」が盛んになったのもこのころからで、その要因の一つとして、江戸出開帳と、歌舞伎役者の初代市川団十郎があげられる。

 江戸出開帳とは不動明王本尊と二童子像を厨子に納め、佐倉街道を経て江戸に出向くことをいい、第一回は元禄十六年におこなわれ、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝したという。以後明治31年最後の深川出開帳まで十五回を数え、江戸市民と成田山の接触を 深めた。

 初代市川団十郎は今の成田市幡谷の出身で、団十郎の屋号を成田屋と呼ぶのも、これによる。子宝に恵まれなかったが、ひたすら不動尊に念じて一子九蔵、後の二代目団十郎を授けられてから不動尊を取り入れた芝居、いわゆる荒事芸を演ずるようになった。これが当たって、市川団十郎とともに成田不動の名を、江戸市民に深く印象づけることとなった。 七代目団十郎も成田山の授り子といわれ、天保十三年(1842)、老中水野忠邦による天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸を追われたとき、成田屋七左衛門と名を改め、暫く成田山内の延命院に身を寄せている。



▽ 初世市川団十郎
荒事開山(『日本の歴史』「任侠の群像」今尾哲也氏著)

 江戸の随市(一)川とたたえられて久しく江戸歌舞伎に君臨した市川家の祖初団十郎は町奴の子であった。
 父は堀越重(十)蔵。下総国羽生郡幡谷村の富農の家に生まれたが、生来農業を嫌い、 任侠の道を好んで、正保年中(1644〜47)、家を弟に譲り、江戸に出て和泉町に住み、名を幡谷重蔵と称した。豪気な性格に加えて筆も立ち、計理の才もあったところから、地主の代理人となって信望を集めた、その間、唐犬組の首領唐犬与兵衛(のちに十右衛門)や幡随院長兵衛などの遊侠の徒と交わり、異名菰の重蔵とも面疵の重蔵とも呼ばれた。母はやはり町奴遅蒔重兵衛の娘。
 その父が三十二歳、母が二十一歳の年に団十郎が生まれた。万治三年(1660)五月 のことであった。唐犬十右衛門は親友に男の子ができたのを喜び、お七夜の日、名付け親となって海老蔵と命名し、自宅に掛けてあった海老の絵を贈ったという。海老蔵は幼時から芝居を好み近くの劇場に毎日のように遊びに出かけ、やがては自分も役者になりたいも のだと願っていた。
 ちょうど父の友人に座主三世山村長太夫がいた。その世話で、間も無く彼の願いはかなえられ、延宝元年(1673)、十四歳の折、市川団十郎と名乗って中村座で初舞台を踏んだと伝えられている。

 貞享二年(1685)という年は、彼個人にとっても、一時期を画する輝かしい年となった。市村座の『金平六条通い』に、坂田金時に扮した団十郎が、荒事の芸に、新しい道を開いたからである。荒事とは和事に対する呼び名で、怪力勇猛の武人や超人的な威力の持ち主の、荒々しい所業を表わす演技の一様式をいう。
}: 昔から日本人には、ある事物、ある現象の在り方を和と荒の対立によってとらえる習慣 があった。神霊の平和で静かな状態をさして、人々はそれを荒御霊といった。御霊の勢いが烈しさ、猛々しさを示す言葉であったのだ。荒事と呼ばれる演技は、奴つまり任侠、無 頼の徒の粗暴な風俗を写すことからはじまったらしい。ついでそれは、祭らぬ者に恐ろしい祟りをもたらす荒ぶる神(御霊神)のイメ−ジを介して、怒り、荒れ狂い、世の秩序を破壊しょうとする悪人の表現に用いられた。
 団十郎はすでに、そのいずれにも通じていた。その土台の上に、彼は、金平という人物 の創造をとおして、悪を威圧して正義を貫く、超人的な力をもつ武人を表わす荒事芸を生み出したのである。云々

続けて初代団十郎の記載のある書著を列挙してみる。

▽ 団十郎の系譜 『歴史への招待』藤田洋氏著 

 初代の事蹟はよくわからない。先祖は甲州の武士堀越十郎、武田家滅亡ののち下総埴生 郡幡谷村に移り、その子孫の重蔵が江戸に出て男子を設けたのが、初代団十郎だったという事になっている。異説もある。市川姓は生まれた葛飾郡市川村からとったともいう。

▽ 初代市川團十郎 『江戸時代人物百科』

 万治三年(1660)江戸和泉町に生まれた。父は下総國埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)延宝元年(1673)十四才の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。

 さて市川団十郎や歌舞伎のことについて最もその著が多い服部幸雄氏編の『市川団十郎代々』団十郎家の先祖には団十郎の祖については言及を避けている。

 初代市川團十郎の先祖は謎に包まれていて、よくわからない。烏亭焉馬の『市川家家譜』 によると、代々甲州の武士で、永世年間(1504〜21)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代になって市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648〜55)のころ江戸に出たという。

 別に奥州「坪の碑」の近くにある市川村から出たという説(『松屋筆記』巻四)、葛飾郡市川村から出たとする説(後述)などもある。このころの芸能者の出自が明白であるのはむしろ不自然というべきで、後代になってからもっともらしく創作された可能性が濃い。通説に従えば、初代團十郎は万治三年(1660)江戸の和泉町で生まれ、幼名を海老蔵と言った。享保十五年(1730)に作られた初代の追善句集『父の恩』の記事によると、父親は堀越重蔵(十蔵とも)と言い、幡谷村の土地を弟に譲って江戸に出たのだとのことである。人望厚く地子惣代を努めるほどの顔役だった。侠客と交際もあり、「菰(こも)の重蔵」とも、また顔に疵があることから「面疵の重蔵」ともあだ名されていた。 著名な侠客唐犬十右衛門と親交があり、初代團十郎の幼名海老蔵の命名者は十右衛門だという伝説も語られていた。

 上記に述べた團十郎の家の出自にまつわる数々の伝承は、正確であるという保証はないが、初期の一歌舞伎役者の素姓に関する何らかの真実を伝えているように思われるし、のちに荒事の宗家となる市川團十郎の故郷としてもふさわしい。
 だがここにはなお隠された真実があるようにも思われる。

 さて団十郎の初祖についての諸著の記述を比べてみると、その内容は大きく食い違っている。烏亭焉馬の『市川家譜』によると、

 代々甲州の武士で、永正年間(1504〜20)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代になって市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648〜55)のころ江戸に出たという。 

『山梨県人物博物館』には
 この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家 の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州三益峠の法条氏との戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されている。

 堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙谷 村(千葉)に逃れた。 

 三珠町の「歌舞伎会館資料」は、

 この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越 十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。
 焉馬の『市川家譜』では、初祖は永正年間にすでに甲斐を離れている。永世年間といえば、武田信虎の時代であり、大永元年(1521)には信玄が生まれている。よって初祖は甲斐に生まれたが武田家の家臣ではなかったことになる。武田家の家臣を幾ら探っても「堀越」を姓とする武将は居ない。山梨県には「堀越」の地名も存在していない。
「歌舞伎会館資料」の、
堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。
の下りは史実と言うより創作色が強く感じられる。こうした事象が若し事実であれば、その根拠となる史料の提示が欲しい、その資料の信憑性を確認したい。

 多くの人は単純に、「市川団十郎の初祖は市川大門に関係ある」と思っているのではないか。三珠町に近接する市川大門町と団十郎の関係事績や伝承はないのである。
 さらに言えば武田信玄の能の師匠に堀越十郎家宣という人物が居たことも史料には見えない。 また一条信龍の家臣だったとの記述も論拠を持たない説と思われる。適切で有効な史料の出現が待たれるところである。

 


歴史は創作してはならない
市川団十郎の初祖を探る


はじめに

 歴史とは、さまざまな形で人々に伝わる一面を持っている。最近は新たなイベントなどの催しが盛んで、イベント興行の為に歴史を歪めることはないのであろうか。
 例えば山本勘助という人物をドラマや小説や演劇で取り上げると、その製作者の意図のままに自由に描かれ、勘助の存在が数十人も生まれることになる。専門家ならともかく、一般の人にはどれが本当に勘助像なのかは判らなくなる。
 その他にも連続ドラマなどでは、観る人々に美しく感動するように描くので、小難しい歴史の話よりもそちらのほうが親しみやすく受け入れやしい。
 今回、井上靖の「風林火山」が大型ドラマに決まり、山梨県を挙げて観光の目玉にする取り組みが始まっている。不思議な事にその武田信玄の軍師山本勘助の山梨県の足跡や事績は殆どない。ドラマはドラマとして、こうした機会にこそ、史実の確認が急がれるが筈なのに、一様に観光面やそれを利用したイベントに力を要れ、歴史が壊れることなど誰も考えていない。それどころか歴史家の中には同調する御仁も居られる。
 ここに挙げる初祖市川団十郎の誕生地とされ三珠町も、施設の為に作り上げられた歴史を持つ側面を有しているが、誰も取り上げずに既製の事実として時は過ぎ去っていき、官庁ご用達の歴史家も触れようとしない。
 不思議な事に、過去の「甲斐国志」や山梨の地域歴史書は全く触れていないし、三珠町の町史にさえ一行も書かれていない市川団十郎の祖先の足跡が「歌舞伎会館」建設により、曖昧模糊とした伝承を歴史に格上げして、史実のようにしてしまった。山梨県内ではこのようにイベントや施設建設により多くの歴史を歪めてしまった。これ以上過ちを犯してはならない。
 史料を収集してそこから初祖団十郎の歴史的な価値観と、甲斐との関わりが何処から生まれたか探ってみたい。

 ……市川團十郎…… 『俳優世々の接木』
 本国 甲斐
 傳に曰、先祖は甲斐市川村ノ産にて其子重蔵ハ下総國佐倉領幡谷村の郷士と成苗代をつぐ。農堀越氏といふ。    (『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)   

 ……『明和伎鑑』…… 明和六年(1769)
 元祖市川團十郎、三ケ津立役の開山。才牛。下総國佐倉の住人。幡谷村(一本成田)。堀越某カ男、幼名海老蔵。
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 ……團十郎の家紋、三升……
 市川團十郎の定紋。米を計る升の大・中・小三個を入れ子にして、上から見た形を図案化したものである。
 一説に、初代團十郎が不破伴左衛門の役の衣装に使った稲妻の模様から転じたとも伝える
  (『役者名物袖日記』) また、團十郎の祖先は甲斐國東山梨郡市川村の出身とする説を踏まえ、この地方の升は「甲州の大升」といわれ、一升が普通に升の三升に相当するほどの大きさからヒントを得たという説もある。正確な由来はわからない。  
(『市川團十郎代々』服部幸雄氏編)

 初代市川団十郎の祖は甲斐国の出身とされているが、その史実を示す資料は少なく、その信憑性は一考を要する。
初代団十郎の祖についてはじめて語ったのは、五代目の友、烏亭焉馬である。
 不詳であっても著名な人々が史実のように、繰り返すことで史実もどきが、何時の間にか史実として人々に伝わる事は歴史には多くみられる。この拙著は長年の調査資料から市川団十郎の初祖を中心に論を展開していく。浅学の為一部誤字脱字や語釈もあると思われるが、その辺は適切に正していただきたい。また初祖団十郎以前の資料をお持ちの方は是非ご連絡をいただきたい。
  
  市川団十郎についての調査報告

 かの有名な千葉県成田山新勝寺の案内文によると

 ……成田山新勝寺の案内文……
成田屋の屋号を名乗る市川團十郎は、代々、成田山とは深くて強い縁で結ばれています。初代市川團十郎は江戸時代の万治三年(1660)に生まれたが、その父堀越重蔵は下総国埴生郡旙谷村(成田市旙谷)出身でした。今でも成田市旙谷の東光寺の墓地には、二代目が建てた初代団十郎の碑があります。

 また初代市川団十郎の墓地については、次の記述がある。
 
……市川團十郎の墓地……
常照院はかって歌舞伎の名門である市川團十郎の菩提寺であり、当家の墓所がありました。初代團十郎が刺殺という不慮の死を遂げたのは元禄十七年(1704)でした。いかなる縁かその遺骸は、徳川将軍家の菩提寺で芝増上寺の子院である当常照院に葬られました。現在も三升の紋の香合、五代目が寄進した七代目が修理した一対に唐金(銅)の灯籠、そして七代目文政元年(1818)に贈った石の手水鉢などがその歴史を語っています。八代目團十郎は大阪で自害し、やはり浄土宗である大阪の一心寺に葬られ、常照院には遺髪が納められたそうです。
その後時代は明治に移り、市川家の復興をはかった革新的な九代目の團十郎は神道に改宗、明治三十六年(1903)に亡くなりました。その墓地は神武となり公営の青山霊園に建立されました。以後市川家は神道となりました。
そして大正十二年の起こった関東大震災の被害により寺院の移転、墓地の改修など相次ぐなか、常照院も墓地の整理改修をすることとなりました。そのため、昭和九年(1934)にそれまでの市川家の墓地も青山霊園へ移転改葬されました。
 と記している。

 市川団十郎の祖について『山梨県「人物」博物館』は次のように記す。
……五代目市川団十郎……『山梨「人物」博物館』江宮隆之氏著
   市川団十郎は江戸歌舞伎の盟主とされ、平成四年(1992)まで十二代を数える。屋 号を成田屋といい、初代団十郎は延宝元年(1673)九月、十四歳で初舞台を踏んだ。荒事と隈取りの創始者である。
 この初代団十郎の父が堀越重蔵、祖父の重左衛門、曾祖父の十郎家宣は共に甲斐武田家 の一門、一条信龍の家臣であった。堀越十郎については、永禄十二年(1569)の相州三益峠の法条氏と戦いで手柄を挙げたことが感状(戦功を賞した文書)として残されている。堀越一族は天正十年(1569)三月、主家の滅亡後、相模に逃れ、さらに下総国旙谷村(千葉)に逃れた。
 ここから初代団十郎の父重蔵が江戸に出て町奴などともつき合うようになる。
 (略)寛政三年(1791)四月、五代目団十郎は初めて父祖の地甲州に入る。(略)これが初の地方興行となった。五代目団十郎は寛政四年(1792)にも甲斐を訪れている。  (「甲府町年寄御用日記」)寛政五年(1793)六月、七年(1795)六月にも甲府にやってきている。

 これによれば、その家系は、
  曾祖父堀越十郎家宣―祖父重左衛門―父重蔵(十蔵…………初代市川団十郎となるが傍線についての確かな資料が提示されていない。

 市川家は現在まで血脈で繋がっているわけではなく、服部幸雄氏著『市川団十郎代々』によると、

初祖団十郎(本姓堀越)
   ―二代(実子)
   ―三代(養子/三升屋助十郎の子)
   ―四代(養子/庶子)
   ―五代(四代の実子)
   ―六代(養子/庶子)
   ―七代(養子/五代二女、すみの子)
   ―八代(長男/すみの子)
   ―九代目(五男(妾、ための子。堀越秀)
   ―十代(養子/前名、五代市川三升。堀越福三郎)
   ―十一代(養子/七代松本幸四郎長男。堀越治雄)
   ―十二代(長男。堀越夏雄)

 とあり、堀越姓は一代、二代、……九代、十代、十一代、十二代で途中代には見えず、血脈も途切れているのである。
 また三珠町のシンボルとして建設された「歌舞伎会館」のある市川團十郎発祥の地、三珠町は、ホームページ『甲州勤番風流日誌』によると、

 この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野 の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越十 郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。その孫の重(十)蔵は弟に田畑を譲り江戸に出る。

 とあるが、
 堀越十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。
 のくだりの信憑性はいかがなものであろうか。

 

信濃御牧(その9)

宝徳 二年 1450  8月16日 駒牽 記事略。         康富
宝徳 三年 1451  6月18日 贈馬 足利義政、明国王に馬
                     廿匹等贈。        善隣
 (信濃御牧)
宝徳 三年 1451  8月16日 駒牽 記事略。         康富
宝徳 三年 1451 12月27日 貢馬御覧、今夜貢馬御覧如例。  康富
享徳 元年 1452  8月16日 駒牽 記事略。         続史
享徳 二年 1453 10月18日 輸入 馬、朝参致賜(略)韃靼
                      人来朝、御馬七十匹。 入唐記
 (信濃御牧)
享徳 三年 1454  8月16日 駒牽 記事略。         康富
享徳 三年 1454        輸入 馬、奥州田名郡領主蠣崎
                     信縄、蒙古韃靼に人を派
                     して馬数百匹を輸入する。
                             南部産馬由緒考
享徳 三年 1454 12月27日 貢馬 御覧、今日貢馬御覧如例。 師卿
 (信濃御牧)
康正 元年 1455  8月16日 駒牽 記事略。         続史
康正 元年 1455 12月27日 貢馬 御覧、有貢馬御覧。    続史
康正 二年 1456  8月16日 駒牽 記事略。         師卿
康正 年間(1455〜56)   輸入 馬、階上郡八戸領南部氏、
                     露国より牛馬千余頭を輸入。
                               東北太平記
 (信濃御牧)
長禄 元年 1457  8月16日 駒牽 記事略。         続史
長禄 三年 1459  8月16日 駒牽 記事略。         続史
寛正 二年 1461 12月27日 貢馬 御覧、今日雪也。與貢馬
                     御成。          薩凉
寛正 三年 1462 12月27日 貢馬 御覧、今日貢馬之御成。  薩凉
寛正 四年 1463  9月28日 献馬 結城直朝、御馬廿匹。   後鑑
寛正 四年 1463 10月 4日 献馬 大宝寺成秀、御馬十匹。  薩凉
寛正 四年 1463 12月27日 貢馬 御覧、渡管領亭(細川勝元)
                     依貢馬及初雪也。     後鑑
寛正 五年 1464 12月27日 貢馬 御覧、晩来管領御成
                     (畠山政長)       薩凉
寛正 六年 1465  3月 5日 献馬 甲州武田五郎源信昌、
                     大長ノ御 親元馬、
                     三月六日京着。
寛正 六年 1465  3月15日 献馬 小野寺讃岐守馬を幕府に 
                     御馬四匹。献ず。     後鑑
寛正 六年 1465  9月 2日 献馬 大宝寺出羽守、御馬一匹。 後鑑
寛正 六年 1465 12月29日 貢馬 御覧、管領御成。     後鑑
 (信濃御牧)
文正 元年 1466  8月16日 駒牽 記事略。   後法
◎筆註 この年で信濃御牧8月16日の貢馬並びに駒牽の記事が無くなる。
応仁 元年 1467  1月20日 献馬 斯波義廉、献馬一匹。   斎藤
応仁 元年 1467  7月10日 献馬 美濃国斎藤妙椿、御馬一匹。応仁
文明 元年 1469   伊勢 佐八御牧をして神供を備進
                     せしむ。         内宮
文明 九年 1477  9月 6日 幕府 丹波守守護代内藤元貞に
                     命じて被官人等の料所、
                     同国桐野牧河内村寺社領
                     を違亂るを停めしむ。   古文
 将軍又は幕府への献上馬…その馬の毛付と下印を記入する。
文明 十年 1478  3月10日 献馬 一色左京大夫義直、
  御馬一匹。   親元
文明 十年 1478  7月16日 献馬 芦名盛政、献馬三匹。   親元
文明 十年 1478  8月23日 献馬 伊勢八郎貞職、御馬三匹。 親元
文明 十年 1478  8月26日 献馬 朝倉氏景、献馬二匹。   親元
文明 十年 1478  9月 1日 献馬 畠山左衛門佐義統、
                     御馬三匹。        親元
文明 十年 1478 10月 2日 献馬 大宝寺信濃守氏雄、
                     御馬二匹。        親元
文明十二年 1480  4月10日 献馬 富樫介政親、御馬二匹。  親元
文明十三年 1481  1月23日 献馬 土岐成頼、御馬一匹。   親元
文明十三年 1481  6月19日 献馬 朝倉孝景、御馬二匹。   親元
文明十三年 1481  7月 4日 献馬 伊勢貞宗、御馬二匹。   親元
文明十三年 1481  7月27日 献馬 土岐成頼、御馬三匹。   親元
文明十三年 1481  7月27日 献馬 持是妙純、御馬二匹。   親元
文明十四年 1482  3月12日 献馬 武田治部少輔信親、
                     御馬一匹。   親元
文明十四年 1482  8月26日 献馬 伊勢因幡守、御馬一匹。  親元
文明十五年 1482  1月19日 献馬 土岐成頼、御馬一匹。   親元
文明十五年 1482  7月 4日 献馬 細川淡路守成春、
                     御馬一匹。   親元
文明十五年 1482  9月17日 献馬 土岐成頼、御馬二匹。   親元
文明十五年 1482 10月10日 献馬 伊達成宗義尚・義政に御馬。 
                     東山御所様 御馬廿匹。
                       若君様 御馬廿匹。
                       細川様 御馬十匹。
                       典厩様 御馬五匹。
                       伊勢殿 馬三匹。   成宗
文亀 三年 1503  5月19日 献馬 上杉民部大輔、御馬一匹。 室町
永正 三年 1506  3月    献馬 京極中務少輔入道、
                     御馬一匹。        室町
永正 九年 1512  3月10日 献馬 畠山匠作御馬二匹。    御随
永正 九年 1512  3月24日 献馬 大内左京兆御馬四匹。   御随
永正 九年 1512  4月13日 献馬 美濃御馬進上、
                     房州御馬進上。      御随
永正 九年 1512  6月14日 献馬 畠山匠作御馬四匹。    御随
永正 九年 1512  6月26日 献馬 朝倉代始御馬進上。    御随
永正十六年 1519  8月21日 献馬 高梨摂津守、馬二匹進上。 室町
永正十六年 1519 11月 3日 献馬 今川修理大夫、馬二匹進上。室町
天文 九年 1540  8月 1日 献馬 朝倉弾正左衛門入道、
                     馬一匹。         室町
天文二十年 1551  1月 上旬 贈馬 信長、百牧ノ二疋鞍馬を
                     武田信玄に贈る。     松隣
永禄 四年 1561        献馬 三好義長進上、馬一匹。  三好
永禄11年 1568        贈馬 信玄公より信長へ御馬十匹。
                     信長御曹司城之介へ御馬
                      十一匹。        甲陽
天正 三年 1575 10月19日 献馬 奥州伊達方より名馬ガン
                     ゼキ黒、信長白石鹿毛御
                     馬二疋竝に鶴取之御鷹二
                     足進上、(略)比類なき
                     駿馬秘蔵是は龍の子なり。
天正 四年 1576        献馬 安東愛季、馬を信長に献ず。
                     南部縫殿助献馬鷹於信長、
                     自是毎年如斯、信長公喜毎
                     年賜書刀、秋田
天正 七年 1579  4月    献馬  関東常陸国多賀谷修理亮朝
                     宗、星河原毛ノ御馬云々  総見
天正 七年 1579  7月16日 献馬 家康より坂井左衛門尉御使
                     とし、御馬進上。     信長
天正 七年 1579  7月18日 献馬 出羽大宝寺より駿馬五ツ  信長
天正 七年 1579 10月29日 献馬 神保越中守黒芦毛御馬進上。信長
天正 八年 1580  3月 1日 献馬 加藤彦左衛門、佐目毛御
                     馬進上。         信長
天正 八年 1580  3月29日 献馬 北条氏政より御鷹十三足、
                     御馬五疋洛中本能寺にて
                     進上。          信長
天正 八年 1580 閏3月10日 献馬 宇都宮貞林、御馬牽進上。 信長
天正 八年 1580  4月11日 献馬 神保越中守御馬二ツ進上。 信長
天正 九年 1581  3月12日 献馬 神保越中守御馬九ツ進上。 信長
天正 九年 1581  6月 5日 献馬 北条氏政御馬三ツ進上。  信長
天正 九年 1581  7月17日 贈馬 信長、岐阜中将信忠へ御
                     秘蔵の雲雀毛御馬被参候。 信長
天正 九年 1581  7月20日 献馬 出羽大宝寺御馬進上。   信長
天正 九年 1581  8月 6日 献馬 会津の屋形モリタカ奥州
                     の名馬を信長に進上する。 信長
天正 九年 1581  8月14日 献馬 信長、御秘蔵御馬三疋、
                     羽柴筑前カタへ被遣候。  信長
天正 九年 1581 10月29日 献馬 越中ヨリ黒部タチノ御馬
                     當歳二歳ヲ初として十九疋、 
                     佐々内蔵介牽上進上也。  信長
天正 九年 1581 11月 1日 献馬 関東下野国蜷川郷、
                     長沼山城守名馬三ツ進上。 信長
天正十六年 1588  3月 1日 献馬 仙台御馬、二匹秀吉に献ずる。
                                  貞山


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