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島原の子守唄について少し書いてみたいと思う。島原の子守唄の作者は有名な「幻の邪馬台国」の著者である宮崎康平氏である。
これは昭和四十六年六月十一二日平凡社発行「太陽」七号に、島原の子守唄の作者は宮崎康平氏であると明確に書いてある。宮崎氏は本年五十五才、「縁故節」は現在四十七、八年の歳月を経ている。宮崎氏が如何に英才であっても、十才未満で島原の子守唄は作れない。
昨年十一月八口午前六時十分、NHK甲府放送局ラジオの第一放送で、N氏と「縁故節」について対談を放送したことがある。
その時N氏が宮崎の放送局に島原の子守唄について間合せたところ、この唄は、二三の民謡を組合せて作ったものであるという返事があったそうである。
島原の子守唄は、
おどみや島原の おどみや島原の ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら 色気ナシバよ ションカイナ
ハヨ寝るる泣かんでオロロンバイ 鬼の池に久助どんの
連れん米らるバイ
というのである。先の本唄の郡分のメロデーは、縁故節とそっくりである。
「ハヨ寝ろ……」からの後囃子的なものは、NHKの民謡を訪ねての時間に「五木の子守唄」の後頃として間いたことがある。
結局、島原の子守唄は民謡組曲であったわけである。
然し、九州という一大観光地をバックに、旅館や料亭の宴席を利用し、遊覧バスの中でガイドに唄はせての宣伝の為の演出は大したもので、大いに敬服に値するものがある。
翻って、甲州「縁故節」はというに発生当時、創始者の見せた意欲的行動は更になく、従らに島原の子守唄の独走にまかせて来たことを反省しなくてはならない。
最近「甲斐武田の民謡」集の中に、「縁故節」が多少リズム感覚をかえては収録され、踊りの振付も新しく改められ発売されたことは、「縁故節」の再出発を意味しているようで大変うれしく、この民謡集が県内のみならず全国に売れて、今後並々発展してゆく争を事を祈ってやまない。
……参考資料……
ふるさと文庫所収
縁で添うとも 縁で添うとも
柳沢いやだヨ
(アリャセーコリャセー)
女が木をきる女が木をきる
茅を刈るションガイナー
(アリャセーコリャセー)
河鹿ほろほろ 釜無下りゃヨ
鐘が鳴ります 七里ケ岩
縁の切れ目に このぼこできた
この子いなぼこ 縁つなぎ
縁がありゃ添う なかれば添わぬ
みんな出雲の 神まかせ
駒の深山で 炭焼く主は
今朝も無事だと 白煙
来たら寄っとくれんけ あばら家だけんど
ぬるいお茶でも 熱くする
註
• 柳沢……武川村柳沢。もとは駒城村(現白州町ヽ釜無川の支流大武川の右岸で、鳳風山麓の山村。柳沢吉保の先祖の出身地。
• 七里岩……八ケ岳の泥流が金無川の浸食をうけてできた断崖。長野県境から韮崎まで約二七キロに及ぶ景勝の地。
• ぼこ……甲州方言。赤ん坊・子供。
• いなぼこ……変な子。妙な子。
• 駒の深山……甲斐駒ケ岳
「縁故節」は「馬八節」「粘土節」とともに甲州の代表的な民謡の一つで、踊り唄あるいは座興唄である。
この唄は大正の末韮崎町(現韮崎市)で誕生した。大正十一二年韮崎の有志にって、町を、鳳岱山とそれに続く南アルプス連峰の登山基地として観光開発しようという目的をもって、白鳳会が結成された。
初代会長は歯科医師の小屋忠子(後に県会議長)で、郵便局長の柳本経武、穂坂村の平賀文男(号月兎、後に県会議長)等が協力者であった。「縁故節「はこの白鳳会の宣伝のために、前記三名の方々と土地の芸妓たちによって、従来から峡北地方で歌われていた作業唄「エグエグ節」を編曲してつくられたものである。編曲の過程で、三味線等の伴奏をつける関係もあって、曲ば陽旋律から陰旋律に変化した。この間の事情は、この計画に参加した山梨県三曲連盟会長の植松和一氏が、同人雑誌『中央線』第八号に「縁故節四方山話」として詳細に述べておられる。
このようにして出来た「縁故節」は、寿座という町内の芝居小屋で盛大な発表会が行われ、昭和三年九月六日には東京中央放送局(現NHK)から、放送事業間姶三周年記念番組民謡の部に、山梨県代表民謡として「縁故節」が選ばれ、地元韮崎町の人々によって全国放送された。その時の出演者は、三味線芸妓勝利・尺八秋山計吉・唄芸妓照葉と植松輝吉・踊り水上修一の各氏であった。ラジオ放送に踊りがついていたのは、放送に臨場感をもたせるためであったと思われる。
続いて、昭和十年十一月一十日には再び東京中央放送局から放送され、昭和十二年の暮れには甲府放送局開局記念に「縁故節」が全国放送された。
この内昭和十年放送の出演者のうち植松逸聖(和一)・名取いく・佐野儀雄の三氏は現在も御存命で元気に活躍しておられる。
このようにして「縁故節」は山梨を代表する民謡として全国に放送され、地元韮崎はもちろん峡北地方一帯では盆踊り唄として「エ−ヨー節」にとって替り、韮崎や甲府等の花柳界ではお座敷敷唄としてさかんに歌われた。
一番の歌詞「縁で添そうとも柳沢いやだよ」は、「エグエグ節」からの転用であるが、この歌の看板である。古歌
「甲斐人の嫁にはならし事辛し 甲斐の御坂を夜や越ゆらむ」
と発想が同じに見えて、その意味するところは全く違う。
「甲斐人の嫁にはならじ云云」
は、東海道を旅する他国の人が、篭坂や御坂の峠越しに甲斐を想像して詠んだもので、異国人の冷たさが感じられる。
しかし、「縁で添うとも……」は野山での苦しい仕事を思いながらも、なおかつ、ふるさとを愛するほのぼのとした温かさが感じられないだろうか。
「縁故節」ができるときこの部分を削除したらという意見があって、そのことを柳沢の人々に相談したところ、是非そのまま残してほしいとの意見であったというエピソードがある。
歌詞の「シヨンガイナ」は「ションガイネ」とうたうこともある。意味については諸説があるが、「致し方ない、あるいは、仕様がない」と解すべきである そう解することによって前述の愛郷の心が生きてくる。
両者の関係については、「縁故節」が「えぐえぐ節」を元唄として作られた時、その仕事に参加した唯一の生存者である植松和一氏(号逸聖、山梨県三曲連盟会長・韮崎市在住)が、同人誌『中央線』に、前後四回にわたって連載した「島原の子守唄は縁故節の盗作」の中で、概要は述べられているが、改めてとりあげたい。
ただし、「島原の子守唄」の作者宮崎康平は、昭杣五十五年三月に死亡しておられるので、この問題をとりあげることは、死者にむち打つことにもなりかねないが、それは筆者の本意とするところではない。しかし、事実は事実として明らかにしておかなければならない。
「縁故節」成立の由来については、「縁故節」の項で述べたし、前記植松氏の「縁故節四方上話」(『中央線』第八号)に詳細が述べられている。
「島原の子守唄」は、宮崎の作家宮崎康平によって作られた歌謡曲である。歌詞は次の通り。
おどみゃ島原の
おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら
何のナシやら
色気ナシばよ ショウカイナ
はよ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼の池ん久助どんの
連れんこらるバイ
帰りにや寄っちょくれんか
あばらやじゃけんど
唐芋飯ゃ粟ん飯
黄金飯はよ ショウカイナ
嫁ごん紅( )な誰がくれた
唇( )つけたならあったかろ(以下略)
三番四番は、唐ゆきさんとして悲惨な生涯を送ったこの地方の女性の悲哀をうたったものである。
作者の宮崎康平は、大正六年島原市生まれ。本名は一章。早稲田大学文学部卒。在学中東宝文芸課に入社、文芸・演劇活動を行った。昭和十五年長兄の死により島原に帰り、家業の南旺土木社長・島原鉄道取締役として経済的手腕を発揮する傍ら、九州文学同人としても活躍したj昭和二十五年過労がもとで失明、続いて乳呑児を残して妻に逃げられる等の不幸もあったが、その中発表した『まぼろしの耶時台国」によって新婦人和子氏と共に、第一回吉川英治賞受賞した。(講談社版『日本近代文学人字典』)
島原の子守唄が作られた時期は明確ではないか、昭和三十九年九月長崎市勝山小学校で開催された「第三回「九州のうたごえ」島原地区有志が、混声合唱で「島原の子守唄」をを歌っているので、昭和二十五年から三十年にかけて、彼の家庭的不遇の時代の作と考えるのが妥当であろう。
(彼自身は戦中の作といっているが、そのことについては後述する)
昭和三十二年早大時代の友人森繁久弥か舞台劇、「風説三十年」の中でこの唄を歌い、昭和三十三年島倉千代子子の歌でレコード化。昭和三十五年、六年頃西日本新聞社主催十全九州民謡コンクール人気投票で第一位を獲得、一躍脚光を浴びた。もっとも、この投票には大々的な集票工作が行われたといわれている。
(ルポライターますやま栄一氏の調査『中央線』第二十四号)
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