サブやんの気まぐれ調査研究

日本の里山は崩壊します。守るのは私たちです。行政主導の時代は終わり新たな取り組みが求められています。

歴史人物列伝

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

……団十郎家の先祖…… 『市川団十郎代々』
                       服部幸雄氏編

 初代市川團十郎の先祖は謎に包まれていて、よくわからない。烏亭焉馬の『市川家家譜』によると、代々甲州の武士で、永世年間(1504〜21)に北条氏康の家臣になり、天正にいたって小田原没落後、下総國埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、重蔵の代になって市川に移って郷士となり、江戸初期の慶安、承応(1648〜55)のころ江戸に出たという。

別に奥州「坪の碑」の近くにある市川村から出たという説(『松屋筆記』巻四)、葛飾郡市川村から出たとする説(後述)などもある。このころの芸能者の出自が明白であるのはむしろ不自然というべきで、後代になってからもっともらしく創作された可能性が濃い。

 通説に従えば、初代團十郎は万治三年(1660)江戸の和泉町で生まれ、幼名を海老蔵と言った。享保十五年(1730)に作られた初代の追善句集『父の恩』の記事によると、父親は堀越重蔵(十蔵とも)と言い、幡谷村の土地を弟に譲って江戸に出たのだとのことである。人望厚く地子惣代( )を努めるほどの顔役だった。侠客と交際もあり、「菰の重蔵」とも、また顔に疵があることから「面疵の重蔵」ともあだ名されていた。著名な侠客唐犬十右衛門と親交があり、初代團十郎の幼名海老蔵の命名者は十右衛門だという伝説も語られていた。

 右に述べた團十郎の家の出自にまつわる数々の伝承は、正確であるという保証はないが、初期の一歌舞伎役者の素姓に関する何らかの真実を伝えているように思われるし、のちに荒事の宗家となる市川團十郎の故郷としてもふさわしい。だがここにはなお隠された真実があるようにも思われる。 

 ……成田山新勝寺……
 『郷土資料辞典』「千葉県・刊行と旅」

 (前文略)
 寺は中世に入ると衰退したが永禄九年(1566)成田古薬師に移転され、近世初期、佐倉藩の祈願所として復興された。元禄十三年(1700)香取郡医王院から入山した昭範上人は寺の再興を図り、宝永二年(1715)寺基を現在地に移して諸堂塔を造営、寺観を整えるとともに、不動尊の霊験を世に広く宣伝し、多くの信者を集めて、今日の隆盛の基礎をつくった。昭範上人が中興第一世とされている。
 江戸の市民たちの、信仰とレクリエーションを兼ねた「成田詣で」が盛んになったのもこのころからで、その要因の一つとして、江戸出開帳と、歌舞伎役者の初代市川団十郎があげられる。
 江戸出開帳とは不動明王本尊と二童子像を厨子に納め、佐倉街道を経て江戸に出向くことをいい、第一回は元禄十六年におこなわれ、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝したという。以後明治31年最後の深川出開帳まで十五回を数え、江戸市民と成田山の接触を深めた。
 初代市川団十郎は今の成田市幡谷の出身で、団十郎の屋号を成田屋と呼ぶのも、これによる。子宝に恵まれなかったが、ひたすら不動尊に念じて一子九蔵、後の二代目団十郎を授けられてから不動尊を取り入れた芝居、いわゆる荒事芸を演ずるようになった。これが当たって、市川団十郎とともに成田不動の名を、江戸市民に深く印象づけることとなった。
 七代目団十郎も成田山の授り子といわれ、天保十三年(1842)、老中水野忠邦による天保改革の奢侈禁止令に触れて江戸を追われたとき、成田屋七左衛門と名を改め、暫く成田山内の延命院に身を寄せている。

 ……『明和伎鑑』……「筑波大学図書館所蔵」
   『市川団十郎』内掲載。西山松之助氏著 

 市川家
  元祖市川團十郎三ケ津立役の開山
  才牛。下総佐倉の住人。幡谷村(一本、成田)
  堀越某の男。幼名海老蔵。居宅、深川木場。
▽ 市川團十郎発祥の地三珠町

  ホームページ『甲州勤番風流日誌』より
 甲府盆地の南に位置する三珠町は歌舞伎の市川團十郎発祥の地であるとされている。
 この地は武田信玄の異母兄弟一条信龍が富士川沿いに攻めてくる敵を迎え撃つために上野の地に城を築いた。その家臣に武田信玄の能の師匠をしていた堀越十郎家宣がいた。武田勝頼公が織田・徳川の連合軍に敗れ、勝頼公が自刃、一条信龍も自害する。そして堀越 十郎家宣は一宮の石原家に家系図を預け、一族ともども代々信仰していた不動尊をたよりに下総国(千葉県)成田方面に逃れ住み着く。
 その孫の重(十)蔵は弟に田畑を譲り江戸に出る。その子として生まれたのが蝦蔵である。そして十四歳で初舞台をふみ芸名を「市川段十郎」と名乗った。芝居で紅と墨を使い、顔に隈取りをして、斧を持って激しい立ち回りを荒々しく演じた。これが好評を博し後に荒事と呼ばれ、市川家の芸風の基礎を作る。二十歳になり「団十郎」を「團十郎」に改める。「国構えに専らと書く。日本で一番えらい役者という意味だ」と言う意味で文字通り日本一の役者になる。ただ初代市は川團十郎役者仲間の生島半六に刺されて四十五歳の生涯を閉じる。
 これが市川團十郎のル−ツが西八代郡三珠町であるゆえんである。ちなみに現在の十二代市川團十郎の本名は堀越夏雄氏であり、三珠町の名誉町民である。
 現在一条信龍の城のあった甲府盆地南の曽根丘陵に歌舞伎文化公園が建てられている。そこは江戸歌舞伎の最高峰市川團十郎に関する市川家寄贈の資料が展示されている。中に入ると九代目市川團十郎の市川家十八番の演目「暫」の写真が迎えてくれる。初代から十二代市川團十郎の役者絵と写真それぞれの紹介がかかれている。
 一条信龍の館址は蹴裂神社となっていた、昭和のはじめに五代目市川三升がこの地に「市川團十郎発祥の地」という標識を建てた。それもいつしか朽ち、第十一代團十郎が再度建てたがそれも朽ちたが、現在の團十郎がまだ十代目市川海老蔵が昭和五十九年十一月に顕彰碑をこの地に建てることになった。
 私は2000千年十一月十九日に朝早く訪ねた。中に入ると案内の男性がおり、客が私  一人であったこともあるが、一時間近く話を聞かせてくれた。それは私があれやこれや質問したこともある。
 資料館の外は牡丹園になっている。そしてその中央の正面に「市川團十郎発祥の地」と 刻まれ、上部には市川家の紋「三升」、右側面にはイライラが募って竹の根を抜こうする  がなかなか抜けずに体が赤くなるという初代の役者絵「竹抜き五郎」が浮き彫りにされている。
 ちなみに市川家の花とされている牡丹の花であるが、二代目に由来するとされてい る。二代目の贔屓方であった江戸城大奥に権勢を張った絵島(?確かな記憶ではないが)が二代目に贈った着物の柄が牡丹であったところからそれを使うようになったという。
 (中略)歌舞伎はいろんな意味で市川家のル−ツ甲州が影響を与えている。
 まず市川家の家紋の三桝は三つの桝が三個重ねあわされたデザインである。歌舞伎の役 者絵にも誇張された袖に市川家の三桝が描かれていることから目にされている方も多いであろう。一番大きな桝が甲州桝、中の桝が京桝一升、中央の桝が京桝五合である。甲州桝は京桝の三倍、三桝である。
 ここから市川家が歌舞伎の芸名では「團十郎」を使うもののそれ以外の書や絵の場合は 「三升」を使っていることが理解できるであろうか。
 さらに團十郎の話によると、江戸歌舞伎の荒事の言葉の荒っぽさは甲州弁に起源がある とのことである。
 市川の姓は三珠町の隣にある市川大門町であることとなんか関係があるのだろうか。
 初代團十郎は自らのルーツがここ市川の庄にあることを知っていたのであろうか。(諸説あり初代團十郎が千葉県市川の生まれというのもある)
 また舞台で「成田屋」!と声をかけられる意味も團十郎の祖先が甲斐から成田の庄に逃れたからということに起源があることをご理解いただけるであろう。

▽ 『市川団十郎』……人物叢書 西川松之助氏著
 (前文略)
 市川家の祖先については、甲州の士で、永正年中(1504〜1521)北条氏康の家 臣となり、小田原の没落後下総(千葉県)幡谷村に移って郷士となったが、のち慶安年間(1648〜1652)に江戸に出た。とするものと(焉馬筆『市川団十郎家譜』)市川家は奥州坪の碑(イシブミ・宮城県)の近在に在る市川村から出たとするもの(『松屋筆記』巻四)などがあるが、今日では前者が有力である。 すなわち武田後北条の浪人であったが、武士出身で父の重蔵の頃から江戸に出て江戸の劇場街に近い和泉町に住み着いた。この人はなかなかの利けた者で地主組合の組合長になり、町の顔役でもあった。一方またその当時有名な侠客であった唐犬十右衛門とも親交の間柄 にあり、彼自身、菰(コモ)の重蔵と呼ばれる侠客仲間であった。
 それで初代団十郎が万治三年(1660)に生まれたとき、侠友唐犬十右衛門はみずか らその名附け親となって、これに海老蔵と命名したと伝えられている。このような初代団十郎の荒事はその出自にも深い関係があったことを容易に想像することができる。

▽ ホームページ『成田屋早わかり』テキスト−服部幸雄氏著『市川團十郎代々』
   〈祖先〉
   團十郎の祖先の出自は諸説ある。
 ●代々甲州(山梨県)の武士であったが、下総国(しもうさのくに)埴生郡幡谷村(千葉県成田市幡谷)に移り住み、初代の父親の代になって市川の郷士となった。その後、慶・承応(1648〜55)に江戸に出たという説…烏亭焉馬『市川家譜』

 奥州坪の碑の近くにある市川村から出たという説…『松屋筆記』巻四
葛飾郡市川村から出たという説…栗原東随子(東随舎)『古今雑談思出草子』  

 宗教的性格がひとり團十郎の芸だけに色濃く付与されているので、あるいは、宗教的芸能民の血筋が流れているかもしれないと想像される。

 十代目は甲州出身説をとり、山梨県西八代郡三珠町を市川團十郎家の発祥の地と断定した。それを受けて十一代目は三珠町に発祥の地の木標を建立。そして当代團十郎襲名にあ  たり、昭和59年(1984)十一月には黒御影石の発祥記念碑が建てられた。さらに平成六年(1994)四月には三珠町歌舞伎文化公園が完成した。

▽ ホームページ『やまなしマップ百科』
 初代市川団十郎の大祖父は甲斐武田氏の武将一条信竜に仕えた堀越十郎で、北条氏との戦いの武功によって、三珠町の地を拝領したと伝えられる。武田氏滅亡後は千葉に移り、孫の重蔵の代に江戸へ。その子蝦蔵は十四歳で山村座の舞台を踏み、市川段十郎を名乗った。
 十二代団十郎は先祖の地の顕彰を実現しようと、三珠町上野に市川家の紋「三桝」をあしらった碑を1984(昭和59)年建立。町は88年、碑を中心にした歌舞伎文化公園を造成、意までは「歌舞伎の町」としてすっかり定着している。

 こうして資料を読み取れば、市川団十郎の初祖についての史実は曖昧な内に
 十代目は甲州出身説をとり、山梨県西八代郡三珠町を市川團十郎家の発祥の地と断定した。それを受けて十一代目は三珠町に発祥の地の木標を建立。そして当代團十郎襲名にあたり、昭和59年(1984)十一月には黒御影石の発祥記念碑が建てられた。さらに平成六年(1994)四月には三珠町歌舞伎文化公園が完成した。
 となり、これが

▽ 市川団十郎の祖は甲斐の三珠町の出自地の歴史なっていくのであろうか。史実とするには確かな史料を積み重ねることが肝要である。歴史は創作してはならない。

山梨県西八代郡三珠町のいう説は、合併により誤った認識のまま歴史となっていくのであろうか。

歴史は創作してはならない

…団十郎の祖、堀越氏についての調査

 ……山梨県知名辞典……
 三珠町及び市川地方に堀越の地名は見えない。

☆ …武田信玄・勝頼に於ける家臣
 ……『武田家臣団』……

☆  武田信玄家臣団及び一条信龍の家臣に堀越の姓を持つ者は見えない。
 ……元祖團十郎傳并肖像……
  文化五年(   )『近世奇跡考』(山東京停)
 江戸の俳優初代市川團十郎は、堀越重蔵といふ者の子なり。慶安四年辛卯、江戸に生る。重蔵は下総国成田の産、【割註】或云、佐倉播谷村の産、役者大全に云市川村」なり。
 江戸にうつり住。曾て任侠を好み、幡随院長兵衛、唐犬十左衛門と友たり。團十郎生れて七夜にあたる日、唐犬十左衛門、彼が幼名を海老蔵となづけたるよし、【割註】今の白猿ものがたりぬ」初名を段十郎とよび、後に圃十郎に更む。曾て俳諧を好み、奮徳翁才麿の門人となり俳號を才牛といふ。延寳のはじめ、和泉太夫金平人形のはたらきを見て、荒事といふことをおもひつきたるよし、【割註】『侠客傳』に見ゆ。」延寳三年五月、木挽町山村座、凱歌合曽我といふ狂言に、曽我五郎の役を始めてつとむ。【割註】時に二十五才。」延寳八年不破伴左衛門の役を始めてつとむ。【割註】時に三十才。」衣裳の模様、雲に稲妻のものずきは、
  稲妻のはしまで見たり不破の関
といふ句にもとづきたるよし、『江戸著文集』に見ゆ。貞享元年、鳴神上人の役を始めてつとむ。【割註】鳴神を堕落さする女の名を、雲の絶間なづけしは、團十郎おもひつきたるよし、これらを以て其才の秀でたるをはかり知るべし。
元禄七年、京にのぼり、同十年に江戸に下れり。
【割註】貞享五年『役者評判記』「野郎立役二町弓」といふ書に、左のごとくあり。
 ○此ころのひょうばん記は、おほく半紙本なり。位付あり。元禄末横切本となり、位付あり。

 ……市川團十郎

…… 『歴史人物大事典』角川書店刊 

 江戸時代前期以来の歌舞伎役者。本姓は堀越。屋号は成田屋。万治三年五〜宝永元年二月十九日(1660〜1704)。重蔵の子。幼名は海老蔵。祖先は甲斐の武士で、父は江戸に出て侠客と交際があった。延宝元年(1673)中村座『四天王稚立』で初舞台を踏み、市川段十郎の名で荒事芸を創始する。三升屋兵庫の筆名で『参会名護屋』(元禄十年)『源平雷伝記』(同十一年)『成田屋分身不動』(同十六年)など十六編絵入り狂言本を残す。市村座で『移徒(ワタマシ)十二段』出演中、一座の生島半六(?)に刺殺された。俳名は才牛。
 
……市川團十郎……『人物大事典』

 江戸の俳優にして三ケ津荒事の開山なり。俳名才牛と曰ふ。堀越十蔵の忰にして万治三庚子年の誕生にて、幼名を海老蔵といふ。其の頃江戸の侠客に唐犬重右衛門といふ人あり。海老蔵といふ名は此重右衛門が付けしといふ。重右衛門より贈りし絹地に海老を畫ける掛物世々市川段十郎の家に所持して秘蔵せり。稚きより伎藝を好み劇場に入る。云々

 ……団十郎の系譜…… 『歴史への招待』藤田洋氏著

 初代の事蹟はよくわからない。先祖は甲州の武士堀越十郎、武田家滅亡ののち下総埴生郡幡谷村に移り、その子孫の重蔵が江戸に出て男子を設けたのが、初代団十郎だったという事になっている。異説もある。市川姓は生まれた葛飾郡市川村からとったともいう。

 ……初代市川團十郎…… 『江戸時代人物百科』
 万治三年(1660)江戸和泉町に生まれた。父は下総國埴生郡幡谷村の農民だったが、江戸に出て地子総代を勤めた堀越重蔵(十蔵ともいう)延宝元年(1673)十四才の初舞台に坂田金時の役で「荒事」を創始したと伝えられる。

 ……市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 ……
 『江戸時代おもしろ人物百科』 

 寛保三年(1743)に生まれる。本名は中村利貞。字は英祝。通称和泉屋和助。別号立川焉馬。談洲桜。桃栗山人柿発斎。本所に住む大工の棟梁だったので、狂名は鑿 言墨金という狂歌師であり、洒落本、黄表紙、合巻などの戯作もあり、五代目市川団十郎と義兄弟になって戯作にも手を染めた。落語は彼の余戯であったが、天明六年(1786)四月十二日、大田南畝、鹿都部真顔の協力をえて、向島武蔵屋方で噺の会を開いた事が契機となり、以後も文人達の協力で再三噺の会をひらき、噺本も刊行して、鹿野武左衛門以後絶えていた江戸落語中興の祖という役割を果たした。
 主著は演劇史『歌舞伎年代記』、洒落本『客者評判記』、噺本『喜美談話』『詞葉の花』『無事志有意』など。文政五年(1822)六月二日に没した。享年八十歳。

 ……市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 ……

 年80歳。『江戸文人おもしろ史話』杉田幸三氏著 

 江戸出身。寛保三(1743)〜文政五(1822)

 本所の相生町にいた大工の棟梁和泉屋和助が通称である。五世団十郎と仲がよく、団十郎の名をもじって「談洲楼」という号がある。
 父の職を継ぎ大工の棟梁となった。が、どういうもか自宅では木綿製の足袋を売っていた。大工の棟梁からきた狂号を「鑿 言墨金」と称した。

 相生町の家は、上り口から六尺四方の三升(三升とは紋所の名。大・中・小三個の升を入れ子にし、上から見た形を図案化したもの。団十郎の家紋として有名)形。上部には、五世団十郎が男之助に扮した時の上下でつくった揚幕を垂らしていた。さらに二階に二室あったが、畳に三升の模様を織り出し、一室の天井は同様、三升形の網代天井とし、障子の骨まで三升だった。また襖や畳の縁を見ると、団十郎の十八番の暫に着た柿色の素袍を使っていた。それでいて、洒落本、草双本、笑話作家なのである。云々
 ……市川家に関する伝記の作者、烏亭焉馬 ……
   『歌舞伎の世界』「象引考證」服部幸雄氏著

 烏亭焉馬が熱烈な五代目団十郎の贔屓で知られ、義兄弟の契りを交して、談洲楼(だんじゅうろう)と名乗ったほどであったことを、改めて言うに及ぶまい。馬(焉馬)の守護神である猿(五代目は俳名の文字を白猿と改めた)の民族についての知識も、両者の関係の親密さを物語るもののように思う。

 焉馬は「花江都歌舞伎年代記」を編纂する一方、天明九年(1789)刊の「江戸客気団十郎贔屓」を端緒として、寛政四年(1792)刊の「御江都錺蝦」から文政元年(1818)刊の「以代美満寿」に至る、いわゆる「白猿七部集」を次々と編集し、出版した。これらの書を検すると、焉馬が早い時期から、市川団十郎代々の当り芸を抜き出して紹介しようという意識を抱いていたことがはっきり見てとれる。云々

 


.

過去の記事一覧

標準グループ

私は言いたい
私は言いたい
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事