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八切止夫氏著作集

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『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その3

 さて大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にして四倍に値上刊行し、第六版から二二版まで世に送りだしたのは、金あつめのための作為なのかとも感じられる。なにしろ喜田貞吉博士はモの大正八年には南北朝両統問題でりース直系の三上参次らに睨まれ国定教科書編県官を追われ、やむなく自費で、「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金繰りで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にして貰った裏取引とも考えられる。日本では歴史屋は真実追及よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえである。
 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ彼差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広めたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」。それと、この「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すえの「橋のない川」である。
 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを、本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人を」作ってきたのである。
「天の古代史研究」の本さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄則部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して、奴隷にして被差別した歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。
 が売れて広まったこれらの本のため大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田郷世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の三千八百人が押しよせ、村田銃をうちかけ火をつけて、乱入し片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。
 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名をとった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝された土地。特殊部落とはいえ長史岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンヘいっていた。だが当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康とは松平元康の改名せしなり」という故、山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布。(『松平記』として日本シェル出版四八〇〇円)そこで周辺近郊の者らが、世良田の徳川には、これまで冥が米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地許の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。
 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集ってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。
 しかし当時の学士会は、華族会の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれの華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理をたて、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、さかのぼった奥付年月にした『松平記』を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。

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