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見徳寺に室町の弥勒木像(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
【竜王新町厄除け不動尊】
第一日(竜王町・双葉町・韮崎市藤井・中田・穴山泊まり)
山村の生活史を探る夏草甲州西道中が八日からはじまった。この朝八時、出発点の竜王駅前に九十一人の参加者を集めて結団式が行なわれたが、一行は最年少の甲府北中二年内田慎吾君(一三)から高根村の輿水善重老(八二)まで色とりどり。野口山梨郷土研究会長のあいさつ、斎藤竜王町長、保坂同教育長らの祝辞に続き、一行を代表して佐藤双葉東小学校長が「規則正しく行動して道中の目的をはたしたい」と宣誓、式をおわり、地元婦人会、青年団の歓迎を受けながら町当局者の案内で、まず空海四十二歳の作という竜王新町厄除け不動尊を見学した。小宮山彦一郎同区長からもとは宝憧出光善寺の本尊であったと説明され、斎藤町長らは県文化財指定の申請を進めているという。
【山県大弐の実兄山県斎宮(いつぎ)宅跡・有富山慈照寺・古墳】
ついで山県大弐の実兄山県斎宮(いつぎ)宅跡を見て、有富山慈照寺に進み、昨年県の文化財指定となった山門を見学した。これは寛永十六年建立されたものだが、桃山時代の建築様式を巧みに江戸時代に取り入れているのが特徴だ。山門二階の五百羅漢は安産信仰から寄付されたものと伝えられ、産婦に貸したのが返って来ないものがあり現在は三百ほどしかない。また本堂に陳列された家康の禁制、信玄印書など古文書を見ながら大森住職から説明を聞いた。
同寺裏から赤坂に出ると両目塚、双つ塚、狐塚など昔の豪族の古墳であったと思われるのが並んでいるが、一部の人々がこれを踏査した。
【赤坂・稲荷・三権茶屋】
赤坂は昔日、甲州街道の信州へ通ずる要路だったが、中現で信州への道は今はすっかりさびれている。赤坂の赤坂稲荷に立ち寄り、いまでも甲府若松さ姐さん方が縁起をかついでお参りにくるという稲荷信仰になつかしさを感じ、さらに坂をのぼれば昔三軒の茶屋があって、いまも三軒茶屋の名が残っている赤坂の頂上で、中村双葉教委長ら十散人双葉町から出迎えていた。三軒茶屋もいまは一軒しかないが苦労して掘った井戸など往時、街道筋の茶屋として栄えた名残りをわずかながらとどめていた。
【然記念物の″楊子梅″】
北上して中宿へ出、武田信玄が信州への遠征途上、立ち寄り、
弁当の梅に楊子をさして捨てた種が生長したものと伝えられる天然記念物の″楊子梅″を見た。「樹齢三百五十年を誇る老木だが、実際にはアソズで種には楊子のさせる穴があいている。こんなところから信玄にまつわる伝説が残っているのかも知れない」と楊子梅の持ち主井上重郎元登美村長と佐藤八郎講師から説明かおり、ここでは中島双葉町長はじめ町民の大歓迎を受け、諏訪神社に向かった。
【諏訪神社・オタメ石・勤番の士、中村六右衛門の住居】
竜地のこの神社では、ひとかかえもある蓋つきの石箱を見、屋敷割りによる集落の移動など街道筋の盛衰について佐藤講師から話を聞いた。これら屋敷割りのあとは宿を作ろうとした名残で、信玄時代には要路であったことが実証された。また宿の通りはカギなりに曲げることを特徴とし全手の名が出た根拠だともいい、一つは敵に対する防ぎの意味からだそうだ。集落の移動に際しては時の代言所からご祝萱をくれたというが、そうした文献はどこにも残っていなかった。双葉東小学校でスイカの接持にあずかり、水争いで名の知れた楯無しセギの由来、田用水を下流へも公平分配するために用いたというオタメ石の話やオタメ石番の勤番の士、中村六右衛門の住居、セギの水のはけ口大涌井入り口(これは代官所の許可をとってやったものと伝えられる)などについて長田元村長、中村教育委員長、三枝善衛、佐藤八郎両講師から説明をきき、また中村恭民氏からは先祖の住まった建物が江戸中期の旗本屋敷の建築
モのものであることが説明された。
【看廻り塚・見徳寺参道・当麻戸神社】
団子新居から宇津谷の看廻り塚前を通りヽ新府城落ちのさい勝頼夫人が炎上する城をながめて涙を流したと伝えられる上の山沢の森で昼食。沢の森をあとに一行は小尾街道をすすみ、塩川を渡って相岱婦人会の歓迎をうけ、韮崎市藤井町へ。途中北下条で以前は見徳寺参道だったという田んぼ道で六地蔵を見、高松山見徳寺に参詣、本尊の弥勒菩薩木像は寄せ木遣りの室町期の作、近く植松県文化財調査委員が調査するという。駒井上野の当麻戸神社に参拝すれば氏子や婦人会が歓迎に待っていた。中田町中条の昌福寺、穴山町稲倉の穂見神社で往古への考察をすすめ、第一日の行程を終わり、能見城跡を展望しながら宿舎穴山温泉へと到着した。
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