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反骨百年
北富士の農民たち(漢数字を一部訂正)
御料地編入と下戻しのたたかい 福島達夫氏著
(「歴史地理研究」岩崎学術出版社 145 昭和43年発行)
福島達夫氏yahoo検索
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E9%81%94%E5%A4%AB&ei=UTF-8
自然は荒れたー県有杯へ払下げ
明治維新以後、山梨県地方を襲った水害は明治元年、15年、31年が大きなものであったが、40年8月22日より26日にかけての大水書は″古今未曽有″のものであり、その直接の損害は1300万円に達し、そのため交通、教育、勧業等の積極的な施設建設事業を中止したほどであった。その時、9万余町歩の林相か荒廃したという。この大水害に対して皇室は日野西椿従を派遣し「救他の御恩召を以って内幣金5千円を下賜し流域調査を行なった」。この水害の原図は「稚新以来、入会地に対する官民有区分当時より多年官民意見を異にし、入会関係の不平不満は識らず識らず愛林の観念を失った」ため山野荒廃したことと考えられた。(「山梨県前掲書」)
この水害のあとに、帝室林野局の営林事業着手の計画がたてられた。それは水害対策のみではなく、帝室林野局の事業が御料地確定とともに軌道のりだしていたこととも照応した。林野局の施策第一期事業は32年度から40年度、第二期事業は41年から昭和3年までの20年間であり、北富士の谷村出張所からの施策地内の入会放棄の申し出は、ちょうどその時にあたっていた。
さらに明治43年4月、山梨県は警察部にとくに林野警察部を置き、林野の取締まりを強化した。その事情については、山梨県の『山梨県恩賜県有財産沿革史』に、つぎのように書かれている。
「到底尋常の手段を以ってしては、維新以来の積弊たる山林盗伐放火の弊風を匡正すること克はざるが故に茲に英断を以て全国 まだ其の類例を見ざる林野警察制度を興し、森林法並之に基く諸般の法規を汎く県民に知得させ其精神を普及徴底させるとともにこれを厳正に施行せしむ為山林現場取締に重きを置いた。」
このような、尋常ならざる手段をもって取締まることになった直後の夏、またまた40年の水害をうわまわる大水害が山梨地方をおそった。甲府市内の三分の一が浸水、郡内地方では笹子川が氾濫して人家をおし流し、鉄道線路を破壊した。富士山北麓の河口湖の水かさも増大して周辺の湖岸一帯を水びたしにし、その氾濫は数日におよんだ。
この度かさなる大洪水による惨禍は、遂に宮内省の北富士営林事業の計画を挫折させた。明治44年3月7日宮内省第四号をもって山梨県下の富士、荻原、丹沢、相川各世伝御料地の各一部7万9313町歩を御料地から解除することになった。勿論この鮮除は大洪水の惨禍という自然災害〔まさに、このような山野利用の破壊からひきおこされた、いうところの自然災害〕を契機とし″皇室がこれをあわれと思い、その復興援助の意味を含めて山ともいわれるが、これまでみてきたような地元民の山を求めるさまざまな闘争や抵抗によって″勧料林当局としても、森林の合理的経営は極めて困難厄介なものとなっていた″というのがより本質的な原因であった(黒田前掲吾、45頁、48頁参照)。
ところで、この勧料地からの解除は、3月11日付宮内大臣渡辺千秋は内閣総理大臣桂太郎に以下のような『和沙汰書』を提出して、実現した。
「山梨県管内累年水害ヲ被り地方ノ民力其ノ救治二堪ヘサル趣小閔然二被思食特別ヲ以テ帝室林野局甲府支庁所轄御料地ノ内段別二九八二〇三町七反七畝拾五歩ヲ山梨県有財産トシテ下賜候条善後経営ノ策国土保全ノ途相立テサセ恩旨貫徹侯様処理スヘキ旨衛沙汰被為在候此候伝宣侯也」
ここに地元民が、ひたすらに求め続けた山、下戻し運動の対象であった山は、地元民のところへ帰ってこなかった。そのまま山梨県有財産となった。富士山麓の山野は、官有地から徹料地に、そして三転して県有財産となった。地元民にとってみれば、新しい″おかみ″である県の財産として、求めつづけた山は地元民の手からそれて″御下賜″された。すでに明治末年、下京し運動をすすめる人々の世代も交替した。今に残る文書に記された指導者の氏名も当初と違って新しくなっている。世代を変えての長期化してしまっていた宿題でもあり、渇望でもあった山野の下戻しは、ここでも実を結ばなかった。
そして北富士の山野は″恩賜県有財産山と呼ばれ、今日も″恩賜林″といわれている。″恩賜″とは一体なにか。″恩賜山の本質はここ北富士のたたかいの中で、まざまざとその正体をさらけだしている。明治憲法施行前日の明治23年11月28日、急遽勅書をもって概括的に世伝勧料という、普通勧料よりも民衆から遠い財産に指定された北富士衛料地は、またその解除も最初であった。この経過をみていると、″絶対至高の天皇の権威山によっても、北富士の農民たちのたたかいを圧倒して屈伏させることはできなかった。そればかりか、明治憲法下の天皇制のもろさを露呈させ、それを隠蔽するために、山は地元民にかえさず、県へ″下賜″したのであった。これは天皇制の権威の敗北以外のなにものでもない。
山は地元民の手許にかえってこなくなった。地元民は、また″おかみ山を皇室から山梨県にかえて、下戻し運動をつづけていくことになった。
<附記>
この闘争記録は、さいわい地元の人にも多数読んでいただき、その後の記録を続ける責の重さを感じながら一年半を経過した。その間、南島町の住民運動の報告をはさんだためである。河津や、家島や、南島の住民たちと語りあうとき、明治時代に国家とたたかっていた北富士の農民たちの面貌をそこにみる思いがした。日本民族の反骨の精神は、思わぬところの山村に、ひなびた.漁村に脈々と生きつづけ、エネルギーを育てている。そしてそのエネルギーの源泉は、″生産の場の確保″″労働をまもる″山たたかいにあることを知った。
67年8月24日6時37分、東富士演習場でR30型ロケットが発射され、この日、14発が富士山腹にぶち込まれた。この試
射は66年12月20日から行なわれる予定であったものが、東富士演習場地域農民再建連盟などの反対によって延期させられていたものである。このR30型ロケットは発射台1台1800百万円、弾一発390万円。第三次防計画では48発射台をつくる計画である。この日北富士に発射されなかったのは、65年のリトル=ジョン事件後、自衛隊が慎重を期したためであった。北
富士でも67年8月下旬は「忍草入会組合員」と「同母の会会員」が演習場内の着弾地に「すわり込み小屋」を建て自衛隊の演習を中止させる闘争が行なわれていた。10月20日朝、この「すわり込み小屋」をアメリカ兵らが襲い、ふとんや、食器まで運び去るという事件がおこった。この小屋は21日には再びととのえられて開かれた。
拙稿をまとめながら幾つか気になるところがあった。たとえば、北富士以外の山梨県下の下戻し運動についての資料を持ち合せていないため、文献の読み方が北富士本意になっているきらいがありはしないかというようなことである。また、どうして御料地は直接地元農民のところへ下京しされずに、県有財産として払下げられたかということも、県当局や県会の動きを知っておく必要があるが、それについての知識もない。山梨歴教協の方々にお教えいただけるなり、補っていただけるならば有難い。
天皇制に対する″国民的感情山は、どのように形成されてきたかを知る手がかりが、ここ北富士にあるように思う。″天皇制にたてをつく″という今日の初老以上の者がもつ感じとは、当時は相当違っていたはずである。武田清子『天皇制思想の形成』岩波日本歴史第16巻)参照。今日静岡県下田の漁民は皇室和用邸候補地になったことを光栄と思わず反対の気運がある。
参考資料 北富士闘争
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%CB%CC%C9%D9%BB%CE%C6%AE%C1%E8&ei=euc-jp&fr=usf&x=20&y=17
山梨県明野最終処分場闘争
http://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv3-ybb&p=%E6%98%8E%E9%87%8E%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%87%A6%E5%88%86%E5%A0%B4%E9%97%98%E4%BA%89&ei=UTF-8
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