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神話伝説からみた八ヶ岳(「長坂町誌」より)
〔金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構〕
八ヶ岳を見る二つの異なる視点八ケ岳南麓に住んでいた人々は、八ケ岳をどのように見ていたのだろうか。このことについて、金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構に関連して、次のような二つの見解がみられる。
(1)『山梨の古代』(山日出版)
「かこう(花崗)岩製の立石があった。かこう岩は、このへんにはない。その性格は、もう一歩不明である。はるかに離れた釜無川あたりの石だが、いったい、ここまでどうやって運んできたのか、なんのためにこの地に立てたのか、わからないことだらけだ。
ただ、いえることは、金生遺跡の正面にツンとそびえ立つ地蔵ケ岳と、なんらの関連がありそうだ、ということぐらいである。大胆な推測だが、当時、地蔵ケ岳のウニストンピークを男性の象徴に見立てた子授け信仰があり、祭祀場である金生遺跡では石棒や立石を立てて、ここから地蔵ケ岳をよう拝していたのではなかだろうか。」
(2)山梨の考古学』(山日出版)
「配石遺構の南側には前期、中期、後期の堅穴住居止群があり、北側には晩期の敷石住居辻群がある。巨大な配石を「祭壇」と考えた場合、人々は雄大な八ケ岳を背景にした配石群の前で祈りをささげたのであろう。ところが、配石遣構が造られたのは晩期であり、その時期の住居は配石よりも北側、すなわち、祭壇よりも高い場所に営まれていると報告されている。祭壇を造った人々が、祭壇の内側、祭られるべき場所に住んでいたという矛盾がみられる。このため、祭壇は住居から見て甲斐駒ケ岳の方向にあることから、甲斐駒ケ岳を祭ったものだという説も生まれている。しかし祭壇は南側から祈るように造られているのは事実で、八ケ岳を神体山に見ていることは動かせない。
(1)の見解のように八ケ岳に背を向けて南アルプスに視点を置くのか、(2)の見解のように八ケ岳に正面から向かい合うのか、八ケ岳南麓の歴史を考える出発点において基本的理解に相違がみられる。
(1)からは縄文人や古代人の心の中には八ヶ岳への信仰の姿は消えてしまうか、または影は薄くなってしまう。当時の人々にとって生活のすべてを依存するのは、八ケ岳南麓の自然の恩恵や驚異なのであり、それへの感謝の祈りや畏敬の念をいだくのは八ケ岳の神にほかならず、(2)の説明が妥当な見解であろう。
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