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『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その5
彼ら歴史家は、崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の、「八つ」との区別もできず、10世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って換った契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であらうと指が八本との妄説までたてる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話をかいているのに喜田貞吉らは気づかず「特別部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。
三韓征伐はまったく逆で馬韓・弁韓・辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦六六三年に世変りした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送りこみ徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのが、ゲットーの居付き部落と知らぬらしい。
続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ尽きると自滅させた。『日本後記』や『続日本記』に記録されている。
八つはマレーシア経由の黒潮渡来族ゆえ、農耕漁業製塩をなし食糧増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王に率いられ、中大兄の韓国系に食糧確保の政策上から子をうまされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが終りには岡山のゲットーヘ収容、奴可耶の地名を今も残す。
四つは崇神御孫景行帝が八つの八坂姫にうませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。
彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山ガツ餌取り餌差しとされ、特殊部落民とされてゆく。
恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が11世紀は青眼の賊舶が次々と来襲、山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛むかぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語でイと呼ぶから「刀イ(伊)」の乱。この時、頼光四天王として坂田金時らも現われるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ従五位下止りで昇殿は不許。
ようやく文治革命で夷津の夷頭の北条政子の世になると京を征伐し尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変りして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に足利創業に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。
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八切止夫氏著作集
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