新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

日本名所旧跡図版写真

[ リスト ]

長壁伝説 宮本武蔵の妖怪退治など
長壁伝説の中で一番奇想天外で面白いのは宮本武蔵の妖怪退治であろう。しかしこれは伝説であって史実ではない。宮本武蔵は通説では美作国吉野郡(いまは英田郡という)讃甘村大字宮本で生れたと《新免家侍覚書》《東作誌》などに書いてある。だが《二天記》《武芸小伝》などに宮本武蔵を播州人と記し、また《古老茶話》には「播州明石の産」と書いてある。播州方面では姫路に近い竜野町近辺の石見村字宮本が武蔵の出生地で、それにあまり遠くない印南郡米田村が養子宮本伊織の出身地であると、いい伝えている。いずれにしても宮本武蔵は姫路の近くで天正十二年(或いは十年)に生れている。さて伝説は文禄二年(1593)というから正史の上では武蔵九歳のときのことなり、年齢的にあわないが、この話は史実ではない。とにかく武蔵は時の姫路城主木下家定の足軽烏組へ、滝本叉三郎と変名して足軽奉公に入った。烏組というのは御天守番である。このころ天守には妖怪が出るという評判が高く、組の足軽はいずれも夜の番を嫌っていたが、新参の滝本はいっこうに平気なので、毎夜他人に代って番を勤めていた。そのうちいつか家老の木下将監の耳に入り「彼はただの足軽ではない。新免二刀流の名人官本武蔵であろう」ということがわかって、あらためて城主家定の前に呼び出されて以後、木下家の客分にとりたてられることになった。
そのうち、武蔵は城主から天守の妖怪退治を命ぜられたので、ある夜、龕燈(ガンドウ)を一つ持って天守に上った。三階の階段にさしかかると、突然もの凄い火焔を吹き下ろしガラガラッと地震のような物音がした。「さては妖怪め、御参なれ」と腰の志津三郎兼氏の太刀に手をかけて様子をうかがっているとたちまちもとの静けさに戻り、何の異変も見えない。四階の階段にかかると再び火焔を吹き下ろし、地震のような音がしたが、剛毅沈勇な武蔵はやがて天守閣上にのぼり刑部明神の祀ってある祠前に立った。が、何ごともない。
 そこで夜の明けるのを待っているうちに、いつかウトウトしていたが、「英雄、英雄……」と呼ぶ声にはっと眼をさますと、十二単衣に緋の袴をつけ、檜扇をもった官女姿の美しい姫が現われて、
「われこそは当城の守護神刑部明神なるぞ。近ごろ妖怪変化住いをなし、人カをおびやかすにより、退治なさんと思えども心にまかせざりしところ、その方今宵退治に参りしため、妖怪は怖れをなして既に逃去ったり。よってその褒美にこの宝劔を取らすぞ、みだりに人に見せぬがよい」といって忽然と消えた。
 宝劔は白木の箱におさめた郷義弘の業物であった。あくる朝、武蔵は事の次第を家老将監に報告し、将監より城主家定の耳に入れたところ、その郷義弘の名剣は城内の宝蔵より何ものかが盗み出したものとわかり、武蔵に嫌疑がかかって、詮議が終るまで家老雨森縫之助にお預けの身となったという筋である。
 しかもこの物語は減蔵の仇討はなしがくっついているから、講談と殆んど同じ作り話であろう。
 
姫路城内上山里の中央にお菊の井戸
怪奇な話といえば姫路城内上山里の中央にお菊の井戸というのがある。これが播州皿屋敷の伝説で知られる名高い井戸だ。この伝説も於菊大明神由来ともいうべき姫路市内の十二所神杜所蔵の《播州皿屋敷実録》が定説のようになっているが、これも浄瑠璃狂言から巧みに作りあげたものと思われる。
 室町時代の城主小寺則職の執権に青山鉄山という者があった。ひそかに主家横領の陰謀をたくらんでいたが、忠臣、衣笠靱負元信の怪しむところとなった。そこで元信は愛人お菊(播州赤穂の坂越港に住んでいたという)を青山家の女中に住み込ませて謀飯をさぐらせた。ところが鉄山の三男に小五郎というものがあって、城主則職の息女白妙姫に思いをよせていたのを、お菊が取りもち顔で巧みに利用して、小五郎から則職毒殺の陰謀を聞き出した。
 永正二年(1505)三月二十八日、姫路城主小寺則職は執権青山鉄山が催した域北増位山の花見の宴に招かれて、満開の花をめでながら、まさに盃を口にしようとした刹那、突如として幕の外から飛び込んで来た一人の侍があり、あッという間に則職の手から盃を奪って、鉄山目がけて投げつげた。「狼籍者ッ!」満座は総立ちとなったが、乱入者はかねて忠臣の聞え高い衣笠元信であった。元信はお菊の注進で城主毒殺の陰謀を知り、花見の宴に飛び込んだわけである。たちまち花見の宴は忠臣、逆臣入り乱れて闘う修羅場と化した。
 しかし鉄山は浦上村宗らの加勢によって、毒杯から逃れた小寺則職を播磨灘の家島に逐い、一時、城主となった。お菊はなおも青山のもとに残り、竜野に逃れた元信への諜報をつづけていたが、ついに感づかれてしまった。そこで鉄山は、かねてお
菊に想いを寄せていた町坪弾四郎とはかり、一味を招いて饗宴のおり、重宝の《毒消しの皿》一枚を弾四郎に隠させた。そしてお菊を車門内の弾四郎の部屋に監禁して責め殺し、遺骸を井戸の中に捨ててしまった。
それからは毎夜、古井戸からお菊の皿を数える声が聞えたという。やがて、元信らは起って鉄山以下一味を滅ぼし、お菊は於菊大明神として、十二所神社の末杜に祀られたが、その亡霊はお菊鐘と化したというのである。
 この皿屋敷の伝説は、東京番町や摂津尼崎、そのほか各地にも類似のものがあるが、いずれも徴証はない。
 姫路では、もとは慶長後のことで、桐の馬場の歴六の武士の家にあった話だといい、あるいは榊原家の家臣山田休也の家のことで、白川にいたときの話だとも言い伝えられていた。
 
千姫の春や昔の夢の跡
以上は姫路城に伝わる代表的な伝説だが、城内に、「千姫の春や昔の夢の跡」という句碑がある。これは大阪落城悲劇のヒロイソ千姫が本多忠刻に嫁し、西の丸の中書丸(一名天樹院)を本館として、桐の門内の武蔵野御殿を下屋敷として住んだ遺跡である。
 千姫は元和元年十九歳の時、夫豊臣秀頼を火煙の大阪城中に残して脱出、万州津和野城主の坂崎出羽守に救われて京の二条域に伴なわれた。そして母の秀忠夫人に会うため江戸へ下る途中、勢州桑名から《宮の渡し》を渡った。この船中警護の役を勤めたのが、時の桑名城主本多美濃守忠政の嫡子として美男の聞え高い忠刻で、このとき千姫と忠刻の恋は芽生えた。そして翌二年四月家康の死後、千姫は十万石の化糠料持参で降嫁したのである。
 しかし千姫は家康との約束により、これを救出した坂崎出羽守の妻となるべきはずであったので、これを怒った出羽守は千姫の嫁入りの途上で千姫を奪おうとした騒ぎもあった。その翌年七月忠刻の父忠政は、桑名から姫路へ転封され、五万石を加増されて十五万万の城主となった。このとき忠刻夫妻も姫路に移ったが、忠政は千姫のため豪奢な西の丸や武蔵野御殿を設けた。城内に現存する化粧櫓は休息所、あるいは化粧の間であったと伝えられている。姫路に移った忠刻夫妻は、元和五年八月 
十四日の連歌にも
初秋の風を簾にまきとりて (忠刻)
軒端におほふ千の葉の露 (千姫)
などと睦まじい生活を営んだが、結婚生活十一年で忠刻は寛永三年五月三十一歳で死亡し千姫は同年十一月忠政が付添って江戸に帰り晩年には下総飯沼の弘経寺に移り寛文六年二月逝去した。
 
姫路城主榊原政岑 異色的なロマンス
この千姫の恋におとらぬ異色的なロマソスもある。
姫路城主榊原政岑はなかなか覇気にとんだ大名だったが、日光代参を望んで容れられなかったところから、幕府に対して不満をいだき、酒色に親しんで吉原通いをはじめた。《色婦録》にも艶名を調われ、ついには江戸吉原の名妓《高尾》を小判二千両で落籍したのである。
 そして姫路に連れ戻り、西屋敷に住まわせて政山令は居館からせっせと通ったという。《榊原騒動》の伝えるところによると、このため幕府の糾問にあい、「女の乗物を城内に通したのは、姫路城には昔から長壁(刑部)狐がおりまして狐の嫁入事を致しましたもの、決して不培は御座いませぬ」といい開きをしたというが、ついに乱心として隠居を命ぜられ、禄高半減のうえ、越後高田へ転封となった。高尾も召連れられ、政苓の死後は高田辺で尼になって後世を願ったと伝えられる。川柳に「紅葉狩すんで車の所替」(紅葉は肩所の高雄と太夫高尾をかけ、車は榊原家の定紋の源氏車をさしたもの)とある。高尾は歴代聞えた傾城(遊女)で仙台侯をはねつけたのもいるが、ここの話は俗にいう《榊原高尾》である。
 このほか歴代の著名城主は榊原忠次で在城十七年、よく仁政を施し、鎮守総社の石鳥居を建てるとき、足場に米俵数百俵を積み竣工のときに城下の窮民に安く払い下げたのが例になって、後の城主たちも毎年米の払い下げを行った。また松平明矩、酒井忠政、同忠実らも、多くの治績を残し名君の誉れが高い。

.

標準グループ

過去の記事一覧

検索 検索
サブやんの気まぐれ調査研究その2
サブやんの気まぐれ調査研究その2
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事