|
白州町の人物史 宮川義汎 県会議員 電力尽力者(白州町横手「駒の松」所有者(枯れ死))
慶応元年八月十四日、旧駒域村横手一八九九番地、武川筋の名門宮川伝左衛門・はんの二男として生れる。
はじめ甲府徴典館に学び、のお上京慶応義塾に学んで帰郷した。
温厚で衆望厚く明治二十八年駒城村長に選ばれ村政に尽し、
明治三十年郡会議員に、
明治三十二年には県会議員に当選。のち県参事会員に推されて功績を上げ、政友会県支部総務にもなって県政界に貢献した。
その他郡農会長、地方森林会議員、赤十字山梨支部商議員等多くの要職を歴任した。その問県道改修、穴山橋改築など氏の力にあずかるところ大である。
一方実業界にも敏腕を振い、大正二年七月、高尾水力発電株式会杜を設立、取締役となり(中巨摩郡榊村上宮地に高尾発電所建設)。
大正十年三月駒電力株式会杜取締役杜長(竹宇大原発電所、同十五年一月青木発電所建設)に就任、続いて中央電力株式会社監査役も歴任し電力界に偉大な業績を残したことは特筆すべきことである。また山梨銘醸株式会杜(七賢)、甲斐無尽などの各会社にも関与して進展に尽した。
このように氏は家を妻「ます」にまかせて日夜東奔西走、社会のため人のために尽したことは万人の認めるところである。
惜しくも昭和七年六月六日、八十四歳で逝去したが、有志相図り横手の(駒城小学校入口)駒の松の敷地内に類徳碑を建立、永くその功績と徳を讃えている。
|
歴史人物列伝
[ リスト | 詳細 ]
|
白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)
白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
|
|
白州人物史 古屋五郎氏(白州町の創始者)
明治四十三年一月二日、旧菅原村字竹宇の旧家古屋浜吉・ふじの三男として生まれる。
甲府中学校(現二高)で勉学するも、兄二人が旧東京帝大に学びながら病魔に倒れたので氏も同じ轍をふまないようにとの両親のはからいから、進学をあきらめ家に帰り農業を継ぐ傍ら、
昭和二年から菅原村役場書記として勤務をはじめる。
昭和十三年には助役になり村政推進の中核として活躍中、
昭和十六年太平洋戦争に応召され満州(綏陽)及び南方(マレー・スマトラ方面)の戦線で皇軍の一員として活躍すること六ケ年。
とくに南方の戦線においては隊長が職権をかさに看護婦を辱かしめようとしているのを見るにしのびず、一兵卒である氏は軍律厳しい当時としては全く無謀と言うべき、上官に告訴し看護婦を守つたというエピソードは、道義一筋を貫いた氏の信念として高く評価されている。
昭和二十二年復員、
昭和二十六年菅原村長に当選。
昭和三十年の町村合併に伴ない初代白州町長として引き続き就任し、町行政の要として十六年間
敏腕を振われた。それは「町の財産は人作りである」との信条から教育の面に力を注ぎ、施設及び人的問題を含めて統合巾学校の必要性を説き、資金賓材の苦難に対応したがら昭和二十九年には県下に誇る白州中学校々舎を建築した。
さらに地域発展のためにと町村合併を決意し、幾多の難間題をのり越えて今日の白州町の基盤を整えた。
また昭和三十四年台風襲来による末曽有の大災害の復旧事業には心血を注いでこれに当った。
この間、県町村会長・全国町村会常任理事・県農業構造改善審議会長・県農協合併促進審議会長・県農林統計協会長・秒防協会長・河川協会長・日本赤十字山梨支部副支部長・国立公園協会県副支部長をはじめ各種委員など数多くの公職を通して県政に参画した。
よって昭和三十七年には県政功績者として知事表彰を受けた。
町長退任後も県公安委員長.内水面漁場管理委員長として活躍した。
一方昭和二十二年菅原山岳会を設立して以来会長に推されて現在に至り、県山岳連盟会長・日本山岳会理事として南アルプスの開発に多くの貢献をなした。
昭和六十年勲五等瑞宝章に叙せられたことは氏の功績を物語っている。
この陰には、よ称子夫人(元白州町婦人会長)の内助の功のあつたことを附記する。
著書『南十字星の下に』新聞春秋杜発行がある。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8E%9F%E5%85%89%E9%9B%84&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
|
|
白州町人物史 原光雄氏(「白州町誌」昭和61年)
明治四十二年八月五日、白州町白須、原源吉・さなへの三男として生まれる。
峡北農学校を卒業、
旧制新潟高等学校理科甲類を経て、
京都大学理学部化学科卒
京大理学部専任講師、
大阪市同大学商学部教授となる。
昭和三十七年より二年間商学部長を勤め、同年四月、阪南大学商学部教授兼商学部長、
昭和四十八年三月退職。
昭和五十五年三月、阪南大学教授を定年退職。
著書
『文化学老ラヴォアジェ』(弘文堂)、
自然弁証法の研究(大雅堂)、
科学と民主主義(日本科学杜)、
化学入門(岩波新書)
等主な著書二十五のほかに発表した論文五十五余あり、戦前戦後を通じて、自然科学史、化学史、自然弁証法などの分野で多数の著書、論文を発表され、白然科学史の第一人者として学界に確固たる地位を築かれた。
そして、その該博な知識と熱意をもつて学生の教育と教員の指導に当たられ、敬慕されている。
退職後は悠六自適の生活を過しておられる。
現住所大阪府吹田市高野台五-二-六
|
|
白州人物史 成沢浪次郎氏(「白州町誌」昭和61年)運輸業の先駆者 道路開発 県会議員
明治三十一年六月十目、東山梨郡牧丘町字成沢(旧成沢村)で、代々庄屋を勤める旧家成沢孝作・きんの三男として生まれる。
青春時代は、海軍に籍をおき、機関兵曹で除隊する。
大正十四年旧菅原村白須に分家し、商会を設立、トラツク四台で運輸事業を経営したが、地域への寄与などから峡北貨物自動車株式会社に組織替えし、家業の興隆と地域進展に努めた。
この間、旧菅原消防団に入団、のち推されて団長となり町村合併後も引続き白洲町消防団長として、地域の防災、住民の生命財産の保護のため率先力を致され、山梨県消防協会副会長(会長は知事)として活躍した。
なお、山梨県交通安全協会長坂支部長、県協会副会長として、交通安全対策に尽力した。また山梨県トラツク協会長坂支部長としても運輸事業に寄興する。
さらには地域の与望を担い、昭和二十二年五月、山梨県議会議員に当選。日ごろ道路の整備が地域振興の基盤であるとの信念を生かし、国道二十号線の改良、日野春・長坂線の県道編入、笹子トンネル開通など、土木.林務常任委員長として、地域はもとより、県政発表のために、尽
力された功績は大なるものである。
ちなみに、昭和二十八年には道路事業に、昭和三十九年には運輸事業に尽された功績で、建設大臣、運輸大臣よりそれぞれ表彰をうけた。
また、消防に尽された功績で昭和三十七年藍綬褒賞をうけ、昭和五十九年には勲五等瑞宝章をうけられたことでも、氏の功績が偲ばれる。なおこの陰に、喜代子夫人長)の内助の功を附記する。
|



