サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

さぶやんの歴史散歩

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山と鬼

山と鬼
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 鬼はこわいものときまっているが、日本人には馴染みの深いものである。お伽話では「桃太郎」も「一寸法師」も鬼退治をする。仏教では、地獄図のなかで、亡者をいためつける赤鬼・青鬼として描かれ、節分の夜には鬼役がタイマツの火を振りまわしてあばれる。
 とてろが、鬼の住む所は山の中であるらしい。「大江山の鬼退治」では、酒呑童子とよぶ鬼の大将が、丹波の大江山(千丈ケ岳)に住んだといわれ、いまも鬼の出る祭は、山村や山麓に集中している。
 オニという日本語は、隠という字音からきているという説がある。古代支那では死者の霊魂を鬼といったので、古くは漢字の鬼をオニに当てた。この漢土の民間信仰における鬼の観念に、仏教でいう地獄の鬼が習合されて、虎皮の揮姿のいわゆる恐ろしい鬼ができあがった。しかし、この鬼とは別に、わが国では、山男・大人など同じ性格で山中に住む、強烈な力をもつオニが信じられていた。鬼の田・鬼の足跡などとよばれる窪地は各所にあり、また鬼に馴染んだ村人が、親切にした御礼に多くの薪や級(しな)皮をもらったというような詰も伝わっている。オニはある時代には、近世の天狗のしわざに近い働きをしていたと考えられる。
 鉄鉱金掘りの盛んだった中国地方の吉備の国には、青備津神社の鬼退治をはじめ、各所に鬼の伝説がきかれる。また東北地方や各地方の山村にも、金・銀・鋼・鉄などの鉱山と関連した鬼の話が多いので、鬼は金掘りと関係した説明もきかれる。鉱石の採掘に従事した人びとが、征服された粗暴な身なりの原住民であったり、帰化人であったかもしれないが、幻想の産物の鬼は、実在のものではない。

 祖霊と鬼
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 兵庫県の六甲山の麓には、年のはじめの祭に鬼の現われる寺々が多い。二八カ所のうち、四カ所の神社をのぞく大部分は寺である。神戸の長田神社も、もとは神宮寺であった薬師堂から出た鬼であった。
 これら播州地方にむらがっている鬼は、新年の豊作祈願の「修正会」の儀式に参加する。手に持つマサカリや棒や、タイマツをふりかざして暴れたり、餅割りをしたりする。またハナフリといって、山からとってきた榊の枝を千切って参詣人にまくところもある。修正会というのは、奈良時代に始まった大寺の正月の修法をいい、天平神護二年(七六七)正月に、畿内七道諸国に対し、「毎年正月には七日問、おのおの国分光明寺で、吉祥悔過の法を修し、天下泰平、五穀成熟を祈顕すべし」という勅が出された。護国仏教の思想からはじまったものである。
 この修正会は、いまも大分県の国東半島の岩屋寺・天然寺などをはじめ、各地で続けられている。東大寺二月堂の修二会は、二月の修法であるが、薬師寺の花会式は月おくれの四月に行なわれている。
 愛知県三河地方の山村に、「花祭」という鬼の沢山出る名高い祭がある。正月前後の頃、徴夜で行なわれる各種の芸能の面白さに、見物人が大勢おしかけている。この花祭には、山見鬼と榊鬼と朝鬼という三種の鬼が、時をちがえて祭場にあらわれる。この鬼の性格をみると、山見鬼には仙人・狩人・金掘りなどの山仕事に従事する人びとが信仰する<山の神>の性格をもっている。山廻りをする山の神や山姥などの仙人の観念と、山に水を仰ぐ農耕民の山への信仰が習合されていることに気付く。
 もっとも神聖なものとされている榊鬼は、山から榊の枝を根掘りにしたのを持ったり、榊の枝を腰にさして出て、反(へん)?閇(ぱい)という特殊な足ぶみをふんで悪魔払いをする。榊のもとは、花枝とよばれる香りのよい常盤木の樒(しきみ)の枝をさしたことが記録されている。この樒の枝は賢木=榊と美称されたもので、常緑の植物を聖のシンボルとしている。

山の随想(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 踊る山の神
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 東北地方一帯に見られる修験の徒の伝えた神楽−いわゆる山伏神楽と番楽にかかせない主要なレパートリイに、「山の神」というのがある。山の神は、クワッと口を開き、爛々たる金色の眼を見開いた真紅の面をつけ、足音もとどろに踏みならして、力強く舞う。ところが、民族学でいう山の神とは、子だくさんで気が荒く、顔のへちがんだ醜女(しこめ)ということになっている。これでは山の神は一体男なのか女なのかという疑問がでてくる。女性上位の現代では言う人もないだろうが、「うちの山の神」といえば、女でなくてはならないし、年中台所の火を管理し、子供を多産してきた過去の日本女性には、山の神の尊称がたてまつられていたものだ。
 山の女神が、ことのほかオコゼ(長さ三粧ほどのキセル貝の一種と、魚のオコゼの両方)を好み、オコゼを見せると、狩猟の獲物を授けてくれるといい、また、山中で男が前をまくって一物をチラリと見せれば、山の神の御機嫌がよくなるなどといわれている。山の神がオコゼに血道をあげることは、すでに鎌倉時代からいわれ、金沢文庫の『名語記』には、「山の神ノ見テヨロコブナルヲコゼ如何」と記されている。
 そうなると、日本の農耕儀礼の民俗でいう春の耕作季になると、山の神は山から里へ降りてきて田の神になり、秋の収穫が終わると田から山へ帰られるという説は、一体どうなるだろう。田のほとりにまつられる田の神は男性とされており、早乙女たちは、赤い腰巻もなまめかしく、田の神の花嫁の仕度で田植えをする。山の神は季節ごとに女性から男性へ、そして男性から女性へと、性の転換手術をするというわけのものではあるまい。田の神=山の神という考えはさらに検討される必要がある。山の生産と田の生産の、歴史的民俗的テーマが追求されねばならない。
 私たちは、山に何をみるか。また山に住む人たちやその民俗、手芸品などに、どんな興味の示し方をしているのだろうか。どうも、日本人の観光族行や民芸好みは、利己的享楽的であるように思えてならない。ただ行った、見た、買っただけでは、心に何を学んだという反省は育たない。民俗採集にしても、学生が卒論のために見聞したものをまとめたとか、学者が出版の資料に強引に発掘してきたという作業だけでは何にもならない。調査団が訪れたあと、村の人びとの中に、非難や不平の声が残ることもある。私はまつりを尋ねて地方へ出かけるが、そこに住む人びとや老人たちと、たとえわずかな時間でも、親しく語りあい、ふれあうことを心がけている。美しい環境のなかで受けつがれてきた祭りは、そこに住む人びとの、深く豊かな伝統の心を伴なわずにはいないのである。私はつねづね、環境・人情・まつりの三位一体説を信じ、そのことを現代批評の基準にしている。学ぶということは、人間から得るものを、大切に心底に貯え続けていくことであり、人間性は、遠く山村・漁村の異った環境で精いっぱい生き続ける人びとを、心の友として交際できる喜びが積っていくことによって、身につくものだと思う。
人間を自然と対立させてきたのは、西欧の文明である。自然と人間を渾沌のままにしておく日本文化は、もう一度、人間尊重、人間仲介の方法を意識しないでは、発展する文化とはならない。抽象的精神は、自然や工芸品を人間性の表現=創造としてとらえ、生きている人間から学ぶものと同様に、感動・愛情・専重をつみかさねていくときに義なわれる。体験と総合、批評と分析を続けて学び考えることがなければ、芸術も学問も伝統も生まれないだろう。
 国家体制の時代になって、宗教という甘い麻薬が必要になり、人間の堕落がはじまる。律令や戒律などをこしらえなければやっていけない時代になっても、山は活気と生産力を失わず、人間には無関心で存在する。変わるのは、制度と社会現象に影響される人間の側である。木地師は、山々を移住して、ロクロを回さなければ生きていけない。マタギは、厳冬の山に分け入らなければ、献上する毛皮が求められない。出家は、山で修行しなければ、世俗や他宗に対抗する自信がつけられない。ついに、山の神は、修験者たちに彫像されて、里を回り歩くようになった。

 下記文書の中の一通が「勘助実在説」というものである。

市川文書の仝撮影
   カビネ版で二百数十枚
「信濃」第十一号
出羽の大富豪本間家所蔵
酔古生著
 出羽酒田の富豪である本間家に市川史書の所威されて居る事を発見されてから殆んど満二ヶ年になる。丁度その当時は、同家の代換りの時で、新戸主の公正氏は、学生々活から一躍大世帯の主人になった事とで、自分の家ながら、一向に様子が判らず、その上彼家の内規として、主人以外には絶対に出入を禁じられて居る土蔵が、二棟存在し、文書類其他の重宝ものなどは、概ね其中にあり、そこへ新主人公の不案内と来て居たから始末が悪い。鈴木知事から依頼状まで出して貰い、寓眞乾板も三十ダースも持参に及んだのだけれど、其俵退却の余儀なきに至った次第であった。
 昨年も亦、米澤へ出張の帰る道すがら立寄った。その時も亦未発見とあって、すごすご退却。更にニケ年間に手紙で問合せした事は何十回。或は故伊佐早先生の令嗣、信氏を煩はした事もあった。返答は当主公正氏からも数回、分家の本間氏からも、該家細管の圃書館長白崎光弥氏からも、その時々に来て居るので、何れも少し待ってくれとの事だから、怒るにも怒れない。
本年になっても亦数回の伺いを立てたのであったが、最終の八月初めの手紙の返事が、月の十三日に到着した。それが、思はずも吉報であったのである。
 山形県史料の殆んど最終の探訪ともいうべき出張に兼ねて、本間家にはまだ外にも伊佐早史料がある等だから、それの探訪をも兼ねて、米澤から酒田へと同来したのは、九月十一日。早速、あこがれの市河文書といふものを正確を見せてもらうことになった。省みれば、其一部分を米澤の伊佐早先生の机下で拝ませてもらった時から、二十年後を過ぎて居る。あるは、あるは、藍色の紙の琴訂をした巻ものが、三十巻もあるのである。
 文書の教が百四十七通、下高井郡中野小峯校で印刷したパンフレット式市河文書は、信濃史料叢書かたとったものであるが、あれよりは三通少ないのである。維新後、市河家の保存された時は、もつと沢山あつたに相違ない事は、伊佐早先生の常に語られたところであり、且また應永三十年前が、首四十六通であって、此間百四十年を飛んで永禄十二年のものが一通、寄生虫のようについて居るも不審、実は戦国期のものはまだ出ない史料も、四五点散在して居り、文章だけ判って居る史料も少なくない。平安朝からのものを保存した程の家柄だもの、戦国期のものが存在せぬ筈はない。此鮎か考へても、應永末年から永聴十二年迄の百四十余年間のものは、少なくとも二十通や三十通は存在したるべく.現に越後高田の謙信文庫には、應永より前の至徳三年の市河文連が一通現存するのである。かような語だから、現在此文書から紛失して居る部分は、恐らく、一半以上であろうと思う事を禁じ得ぬ。詳細は、該写真に附録として貼附する証明書に書くつもり、そして、公開する積りであるから、その時を期して貰う事とし、云はば、現存の市河文書といふものは、應永以前のものであるといふ事が、最も特色の一つであるというべきであろう。
一口に應永といっても、五百三十年の昔である。その前の文書が、百四余通もあり、殊に鎌倉前のものもあり、義仲もあり、頼朝の弟阿野全成のものもあり、北條氏などは、時政以後、殆んど歴代の花押を有して居訳であるから、諸家文書中でも珍とするのは当然である。殊にその諸家中でも、市河家といふものは、大名でなくて、徹頭徹尾、信濃国境の小名であったといふことが、珍中の珍といふ澤にもなる。
何となれば、その結果としての文書も亦、徹頭徹尾、郷土的であるからである。そして、その上に、中央舞台の上に役立って居る事の如何に多きかは、苛も大日本史料を見た者の百も承知の事であろう。
 又前記三通の不足については、中野学校印刷の市河文書その前に本間家へ送って置いたから、私より十日程前に偶然該文書を一見した帝大の伊木寿一氏(史料編纂官〕一行も、中野校本杖として研究した際に発見し、帝大と本間家との貸借時代の返却洩れではないかとの疑問も.発生し、其疑問を留保されてあったが、併し、私の所有する故伊佐早先生の古文書目録は、直ちにこれを他の中に発見したのである。
即ち、其三通は、
一、應永七年十月五日
      足利義満の感状
 二、同年四月二十九日
     小笠原長秀安堵状
 三、(應永中)七月二十六日
       細川慈忠書状
 であって、前二文書は、大塔合戦に市河氏が小笠原氏の部下として血戦した時の関係書類であるのであるが、勿論此三文書も市河文書中にあったに相違ないけれど、維新後逸散の後、拾はれた時に、別々であった為に、伊先生の分類中に於いても、微古墨宝といふ乾坤二冊ある中の乾の方に牧蒐されて居たのであって、それだから、今現在の市河文書中には、補遺されて居なかったのである。といふ様な事は、調べてから判った事であるが、とに角、此文書を見た時には、何となく感慨無量なるものがあった。八百年来把握されて居た此文書が、市河家から押流された維新の怒涛の如何に大きかったかといふような事、これらを三円の月給の時、一文書十銭位に蒐集された伊佐早先生の篤学、ては、我等の郷土に、今から三軍一手年前までは、小氏人と市川文書の会撮影.銅棒室からして、鏡をつけられた練に国境を守り、巣鷹を守って、四五百年間連綿とした市河氏の事ども、それらが、此三十巻の藍色の巻物と同時に頭に走馬燈のように描き出された影画であった。
 披見につれて、更に更に驚いた事は、どの文書も、どの文書も、とても汚れて居ないといふ一事である。殊に鎌倉時代のものは、日本の他の残存文書と共に、重に訴訟の文書であるが、其書体などは、どれを見ても、一つ一つ、骨習字の手本となるような楷行の問の名筆である事、共文書の文章が、判決文としても、詳細を極めて居る事などである。以て、鎌倉時代の民がのびやかで、穏健で。
民衆的であった事まで連想を禁じ得ない程だ。
 その他にしても、何としても、一家で、各時代を串通しにして居る話だから、各時代の文書相の一通りを僻へて居る点は、古文書学の上からしても一つの規範的のものと云い得よう。
下文、副下文、下知状、奉書、書状、譲文、訴訟、置文、注進、応宣、申状、所牌、着到状、軍忠状、感状、預ケ状.安堵状、契約状、宛行状、行渡状、定書、などの種類を、如宝に見るように感得出来る点に於いて尊い。光丘文庫の二階を臨時写場暗室等に借用して、約六日間で、此文書の穐影を終了した。文書の裏に影書きの花押もあれば、文書もある。これらは、主として鎌倉時代のものであって、文書上の特色でもある。凡て是等迄も写了したのである。
 その外にも、本間家及び酒田の古文書殆んど仝部を歴訪したが、信濃関係のものが、三十お近く存在したからこれらも概ねレンズに入れた訳である。
 終りに写真技術者の事についても、一言し置かればならない事がある。県内の史料撮影には、長野市荒木の篠原文雄氏が犠牲的に徒事して居ると同様に、山形県の資料撮影影には、米澤市の神保一臣氏が、四五年来を通じて、単に撮影ばかりでなく、史料蒐集の手助としても、殆んど、献身的に努力してくれられた一事は、是非此際報告し置きたい処である。今度の市河文書の撮影に関しても、同様であった事は云う迄もない。
 此雑誌の出る頃は、多分写真が配布される時であろうと思うが、この催しを最初から替助された更級、上下水内、上下高井郡の教育部含、及び加盟助達につとめられた諸法人に対しても、謹しんで、謝意を表して置く。

http://blogs.yahoo.co.jp/kitanomorirekisi2007/9293092.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yamamotokannsuke2003/12800542.html

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