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「信玄逝去につき御遺言」(「甲陽軍艦」品第三十九)箇条書き
1、
四月十一日未の刻(午後一時ごろ)から、信玄公は御容態が悪化され、御脈がことのほかに早くなられた。
2、
また十二日夜、亥の刻(午後九時ごろ)には、口の中にできものができ、御歯が五、六本抜けて、それから次第に衰弱なされる。
3、
死脈をうつ状態とたられたので信玄公は御覚悟なさる。
4、
譜代の家老たち、配下を持ち一家をなす家臣たち、すべてをお召しになり、信玄公は次のように仰せられた。
5、
六年前、駿河へ出陣の前に、板坂法師(医者)がいうには、自分には膈(胸、胸の下に食物がつかえる胃病)という病気があるとのことであった。この病気は、思慮を重ね、心労が積ったので、こうなるのだ、と聞いた。
6、
さて信玄が、若いころから弓矢を取っては、おそらくは現在、日本一すぐれているのは、他将と違っているからだ。
7、
諸国の大名たちも武道にかけては武勇の誉れがあるとはいえ、いずれも他国の大将を互いに頼み合って、両軍が協力することによって勝利を得るもの。
8、
あるいはもっぱら剛強だけをたよりとして、勇名をとどろかすもの。
9、
または多くの国を治めて大身となりながらも、他国の武将の武勲に恐れおののいて、末子を人質に出そうとする侍などがいたと聞いている。
10、
まず北条氏康は、太田三楽・上杉憲政・輝虎(上杉謙信)をそれぞれ敵にまわしてかなわないので、我ら、信玄を頼み、松山陣(埼玉県松山)そのほか一、二度我が軍の出動を依頼してきた。
11、
今川義元も、氏康と戦った時、我らが出陣して富士山麓の下で北条家を攻め、その結果、今川義元と北条氏康との和睦が成立した。が、これもみな信玄が助けたからだ。
12、
毛利元就は中国をあらかた支配し、四国、九国(州)まで威力をふるうので、この元就をおそれて、三好長慶なども元就の配下のようにふるまっているけれども、信長の威にてらして、四郎(毛利元就の子藤四郎)という子を信長へ奉公にやる支度をすすめていると聞く。
13、
さらに長尾謙信輝虎は武勇を全国にとどろかせたのに発して、上杉(憲政)管領のあとをついだが、我が信玄に敗けたままだ。
14、
我らの侍大将・高坂弾正に命じ、信玄が出馬しないまま、弾正だけでもって越後の領内へしばしば侵入するが、越後から甲州の領内へ攻め入るなどということは夢にも考えられぬことだ。この頃は信州の内にさえ、おいそれとは出動できないありさまだ。その上、越中では、大将らしい者もいたいのに敗れ、敵に攻められて、それでも翌年にはもり返して加賀の尾山(金沢城)を攻めて圧倒したりしたことはあるが、とにかく謙信も負けたことはしばしばだったのだ。
15、
信長・家康は、互いにあちらを助け、こちらを助けして勝利を重ねてはきたが、信長は包囲した城のかこみを解き、味方を捨てて退くなど、まぎれもなく引き際の醜態がたびたびである。しかも一向坊主を敵にしていて、家康がいなければならない状態である。その家康は小身な未熟者である。
16、
また北国には輝虎ほどの大将はいない。
17、
中国、九州には毛利元就にまさる大将はいない。日本国中にも右の四人にまさる武功高い大将は、今は大唐にさえおらぬというほどである。
18、
ところが信玄は、手柄をたてるのに、若いときから他国の大将をたよって出馬を願い、連合して戦ったことは一度もない。
19、
また包囲した城のかこみを解いて退いた事は一度もない。味方の城を一つとして敵に奪われたこともたい。甲州国内には城郭をかまえて用心することもなく、館はただの屋敷がまえですませてきた。
20、
ある人が信玄公の御歌として言う。「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方讎(あだ)は敵なり
21、
敵国では五十日にわたって作戦を行い、味方の領地には何者も侵入させず、各地を掠奪して廻り、小田原まで攻めこんだうえ、帰途に一戦を行って勝利を得ている。
22、
去年の三方ケ原の合戦のおりも、信長・家康が申し合わせて、十四カ国を領有しているところに攻めこみ、二、三里近くの二俣城を攻略して勝利し、遠州三州の境の刑部に、十二月二十四日から正月七日までの十四日問滞在した。
23、
この間、天下の主である信長からいろいろと和睦を申しいれてきたうえに、我が被官の秋山伯者守信友を信長の婿ということにし、それを口実として末子の御坊(という子を甲府にまでよこしてきた。が、信玄の方から破棄して、信長の居城、岐阜の六里近くまで焼き払って攻めた。
24、
一万余の軍で信長が出陣してきたが、馬場美濃守(信春)が、千に足らぬ兵によって上道一里あまり追いつめたので、後をも見ず岐阜に逃げこんだので、岩村の城をこちらが攻めとった。
25、
このように信玄の武勇というものは、人をたよることもなく、このたびも北条氏政が加勢に出るといってきたけれども、無用と申したのだ。武門の手柄は以上のようだ。
26、
また、信玄はあしかけ五年以前からこの病気は重大なものと考えたため、判を書いた白紙を八百枚あまりここに用意してある、と仰せられ、御長櫃から取り出させて各共へお渡しになり、言われた。
27、
諸方面から書状がきたならば、返信はこの紙でせよ。信玄が病気とはいえ、まだ存命と聞いたならば、我が甲斐を侵攻しようとする敵国はあるまい。そんなことはすこしも考えず、ひたすら領国をとられぬ用心だけをするであろう。
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したがって、三年間は自分の死を隠して国の安全を保つように。
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