サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

世界遺産と観光

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富士山の噴火史その1

<資料>
富士山 歴史講座資料
富士山の噴火&山梨県の災害
(一)資料から見た富士山の噴火(日付は書物に記されたもの)
景行43年         113 霖雨により低地一帯湖水となる。
                  (山梨県気象災害史)
武烈 8年         506 大洪   (山梨県気象災害史)
和銅 2年 7月      709 霖雨。   (山梨県気象災害史)
養老 2年         718 霖雨数旬に恒り諸川漲溢し、田畑荒廃す。
                  (山梨県気象災害史)
養老 2年(頃)      718 富士山噴煙
                  高橋連虫麿の和歌「詠不盡山歌」
                  一首並短歌
                  もゆる火を 雪もて消ち ふる雪を
                  火もて消しつつ  (万葉集巻の319)
天平 8年         736 大洪水。   (山梨県気象災害史)
天応 1年 7月 6日   781 駿河方面に灰が雨の様に降り、木の葉が萎
                  んだ。   (続日本紀)
                  七月六日。駿河国言す。富士山の下に灰を
                  雨ふらす。灰の及ぶ所は木葉彫萎すと。
                   (続日本紀)
延暦 8年         789 大洪水。   (山梨県気象災害史)
延暦19年 6月 6日   800 主に駿河方面に灰が雨の様に降り、山も川
                  も皆紅色となる。
                  六月乙丑。是日。勅。駿河相模国言。駿河
                  国富士山。晝夜炬燎。砂礫如霞霰者。求之
                  卜筮。占曰。于疫。宣令両国加鎮謝。乃讀
                  經以攘火上。   (日本紀略)
延暦21年 1月 1日   802 駿河・相模方面に砂礫が霰のように降る。
                  噴火は延暦20年(801)
                  (日本紀略)
延暦21年 5月      802 相模国足柄路が塞がる。小富士の出現か。
                  (日本紀略)
      5月19日   802 富士山噴火の為に相模足柄路を廃して箱根
                  路を開く。相模国10国らの負税を免除す
                  る。
                  延暦廿一年五月甲戌、相模国足柄の路を廃
                  して筥荷の途を開く。富士の焼け砕きたる
                  石、道を塞ぐを以てなり。  (日本紀略)
延暦22年 5月 8日   803 延暦廿二年五月丁巳。相模国筥荷の略を廃   
                  して足柄の旧路を復す。   (日本紀略)
                  『富士山の記』都良香(みやこよしか)
                  (839〜879)漢詩人。
                  (前文略)山を富士と名づくるは、郡の名
                  に取れるなり。浅間大神と名づく。此の山
                  の高きこと、雲表を極めて、幾丈といふこ
                  とを知らず。頂上に平地あり、広さ一里許
                  其の頂の中央は窪み下りて体炊甑(かたち
                  すいそう)の如し。甑(こしき)の底にあ
                  やしき池あり。常に気有りて、蒸し出づ。
                  (中略)大き成る泉あり。腹の下より出づ。
                  大河なせり。山の東に脚の下に小山あり。
                  土俗これを新山と謂ふ。本は平地なりき。
                  延暦二十一年三月に雲霧晦冥、十日にして
                  後に山を成せりと。云々  (富士山の記)
天長 2年 5月      825 白根山大崩壊し、かつ洪水氾濫し国中一
                  大湖水となる。水没せる人命・田畑限り
                  なし。飢餓者出る。こと時勅使を向かは
                  しめ水神を祀り、一の宮・二の宮・三の
                  宮三社に命じ、龍王赤坂山下に水防祭を
                  行なう。    (山梨県気象災害史)
天長 3年         826 富士山噴火(神火)。須走口の小富士出現
                  する。? (寒川神社記録)
天長10年         833 洪水。御勅使川氾濫し原七郷荒蕪に帰す。
承和 3年         836 洪水。
仁寿 3年 7月 5日   853 富士神を明神とする。 (文徳天皇実録)
仁寿 3年 7月13日       富士神の神位を従三位に進める
                  (文徳天皇実録)
貞観 1年 1月27日   859 富士神を正三位に進める。 (三代実録)
貞観 2年 5月 5日   860 駿河国言。富士山五色雲見。(三代実録)   
貞観 6年 5月25日   864 青木原丸尾溶岩流。甲斐方面、「セの海」
                  を分断し西湖・精進湖が出現する。人畜に
                  大被害。   (三代実録)
      5月 1日   864 五月一日乃至三日暴風雨大雷電 黒煙劇噴
                  五日の朝一大激震と共に富士山西の峰に熾
                  火現る(中略)六月九日乃至十三日朝 復
                  び湯溶岩熱泥押し流し、御舟湖つひに一町
                  に八十間を余し埋没。なは御舟山を包囲し
                  て押流る。   (三代実録)
貞観 6年 5月25日   864 駿河国正三位浅間大神大山(富士山)噴火
                  しその勢い甚だしく、十二里四方の山を焼
                  く。その火炎の高さ二十丈(60m位)雷
                  あり、地震三度、十余日を経ても火勢衰え
                  ず、岩石を焦がし、嶺を崩し、火山灰雨の
                  如し、煙雲深くして人の近寄るを得ず。富
                  士山の西北本栖湖に溶岩流入す。溶岩の長
                  さ、三十里、幅三,四里、高さ二十二丈ば
                  かり、火炎ついに甲斐の国境に達すと。
                   (三代実録)
貞観 6年 7月      864 甲斐国司解文、溶岩が本栖湖・セの湖を埋
                  め、人家を没し火焔は東の河口にの海に向
                  かう。    (三代実録)
貞観 6年 8月 5日   864 甲斐国下知して云う。駿河国富士山に火あ
                  りて彼の国言上す。之を著亀( )に決する
                  に云わく、浅間明神の禰宜・祝等、斎敬を
                  勤めざるの致す所のなりと。仍りて鎮謝す
                  べきの状国に告げ知らせ訖わりぬ。宜しく
                  亦奉幣解謝すびしと。    (三代実録)
貞観 7年12月 9日   865 勅して八代郡に浅間神社の祠を立てて官社
                  に列し、祝・禰宜を置く。今年八代郡の擬
                  大領無位の伴直貞託宣して、云々
                  (三代実録)
貞観 7年12月20日   867 甲斐国をして山梨郡に於て浅間明神を致祭
                  せしむること、八代郡に同じ。
                  (三代実録)
貞観12年 7月      870 中央火口噴火。富士山噴火。被害は無し。
                  (寒川神社記録)
仁和 3年         887 遺使奉幣。   (三代実録)
延喜 7年 5月 2日   907 浅間大神を従二位に進める。
                  (諸社根源記)
承平 2年10月13日   932 朱雀天皇壬辰年十月十三日、富士山峰より   
                  八方に噴火し、溶岩・焼石・大雷にて雨の
                  如く降る。大宮神社焼失する。(富士史)
承平 7年11月      937 檜丸尾・鷹丸尾溶岩流は二分して一つは北
                  に向かい檜丸尾となり、一つは東に偏して
                  鷹丸尾となる。
                  十一月某日、甲斐国言。駿河国富士山神火
                  埋水海。   (日本紀略)
天暦 6年 2月      952 富士山峰より北東に噴火。  (富士史)
正暦 4年         993 一条天皇、八月、富士山北東三昼夜鳴動し
                   て噴火。    (富士史)
長徳 2年         996 大洪水。
長保 1年 3月  7日  999 富士山噴火。南側。駿河方面に被害。
                   (前略)駿河国言上の解文に云わく、日
                   頃(さきごろ)不字の御山焼く由、何の
                   祟りぞてへれば、即ち卜して云わく、若
                   しくは、恠( )の所に兵革疾疫の事有
                   るかてへり。此の間太宰府貢上の雨米一
                   袋・湧出せる油一瓶等のことを奏聞す。
                   即ち、上卿覧了り、弁官の文脈に下し給
                   うこと巳に了りぬ。   (本朝世紀)

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 <1976年『富士山麓史』より>

 <富士山の山林崩壊は、この道路によって加速的に破壊・崩壊が進んでいる>

富士北麓の開発とスバルラインについて
『富士山麓史』富士山麓のあゆみ・富士山北麓開発史より引用(1976年)

観光と自然破壊道路が整備され,ホテルや遊園地をはじめさまざまな観光施設が設けられ、レジャーブームの波にのって観光客がふえればふえるほど、山が汚れ,五湖が汚濁するという心配が出てくる。

<富士山の美化>

明治の末頃、一夏に2万人の道者たちが登って、山には紙くず一つもなかったといわれた富士山は,やがて昭和38年頃には、空缶の間に山はだが見える、と椰楡されるほどの汚れを露呈していた。
新宿から直通の電車が山麓に乗入れ、バスが土ふまずに観光客を五合目まで運んでくれるとなれぱ、これから先き、富士山が空缶や紙くずの散乱に汚れをひどくすることを誰しも案じないわけにいかなかった。
山梨県・県教委・県観光連盟.山梨日日新聞・山梨放送などの提唱になる「富士山をきれいにする運動」が展開されるようになったのは昭和37年からで、毎年6月1目から8月31目までを実施期間とし、富士山の美化・清掃・植樹運動をおこなっている。運動は静岡・神奈川両県から他の都県にも及び,自衛隊・各学校・婦人会・青年団や諾団体が参加、46年までの10年間に1200団体16万人が清掃に参加して、800トンのごみを処理したという。

<富士山有料道路(富士スバルライン)沿線樹木の枯れ死>

ところで、北麓地域の開発拠点として観光の振興をはかる目的で建設され、まさに観光開発に基本的役割を果している富士山有料道路(富士スバルライン)が、交通量の増加にともなって、沿道の富士山原生林の公害間題でとり沙汰されるようになったのが40年代中頃になってからのことであった。観光道路としてドル箱と宣伝されたこの道路は、一方では富士山の自然である原生林の一部を枯れ死させるという問題を起こすのである。
もともとこの富士スバルライン開通直後に、沿線のツガ・シラベ・オオシラビソなどの樹木数千本が枯れはじめたが、それは道路建設の際、山はだを開削した土砂をそのまま沿線に捨てたため、木の幹がかなり上部まで埋ったのが原因といわれた。
しかし、その後の沿線の樹木の枯死は、年々交通量を増加させていた自動車の排気ガスに起因するものであった。

<レンゲツツジの盗難>

中にはまた次のような例さえある。旧吉田口登山道の大石茶屋附近にあるレンゲツツジの群落は天然記念物に指定され、30年頃までは数万本ともいわれて観光客の目を楽しませていたが、ハイカーのいたずらや、植木ブームにのって根ごと盗んでいく悪質な業者によって、群落は荒らされる一方となり,このままでは指定解除のおそれさえあるといわれたのが46年頃のことであった。

<富士山周辺の観光公害>

間題はもちろん富士山のみではなかった。かつて五湖観光地といっても河口・山中両湖などごく一部に限られていたのが、道路や観光諸施設の新設によって、岳麓一帯に観光地が拡大されたことが、いわゆる'観光公害"のまきちらしをクローズアップさせることになった。

<富士五湖水質汚濁>

富士五湖の水質について,本格的な測定がはじめられたのは昭和45年からである。観光ブrムにのって観光客の来訪が急速に増加し,また生活の近代化や宿泊施設の増加、あるいはその規模?拡大に起因して、五湖への汚水の流入が目立つようになるとともに、湖水の汚染が進んで、清浄次昔目の姿は失われつつあった。
そしてこのまま放置すれば,汚濁はさらに進行して魚類の生育に支障をきたすのみならず、水資源としての確保も困難になり、やがて観光資源としての価値の低下も必至であった。
この年、県は公害防止の見地から水質汚濁の科学的究明にとりくみ、調査の結果、湖水の汚濁は生活排水の流入が主要原因であることが明らかにされた。
すなわち,人為的汚濁原因がほとんど生活排水に限られ、そのかなりの部分が観光客によって発生する汚濁負荷とされていた。
翌46年6月施行の水質汚濁防止法にもとづいて、県は五湖の水算の現状を把握し今後の対策のための資料とするため採取分析をおこなった。山中・河口両湖は,その湖畔が五湖中で最も定住人口・観光客数ともに多いために汚濁が進み、悪化した水質となっているので、湖畔に存在する旅館・ホテル・寮その他民家の排水に対しては、きびしい扇制を必要とする段階にきているとされた。これに次ぐ精進湖も同様な対策が望まれ、本栖湖と西湖は軽度な汚濁にとどまってはいるが、これ以上の汚濁の進行を防止する予防策が必要である。云々

(略)
富士山北麓地域は中央・東名両高速道路に囲まれ,この高速道路が該地域の開発と深い関係にあることはいうまでもない。また域内交通手段のほとんどが自動車輸送に依存することと、近年のモータリゼーションの発達によって、中央道を基軸とした道路網や平通施設の整備がこの地域の基盤整備のうち最も重要なこととされている。観光と自然破壊道路が整備され,ホテルや遊園地をはじめさまざまな観光施設が設けられ,レジャーブームの波にのって観光客がふえればふえるほど,山が汚れ,五湖が汚濁するという心配が出てくる。

明治の末頃,一夏に2万人の道者たちが登っても,山には紙くず一つもなかったといわやゆれた當士山は,やがて昭和38年頃には「空き缶の間に山はだが見える」と揶揄されるほどの汚れを露呈していた。云々

<富士スバルライン利用状況>
昭和39年 317、563台
昭和40年 293、115台
昭和41年 298、937台
昭和42年 386、708台
昭和43年 433、945台

<スバルライン建設の概要>

(略)40年代のいちじるしい経済成長にともなう国民所得の向年車靹台数上と余暇の増大によって,本格的在大衆観光化の時代を迎え、観光事業も点から線へといっルートつくりの必要性が叫ばれるとともに、観光施設の整備も一層進められることになった。(『富士北麓開発基本計画』34頁)
北麓において,民間資本によるスポーツやレクリエーションを加味した観光施設がつくられたのもこの時期に集中する。観光の大衆化が一方で各観光地をつなぐ「立体観光」をおしすすめるとともに,一般観光客の趣中に対応して,四季を間わず彼らを誘致するための施設の強化が必要になっていたのである。

山梨県の直営事業としで本格的な観光遣路の建設は、36年9月着工した富士山有料遣路(富士スバルライン)であった。これは、「富士山頂へ下駄ばきで」という夢を実現しようとする富士山モグラケーブル計画に結ばれる県営第1号の有料道路で、東京オリンピックに間に合わせるため工費17億円と3年の歳月を費やして、昭和39年4月1目開通したものであった。
河口湖町船津を起点として五合目に至る全長2万9,520メートルのこの道路は、当時県営有料道路としては全国にも例をみないスケールであった。
この年、富士山と五湖は前年比146パーセントの552万5,000人の観光客を数えているが、人気をよんだ富士山スバルラインは、富士山に129方8,100人(うち富土山頂へ12万人)と前年の3.3倍の客を集めた。これから後、吉田口登山遣に登山者はほとんど見られなくなった。云々

 <御坂トンネル>

地方はもちろん山梨県の産業経済に画期的な影響をあたえるものといわれた。この間、中央自動車道の開通を控え、岳麓地方の開発計画に関連して国道137号線富士吉田・甲府線の御坂薩道開襲計画が進められていた。
元来この国道は御坂峠を中心に急勾配・屈曲が多かったので、御坂峠に隆遣を新設して中央白動車道に直結させ、甲府盆地と岳麓地帯とを結ぶ一大動脈路線として、産業振興と観光開発に寄与させようというものであった。全長3,875メートル,うちトンネル部分2,778メートノレ,県営二番目の有料道路で,40年2月着工し、工費23億7,900万円を投じて中央自動車道に先んじて42年4月7目開通した。御坂トンネル有料道路とよんでいる。

<河口湖大橋(現在は無料)>

次いで翌43年11月着工した河口湖大橋は、県営三番目の有料道路で、46年4月19目開通式をあげた。工費18億5,000万円を要し、河口湖町河口の産屋ケ崎から対岸の船津まで全長1,620メートル、うち橋の部分は500メートルである。五湖観光の中心地である河口湖周辺の自動車交通は増加の一途をたどり、加えて中央白動車道の開通によってさらに激増することが予想されていた。
停滞交通の効果的な処理ルートとして計画されたのが,この河口湖の横断架橋であり、中央自動車道・富士スバルラインそして主要国道の相互間を円滑に連絡し、周辺交通網を強化することをねらいとし、さらに河口湖に白然美と人工美とを調和させた新たな景観をそえるものといわれていた。
スバルラインの入口に県立富士ビジターセンターが開設されたのも同じ4月であった。これは富士北麓を訪れる観光客に'自然や景観についての科学的知識を普及するとともに、観光地の利用方法などの利便を提供しようとするための施設であった。云々


<スバルライン>
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-ybb&p=%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3&ei=UTF-8

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 富士山森林文化は崩壊しています。世界遺産に成り得ない。自然環境整備が先決。

 私はこれまで、さまざまな本や知人から、富士山の森林の崩壊と荒廃を聞いていた。
 しかしなかなか見ることができなかった。私はおおよその山梨県の森林地帯を見ている。
 もし富士山森林が想像以上に痛んでいたらどうしょうとか、世界遺産に勤しんでいる方々にどう伝えられるかの不安もあった。

 しかし樹木や自然形態からいえば富士山は世界遺産どころか山梨遺産にもならないくらいの惨状を呈していた。

 根から転ぶ
 鹿に襲われる
 虫が入る
 雪で折られる
 酸性雨の影響
 無秩序の手入れ
 自然荒廃
 人工荒廃

 など、創造を絶する惨状であった。世界遺産どころの話ではない。こうした富士山の恥部にあたる地域の修復には多額の国家予算を必要とする。

 私は候補内の観光資源については言に及ばないが、世界遺産より、富士山森林修復を真剣に考えないといけない時期に来ている。いやもう遅すぎるかも知れない。

 それに樹木崩壊や倒壊樹木の数は毎年天文学的数字で増えてゆく。やがて富士山は日本一の二酸化炭素の発生源にもなる。
 世界遺産にでなれば、さらに大型観光バスが二酸化炭素を振りまきながら、行き交い、ガスの中に滞留して樹木をさらに枯らす。

 モミ林の崩壊惨状など日本でも類を見ないのではないのか。毎日倒れていて、その数の上限は解らない。 

 スバルラインも1合目くいらいで全面通行止め状況である。

 しかし富士山世界遺産登録の話し合いの中で、肝心の森林について誰も指摘しなかったのであろうか。それとも登録まで触れないでおくことにしたのであろうか。
 世界遺産ともなれば富士山森林の評価と価値観から容易に作業できなくなる。
 しかしこのまま放置すれば、富士吉田を始め多くの地に災害が発生することは間違いない。
 世界遺産など富士山にはいらない。富士山の美化はごみ広いだけでは、地球にスコップをあてたくらいのもので、この森林崩壊を現状で食い止め再生の道を進むことが大切である。

 現在の森林状況からは富士山は「世界遺産」ではなく「世界負産」である。

 

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 日本列島には数え切れないくらいの崩落や土砂崩れ地域がある。私たちの住む山梨県でも大雨の旅に、その被害が報道される。
 遠くの山の中で起きていることなど、地元の人々は知らず、手不足の行政でもそうした感が否めない。
 特に南アルプスのふもとの白州町や武川町は人事ではない。合併以後見方によっては北杜市のお荷物状態の様でもあり、情報のや対策のない中で過ごす地域の人々さえ、重ねて襲ってきた台風災害を忘れ去ろうとしている。

 現在の白州は高齢化が進み、勤務先なども市外が多く、突如の災害にはなすべき術も見当たらない。

 私は一月かけて、小河川の上流を見て歩いたが、その現状は惨状ともいえる地域もあり、早急の対策を感じた。

 普通でこうした問題は、議員が質問したり、行政サイドの対策に任せがちであるが、地域の人々もただ任せていたのでは、対策にはならない。
 大切なことは、危険が迫り得る地域の人が、上流の現場を見たり、その対策を関係機関に尋ねたりする。こまめな活動が求められる。
 確かに多額な予算を伴う砂防や堰堤改修工事は、おいそれと手がつけられない。ましてや予算が削られていく中であり、優先順位とも合間見えて、加速できない状況である。

 また高齢者が多い中で、危険を煽るような行為も避けなければならない状況下で、どのような解決策があろのだろうか。

 まったく使われなく崩壊した林道。周囲の砂礫崩落の続く小河川。応急工事や堰堤工事のさまざまなものが、川底から突き出ていたり、麻袋の散乱が不安をいっそう煽る。
 南アルプスの麓は、想像以上に崩壊が進んでいる。

 また崩落の進む中で、新たな問題が生じている。大型の皆伐採植林や、大量の切捨て間伐が急速に実施されている。
 こうしたことは二次災害の要因とはならないのであろうか。災害への解決や行動も見られない中で、影響の出る恐れのある単独事業が進む。
 山梨県の里山整備は着実に進んでいる。と行政担当者よく口にするが、私の調査では、逆に里山が荒らされ、放置され、崩壊が進み、調査が進めば進むほど、その差が大きく感じられる。確かに一部林道は改修されているが、小さな河川周辺の上部は「立ち入り禁止」の看板に象徴されている。

 私たち住民は、ほとんどこうした小河川の下流にある。地域住民の安全は地域住民が考える時代なのか。せめて行政は災害を助長するような行為はやめてもらいたい。
 「災害は忘れたころにやってくる」のではなく、集中豪雨などで「いつでもやってくる」のである。

 私たちは災害を忘れてはならない。 




 
 

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 世界遺産の白川郷

 そこには国際色豊かな観光客が訪れていた。
 慣行バスが所狭しと並び、道路には「開通」の文字が躍る。

 白川郷の中は、観光用にだいぶ整備されているようだ。
 
 どこでも歩く観光客もいる。民間駐車場がまばらに設置していて、入り口には駐車料金を受け取る老人の慣れた手つきが気になる。道路を駐車場を求める車と観光客が交差する。 これはいただけない。ただの観光地ではない。「世界遺産」である。中はゆっくり歩けるようにしたほうがよい。
 観光と商売それに保全改修それに思惑が交差する。田植えの時期、すべてが「世界遺産」の白川郷、私はここには住めない。プライバシーが消失してしまう。

 帰ってから小学館刊行の新編日本の旅7「東海・飛騨」を見る。私はこの白川郷のほうが好きだ。それこそ日本を代表する「世界遺産」があった。

飛騨は白川郷は林業の故郷でもある。集落の共同作業は屋根葺きだけではなく、林業関係にも息づいていた。

 <関連サイト yahoo検索>世界遺産白川郷 
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tbtop&p=%c7%f2%c0%ee%b6%bf
 

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