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『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その2
日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治二八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には良でない人口九割の賤の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の四つを始め赤系でない者を追いこんだ。
足利幕府になると今度は逆で、赤系の祗の八つも反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。
まだアイマイモコの喜田史観の間違いだらけよりも、明石書店刊高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判りうるといえる。
「良いことを言われると、ひとは悪い気がしない」という人情のキビを巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でも訳けが判らなくなる。仕方がないというか、まあ当り前みたいになっている。
さて拝火宗で「祗」とよばれる「八つ」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を「四つ」と「八つ」を交互にくりこんで互いに牽制しあわせて被差別。藤ナイは10世紀流入の契丹系をさす。契丹は唐を滅ぼし取って換った国ゆえ大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上った「八つ」は八母音の原住民で農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる餌戸。
石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ区別されていたというが契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押しこみ限定地。だが「エの戸、つまり江戸」の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、すこしでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立てしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。
「その筋の御達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は「千金の子は盗賎に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へきても農耕をせぬ洞戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝方の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。
千の宗易こと俗にいう利休の自決後、その木像を八付にかけた後その一味のササラ衆を部落に追いこんだのが茶せん(茶筅)部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。また昔はハングリースポーツ興行だった角力はオドマ勧進の、勧進元で取締っては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存のダンナなどないからして、一向宗は部落に目をつけた。悪人でも念仏を唱えれば善人に生れ変る。部落民でも、信心すれば次は常人に生れてくるのだと、真言宗の本願寺説教憎が信徒にして廻ったので寺人別の数は増えた。だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。
僧へ絶対に近かよらなかった原住民の全体は、この百倍以上が、実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。
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