サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

さぶやんの歴史散歩

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 私は驚いた。倒れたトチノキに跳ね飛ばされた石祠の傍らに水晶と小銭が奉納してあった。私は急いでかき集めもとの場所に収めた。御神体が「水晶」だった。

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 須玉町といってもその範囲は広く、山奥にまで及んでいる。また山梨県の中でも歴史豊かであり、北杜市内ではその量も内容も特出している。また民族。風習や伝承行事も多くあり中には山村として独特のものも継承されている。この地域には伝説や民話も豊富であり、現代人はこうした地域を特級過疎地として大学や法人が跋扈していて、その出入り数も特出している。こうした御仁は須玉の将来などより自らの延命措置のためにさまざまな補助金をいただいたりしながら田舎を切り売りしている。またその都度調査された内容は多くの学会や研究書中には卒業論文などにも活用され、その結果田舎は少しもよくならず、法人などの資金源にもなる。古くは「民族探訪」(国学院大学民俗学研究会)の調査報告書があるが、その内容は細かであり、田舎は丸裸にされ、そうした環境にない都会人には奇異に映るかも知れない。まるで江戸時代のことのように感じるかも知れない。
 そこでその一例を掲げてみる。

民族探訪 山梨県北巨摩郡須玉町旧増富村(昭和43年度 国学院大学 民族学研究会編)

村の概況

 須玉町旧増富村は北巨摩郡(現北杜市)の北東に位置し、長野県南佐久郡と接している山村であも二千数百メートルの瑞牆山(みずがきやま)と八幡山から流れ出た川が二つの谷あいを漁れて塩川部落で合流し、塩川となっているが、増富村の各部落はその谷沿いにわけ入ってできたという感じである。谷に沿って、上の方から、黒森(四十戸)・和田(五十一戸)・御門(五十二戸)・神戸(五十六戸)・東小尾(四十九戸)・日影(二十八戸)・日向(二十九戸)・塩川(三十九戸)・此志(八十八戸)・樫山(十一戸)の十群落がある。
昔は比志・日影・日向」樫山を宮本村、東小島・黒森・和由・御門・神戸・塩川を小尾村といったが、明治八年七月に合併して、増富村となり役場を神戸に置いた。その後昭和三十四年に、近くの村と合併して須玉町になり現在に至る。
 各部落は斜面に多くの家がかたまってあるためか、昔から火事が多い。東小尾では三十年程前に全焼した。日向では明治四十二年にヤギシタの数戸とシタムラを残して全焼、四・五年前にも雷が落ちて二、三軒が焼けた。比志では、丸山善信氏が憶えているだけでも十数回あったという。七十二年前に、丸山の本家と一の新屋など七、八軒が焼け、昭和十四・五年頃に五軒屋で蚕から火を出した。最近では昭和四十三年一月五日に塩川に行く途中の山が焼けた。また東小尾では明治三十一年、三十五年、昭和十年頃七大水害があった。
 電燈は、比恵では昭和四卒に、東小鳥では十二年についた。電燈のつく前は、マツダイを使い、昭和の初め頃はランプを用いていた。水道は日向で昭和二十八年に敷設された。
 山間地であるため、耕地が少なく、年間気温も低く、繁通の俵も悪いため農業は振るわない。主生業は養蚕と山仕事である。たとえば昭和四十三年度の村全体の現金収入は、養蚕、林業、牛の飼育、米作の腹になっている。副業として、コンニャククなどを作り、炭も焼いている。出稼ぎも盛んである。各家の平均耕作地面積は、田三反、畑五反程である。林業は盛んであるが、県有林が全体の八十パーセントを占めていて私有林は少ない。村の人は自分の家の農作業のあい周に山仕草の下請をしている。
 大さな神社としては比志に旧称社の比志神社があを。祭日は七月十五日でかる.氏子は比志、日影、日向、樫山、塩川の一部である。また御門に旧村社の神部神社がある。神主は小尾氏が代務めている。氏子は黒森・和田、御門、神戸、東小尾、塩川の一部の人々である。
 大正三年に東小尾にラジウム鉱泉ができ、今では四、五軒の旅館もできている。この鉱泉では、比志の丸山武久氏の祖父の浩太郎氏が最初に金泉湯を始めた。

 アイジと祝神

 本分家翠櫛をマキまたはアイジというが、アイ汐(エージ)は血のつながりを言う、マキは族縁というべきもの、婚戚を含めるとシンルイという。オオソウヤとは総本家のことで、次の代がソウヤ、次の代がシンヤである。オオソウヤとソウヤ、ソウヤとシソヤその、結びつきをアイジという。すべての親類の集りをマキという。従ってマキの関係はアイジよりも血が薄くなっている。ヨセマキという言葉もあるように、全く別のアイジとアイジが寄って、一つのマキを結成することもある。昔は、本家から分家を出す時は土地を(山も耕地も)半分に分けて与えた。田など、真半分の所に石を置いて分けたりした。アイジは隣り合っていて、ぴったりと合うのでその名がついたともいう。たくさんの分家を出した家は、どんどん小さくなっていきがちであった。何代かたつうち土地争いもあった。そのうち、土地を分けなくともアイジと呼ぶようになった。
 マキにも本マキと遠マキがあり、本マキとはオオヤ、シンヤの関係で.結ばれたものをいい、遠マキはオオヤ、シンヤの関係のないもので、本マキの人に頼めば入れてもらえる。現在、分家は表向きはマワケ(均分)であるが、六、七分を分かに分ける。家だけ建ててやって面倒見るのが一般で、日向ではアイジに出すには畑を一枚くれるだけであった。姓が違っているのにアイジになっているのは、特別にかわいがって、土地をやったりした場合の時である。普段は特別なつき合いはないが、婚礼や葬式の時にアイジとソウヤの関係がはっきり表れる。嫁の.世話などはマキの中心がやった。法印様はソウヤカブに休んだ。
 フデイとキタレモンと呼ばれるのがある。フデイは他から来た人であるが、勢力のある人から、その人の姓ではなく逢った姓をもらったものをいう。例えば「比志」の姓の人から、「志」だけもらって「志内」と名乗ったり、「小沢」か「沢」だけをもらって「成沢」と名乗ったりすることがある。キタレモンは他から渡って来た者で、ロクプなどが落ち着いた者をいい、姓をもらったりすることがない。
 塩川にはマキが五つあるが、結合の強いマキは小林九萬氏のマキと相原マキである。日向では三軒ないし八軒からなるアイジが七つある。アイジに属さない家はない。各アイジはそれぞれ別の神を祀るが不明のものもある。神戸にはマキが九つあるが、地域的に固まっておらず、村の端と端の家が同じマキという例もある。和田には藤原マキが七つあり、そのほかに笠井、杉本、藤本、油井・高橋・湯沢・坂本の七姓がある。黒森には六つの一マキがある。だいたい地域的に固まって一つのマキを構成しているが、甲には、部落の両端にある家が同じマキに属している例もあり、また近年のうちに分れたような例もある。アイジという言葉もあるが、黒森では同じものである。マキ内でイワイジンを祀るが、六つのマキそれぞれにあるわけではない。イワイジンを祀らないマキもある。

 個人名も多く出るので、今後こうした調査は公表されるものであり一考を要する。

花の歳月

 花の歳月
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

 年々歳々の花は変わらぬが、花を見る人の心は同じではない−ということばは、きわめて日本的である。一年を二四季節に分けるほど、時々刻々に四季が推移する風土は、他国にも類がなかろう。
 四季一二カ月を彩る自然と草花の実は、日本人の精神生活に深い相関を持ちつづけてきた。文芸に、美術に、祭式に、時の花をもって飾るという伝統を現代ではどう受けついでいくであろうか。
 古くは八幡放生会とよばれた三大勅祭の一つ−石清水祭に、「供花(くんげ)」という一二月一二個の花の作り物が、九月一五日の祭に、幣吊とともに宮内省よりおくられる。その起源は明確でないが、『日本書紀』に
「いざなみのみことを生む時に、灼(や)かれて押さりましぬ。故(か)れ紀伊国の能川野の有馬村に葬りまつる。土俗此の神の魂を祭るに、花の時には、亦花をもって祭る。また鼓・吹・幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る」
とある古代の民俗にまでさかのばることができよう。寛永のころ、御所方の好みで京極黄門=定家の十二月の花鳥の歌の心を「十二月の懸物」として、直径四五糎くらいの花鳥の作り物に一米くらいの五色の糸を吊るしたものを、月ごとに飾ることが始まった。石清水祭の「供花」は、仏前荘厳の花鬘(けまん)と懸物の神式化と考えられる。
 聖なるものの来臨−祭というものが、労働の日々に対して、聖なるものを俗なるものと明白に区別する。古来から日本人は、天香具山の榊や笹葉や日かげかずらなどの常緑植物や、樹木・稲藁の注連を神聖のよりしろに用いてきた。後世には、花の荘厳が盛んになったが、植物の生気を人間エネルギーの再生更新のためにする、年々歳々の祭式のシンボルとする観念は変らず今日にまでつづいている。
 人間短命起源神話のヒロインー木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を不死(富士)の山にまつる富士宮浅間神社では、祭の日に社憎が悼・花鬘(けまん)をかざり、花振りの清め舞を延年舞の序に行なった。
 生存の条件は食であるから、農耕儀礼に貫かれた日本の祭には、皐月(陰暦五月)のお田植えを神事とする神社が多い。また、伊勢神宮には、「朝夕大饌(おおみけ)調進祭」という日並みの祭りが連綿とつづいてきた。これは、産みの火力を蔵する処女の童女六人の物忌みの子らが、神聖潔斎のうちに、清火で炊いた熱鱗−火と水による煮沸料理を、朝な夕なに神に捧げる式である。父親と供人の介添で、白絹の冠り物をつけた童女が、神苑の朝夕のしじまに神に奉仕する姿は、清争な花にまごう美しさであった。各地にみる童女の頭上神饌運搬、童男の女装椎児舞、椎児田楽を神事とする祭や、草花を飾った風流傘、造花をあしらった田楽笠に垂れる赤布水引、母親の丸帯などは、この童女物忌の観念−「生命の火処」のシンボルのヴァリユーショソなのである。
 栽培植物の起源が、地母神イザナミの死と、火神迦具土の誕生を介している神話は、祭式に具体化された観念のことばによる伝承である。
  ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の 咲き散る丘に田草引くおとめ (万葉集巻一〇)

農耕時期をつげる「自然暦」として、向う山の斑雪の像や、野山に咲く花を目じるしにしてきた農民はもちろん、高原台地の山水自然の美を、心のよりどころにして生きていた先史縄文時代の人びとは、野山の花々に悠久な宇宙回帰のリズムを深く感受していたにちがいない。季節の花々は冠婚葬祭の荘厳であり、折り目ごとの神供であったことは今日も見られる。東北地方の水沢市の西の式内社於呂閉志(おろへし)神社の田植祭には、山かげの残雪に咲く赤い椿の一枝と山笹とを、参詣人は神符とともに持ち帰って家々の神棚に供え、田植後に枯れた椿と神符を竹に挟んで、田の水口に立てるならわしがあり、これなどもその一例である。
 鎌倉時代の十三世紀に、達磨の正法を伝えた道元禅師は、仏性を四季折々の花の本性に同じと喝破している。時節到来とは、春に開花する、桜・桃や緑葉をたれる柳が、<花は紅、柳は禄>としてそれぞれの個性ある姿を完成・具現する−「存在はすべて時である」という思想に根ざしている。これほ、存在はすべての時のうちにあるというのではなく、人も花も、すべての存在は生即死という形で尽界を占めているという−無常迅速・生死事大の禅的思考である。
          奥美濃の郡上郡奥名方町寒水(みょうがたかんすい)の秋祭には、華やかな風流が、百三十数人の老若男子によって、白山神社に奉納される。
 太鼓踊りを囲む円陣の一隅に、十二カ月の草花をつけた花笠の女装男児が、ササラをすって大人の歌舞に唱和する。
一月まつ、二月うめ、三月さくら、四月ふじ、五月あやめ、六月ばたん、七月はぎ、八月すすき、九月きく、十月もみじ、十一月さざんか、十二月きり−と、手製の造り花が白粉紅粧の女装にはえて、稚児のよりましを杉木立の境内に出現させる。
 また、流水文の友禅振袖に、十二カ月の花掌を色鮮やかな刺繍に縫いとりしたみごとな創意を、無名の職人たちがどうしてもっていたろうかと、驚くとともに感動させられるものが京都国立博物館の陳列衣裳にある。室町期の禅院を荘厳した四季山水墨画は、桃山から江戸初期の四季花鳥の極彩色障壁画にすすみ、江戸期庶民の手工芸と、その日本的な思想を溶解していった。なぜなら、蒔絵・染織・工芸をはじめ、絵画・詩歌に、うつろう四季、二カ月の草花を、これほどまでの純美な文様で彩つてきた国民はないと思うからである。それは、日本の風土を基盤とした、民族の深い自然観照が、見えるものと見えないものに架けた呪文の桟(かけはし)実存への祈りが生んだ、呪文様の風流的展開にほかならない。

滋賀県栗東町上砥山の「山の神祭」
(「日本文化の遺産」民族文化研究所編)

(旧正月七日)には、祭に先立つ二日に、家々に樒の枝を配るので、花配り帳が大切にされ、花を貰わぬと正月にならないといっている。京都の旧家では、大晦日に市で樒を買い、カマド神に供える(一般には正月二四日の愛宕の日に買って帰る)。かつては、正月の門松が椅であったこと、伊勢の神宮では元旦の朝に樒を村人が投げこまないと門が明けられなかったことが、
『松の落葉』という東海道見聞記に書かれているが、三河の花祭地帯では今日も樒の門松が見られる。
 朝鬼は、花宿(祭場)の主人自らが扮するもので、銭・餅・切幣を入れた<蜂の巣>という宝袋を、舞処の天蓋に吊したものを斧で切りおとして人びとに頒ち与える。祖霊あらわす榊鬼が、みずからの魂の依代としての花枝を頒ち与えて、祝福を与える神態を演ずるものとして、子孫を守り農作をもたらす<恩寵>的な性格をもつ鬼である。その一方に、山見鬼のような、こわい、子孫をいましめる<懲罰>的な性格をも併せもつのも鬼である。
 この<懲罰>的と<恩寵>的の両面を、ポジティブ・ネガティブとしてもつところに、浄・不浄の神聖=禁忌をともなう宗教儀礼の本質が成立する。花祭のもう一つの形は、「花の御串」とよばれる一対の御幣で、もとは稲の穂をつけて杖につきながら、「花育て」の祭文をとなえて道行きした。これは穀物の霊の依代としての花で、稲の花のシンボル化である。
  逢坂を今朝越えくれば山人の 我に呉れたる山杖ぞこれ
と神楽歌に歌われた山人の山杖にあたるもので、鬼に扮した山人が、里人にもたらす祝福の花としての意味をもつものである。
 節分に、日本髪の娘がかんざしに稲の穂をつけるように、日本人にはシンボライズしたものを一体化しょうとする性格がみられる。
 このこわい鬼が、子孫に幸福をもたらすシンボルを山から持ってくるところに、山村の正月を迎える祭の意味があり、「花祭り」とよばれるわけである。このようにみてくると、前述した播州地方の鬼たちが、餅割りをする意味もはっきりしてくる。餅は先祖のミタマのシンボルであり、これを分けて子孫に与え、新しいエネルギーを身につけさせるわけである。
 修正会に寺院を笹厳する鏡餅は、この餅とお花とを参詣の氏子がいただいて帰り、無病息災や、田の虫追いのまじないに用いるものである。よりしろの花とミタマのシンボルの餅は、〃花より団子″(団子=仏前の壇供)ということばが生れたように、花よりも餅の方に人気があった。鬼は、日本人の祖霊観を具体化したシンボルということになる。


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