新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

全体表示

[ リスト ]

八ヶ岳信仰(「長坂町誌」より)
八ヶ岳信仰の概観(「長坂町誌」より)
八ヶ岳は長野県と山梨県にまたがり、南端の編笠山から権現岳、赤岳、横岳、さらに夏沢峠を越え、北端の蓼科山まで続く南北二一キロメートルの連山である。
〔二つの八ヶ岳〕
この広範囲の八卦岳を『信府統紀』に「右甲州境八ケ岳ノ峯ヨリ遥ニ亥子ノ方当レル処ニモ又八ケ岳ト云山アリ」と、二つの八ケ岳の記述があるように、夏沢峠を境.に南八ケ岳、北八ケ岳に二分することもある。
〔北八ヶ岳〕
北八ケ岳には、根石岳、天狗岳、中山、丸山、茶臼山、縞枯山、横岳、蓼科山があげられ、八つの峰の山名に変化がみられないのに対し、
〔南八ヶ岳〕
南八ケ岳は長野県諏訪地方、山梨県側などの地域によって八つの峰の山名が多少異なっている。
八ケ岳の山名は、古くは正保二年(1645)の八ケ岳山論裁許状に「八ケ岳逸見筋小淵沢村ト諏訪領蔦木村山出入之事」にみえる。
八ケ岳の山名の由来は、一説には八ケ岳の「八」が八百(やおよろず)の「八」と同義で多数という意味から、連山のように多くの峰を持つ山と解せられる。
一般には『甲斐名勝志』(巻之四)に「此山西は信濃国諏訪郡北は佐久郡なり、嶺分れて八有故に八ケ嶽と云」とあるように、八つの峰が集まった山として八ケ岳をとらえている。
江戸時代中期ごろの文献から現在に至る八ケ岳の記述も、この認識に基づいており、それを記してみると次の通りである。
『甲斐国志』(巻之二十九)
八ヶ岳…権現岳、小岳、赤岳、麻姑巌、風ノ三郎ケ岳、編笠山、三ツ頭、其余種々ノ呼称アリト云
『甲斐叢記』(巻之七)
八岳又谷鹿岳と作く長沢、西井出、谷戸、小荒間、上笹尾、小淵沢等の諸村の北に時立て桧峯権現岳トモ云、小岳、三頭岳、赤岳、箕蒙岳、毛無岳、風三郎岳、編笠山等八稜に分るるゆえに此名あり
『すわかのこ』(宝暦六年)
八簡山、八岐山…地蔵ケ岳、虚空蔵ケ岳、磨磐山共云、擬宝珠ケ岳、薬師岳、権現岳、阿弥陀ケ岳、編笠ケ岳、中ニモ至リテ高シ斎河原ケ岳(西岳のことをいう)
『八ケ岳絵図』(長野県富士見町乙事区共有)
権現岳、薬師岳、阿弥陀岳、擬宝石岳、編笠岳、地蔵岳、虚空蔵岳、西岳
『日本山岳志』
八ケ岳八峰中に、小岳、麻姑岳、風ノ三郎Lグ岳、三ツ頭等ノ名ヲ挙ゲタレド、今ハ普通、赤岳、阿弥陀岳、御柱山、西岳、編笠岳、箕蒙岳(別名硫黄岳)、擬宝珠岳、横岳等ノ名ヲ用ユル如シ
『山梨県市町村自治名鑑』(大正九年発行).
八ケ岳は、権現岳、小岳、麻姑岳、風三郎ケ岳、編笠山、三ツ頭、桧峰の八峰…
『長野県の地名』(平凡杜出版)
諏訪地方では、南の編笠山から順次北の方へ西岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、それに峰の松目あるいは天狗岳を加えている。
『北巨摩町村取調書』(県立図書館若尾資料大正五年)
権現岳、小岳、赤岳、麻姑岩、風の三郎ケ岳、編笠山、三ツ頭、槍小岳、桧ケ岳に雷神、石長姫を祀る。
 
〔八ヶ岳の山名〕
このように山名を列挙してみると『甲斐叢記』は単に峰の名称を列記する『甲斐国志』に比べて、八峰名を列記して八ケ岳を明らかにしている。ところが、列記している「赤嶽」「毛無岳」は、明治初年ころの『西井出外十三ケ村入会絵図(高根町)に「八ケ岳ノ内明嶽又ハ毛無岳」とあることから同一の山で、別称を複数にかぞえるなど、八ヶ岳の記述に不明の点がみられる。
 
〔諏訪側の八ヶ岳山名〕
さらに、諏訪側の「すわかのこ』、乙事の『八ケ岳絵図』には、山梨県側にみられない「薬師岳」「虚空蔵岳」「地蔵岳」「阿弥陀岳」などが記され、両者の違いをみせている。
明治中期ごろから山名の変更が起こり、呵弥陀岳は擬宝珠岳になり、桧峰を権現岳と称していたが、その後薬師岳を権現岳と称するようになった。そして桧峰、阿弥陀岳、虚空蔵岳、地蔵岳などの名称が消えていった。
この消減原因は、山名は必ずしも独立の峰ではない一定の信仰的目的をもつ場所にも付されることがあり、こうした峰を含めた八ケ岳から、独立の八つの峰をもった八ケ岳とすることへ変わったためであろう。
こうした原因は、八ケ岳山麓一帯のこの山に対する信仰が衰退し、登拝する者も減少し、山名も含めて八ケ岳に関する地域伝承が途絶えたことや、探検、観光登山の案内のために『日本山嶽志』にみられるように山名不明な山に名前を付けたごとによるものと思われる。
以上のように、どの峰をもって八ケ岳とするかは、地域性はもとより時代の推移とともに変化しており、八峰をもって八ケ岳とする説はあいまいになっている。
 
八ヶ岳の範囲
『国志』(巻之六五)に「八ケ岳権現、桧岳ニ鎮座ス桧峰神杜ナリ石長姫、八雷神ヲ祀ルト云フ」とある。桧岳に八ケ岳権現が祀られ、現権現岳の西にある石桐が桧峰神杜である。赤岳を八ヶ岳の中心とする地誌観とは異なるが、八ケ岳権現を祀る桧峰神杜を中心に信仰された峰表が、八ケ岳の範囲とみられる。
 
〔『輯製二〇万分の一図復刻版』〕
明治十七年参謀本部陸軍部測量局が着手した『輯製二〇万分の一図復刻版』に、権現岳の位置に八ケ岳の地名が記されている。これは、権現岳を八ケ岳の中心とする地誌観によるものであろう。
 
〔「大平山五ケ村入会図』〕
これと同様の地誌観によると想われるものに、明治十一年六月の「大平山五ケ村入会図』に権現岳西南一帯を「字八ケ嶽』とあり、
〔『新選信濃地誌』〕
また明治二十七年発行『新選信濃地誌』には「東ニ趣クモノハ立科、赤岳、八ケ岳ノ山脈トナリ、佐久、小県ト諏訪ノ境トナラン」とあり、赤岳と区別して八ケ岳の山塊を記している。
大正二年の五万分の一の八ケ岳の地図に、赤岳付近に八ケ岳の名称が記されているので、八ケ岳の中心が赤岳に移っていくのは、明治末期ごろのようである。
〔赤岳権現〕
信仰的側面においても、江戸時代中期長野県茅野市泉野の行者が国常立尊を祭神として赤岳権現を祀り、赤岳を開山しているのは、八ケ岳権現に対置した独立の意味からであると考えられる。中央に大きく「八嶽大神」、右に「赤嶽大神」、左に「東嶽大神」(三頭)と石碑(長野県富士見町)に刻まれているのは、赤岳より八ケ岳を上位に、かつ独立した信仰の存在を示している。
さらに、高根町長沢の修験の寺、真鏡寺由緒(杜記寺記)の文中に、「根本之義ハ兼帯所八嶽篠杜明嶽---」と併記しているのも八ケ岳と赤岳とは互いに包括されない独立の山であることの認識に基づくものであろう。
このように八ケ岳と赤岳とは、地誌的、信仰的側面において独立、併列の関係にある。現在赤岳を八ケ岳の中心とするのは、赤岳を八ケ岳の最高峰とする明治中期以後の登山ブームから生じた探検、観光登山家の地誌観の反映であろう。八ケ岳山麓の歴史、民俗、文化を考える場合、赤岳を除いた八ケ岳の範囲を明確にしていくことが不可欠と思われる。

.

標準グループ

過去の記事一覧

検索 検索
サブやんの気まぐれ調査研究その2
サブやんの気まぐれ調査研究その2
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事