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『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その4
なにしろ、彼ら明治史学家の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長座天皇を明白にした事と楠木正茂の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その健で解明できずだった。脇星・湯浅・楠・新田の地名が特殊部落にどこも多い。
さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷詠朗詠果」から始まって「くぐつ記」遊行衆説教師遠の「鉢屋由来記」から「賤者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」菊池山哉の「賤とされし先住民族……日本部落史料」「長吏部落↓日本の特殊別部落」だけが主らしい。
しかし国定教科書編集員だった喜田員吉だけが学界では評価され、部落者の者としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及ビ非人・社会外の人」明治時代までは、口伝えに残こっていたでユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致する者だけを己が名で発表しアイヌ研究の権威となった金田一京助に対し、アイヌの遺産を返すよう、モの伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し三部作を出しているボン・フチである。初め東大出の教授の肩書の喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でもそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊他山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は、まったく出してくれぬからと、東京史読会を作ったのである。
さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で戦国時代の村山七党の流れをくむ武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。〈野史辞典〉に三河の旗本は二名とはもれゆえである。今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の、世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国申で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、このとき裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河星いなりに犬のくそ」とまでいわれる。岡崎城も御三家どころか僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の、「後三河風土記」が広まったのも三河島旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。
旗本になった連中は後から採用され30人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や太製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と駿河七〇万石へ移封したのは、家康が徳川の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重荷を背負って……」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作りあげ、徳川家連を公爵にして華族会長にまでした。それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。
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