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山梨文学講座 山口素堂と通天橋 辞世句
また『通天橋』の雁山の文中に
それの春(享保元年)野夫(雁山)京師に侍りしに、この便りに此句にて心得よとて、いひ送られしか、猶その際迄も、都の花を慕ふ心、いと浅からずや。実に今おもひ合すれば、とく其期を知れるにや。かの文の奥に、
初夢や通天のうきはし地主の花 素堂
とあり、素堂の辞世の句が示されている。
また京都に居た雁山に素堂の急逝を知らせた僕伝九郎の存在や、晩年素堂の周辺居た子光のことは、資料不足で明確にはできないが、旧友の追悼文を見ると杉風(衰杖)は、同じ深川でも新開地の海辺機近くに、早くより別荘の採茶庵を開き、退隠後はそこに住んでいた。後世の書には杉風の姉が甲斐に住んでいて、天和三年の春に芭蕉が甲斐谷村に来た折りにこの姉を頼ってきたとの記載もあるが、根拠資料が不足しており、確定していない。別荘は「近き辺りに軒を隔て」で歯堂の近所に居て往来していた。
雁山は幼い頃は甲府から京都に出て入山していたようで、素堂も京都には頻繁の出かけていて、素堂への移住への思慕を表わした句文もあり、晩年は京都で越年することも度々あった。『通天橋』は京都臨済宗東福寺にある橋の名称であり、嘉禎2年(1236)に藤原道長が創建し、禅宗の一派の寺院で唐の普化禅師を祖とし、建長6年(1254)に東福寺の法燈国師覚心が普化宗を宗より伝えたという。東福寺大本山として江戸時代には幕府から普化宗の総支配寺とされた。この東福寺に元禄年間に通天機が建立された。
今日では紅葉の名所として有名になったが、通天機の本来の意味は、現世を虚無とする道程を示すもので、解脱することにより完遂すると説き、これにより天への架け機を渡れるとしたものである。素堂も上京の硯には立ち寄りあるいは請われて宿坊とし使用したのかも知れない。なお業堂は日蓮宗を深く理解し、母没年の元禄八年の夏には深草の元政の故事に憧れ甲斐身延山久遠寺に詣でている。
素堂は谷中の感応寺(現在の天王寺)に葬られたが、その後雁山により他の寺へ移葬されている。
業堂と京都の関係を示す資料は多くあり、本文に収録してあるので本文を参照のこと。その他『通天橋』には多くの追悼句文が掲載されているが、拙著『山口業堂の全貌』の本文に掲載してあるので一読されたい。
また文中に「……けらし」「……ならし」らの語句が見えるがこれは素堂がよく用いたものである。
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