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穴山能見城跡について(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
大森明道中講師は能見城跡について次の説明をした。
能見城跡は穴山氏の拠った南北朝期の山城である。穴山氏は武田十五代信武の五男義武に発祥する。
『大平記』延文四年畠山氏上洛の条に武田刑部大輔舎弟信濃守とあるが、刑部は武田十六代信成であり、信濃守は穴山義武である。武田信武、信成、信春の三世は中央史上においては足利尊氏、義詮、義満の三代六十年間にわたる時代であり、南北朝合一に至るまでの世代である。
甲斐の武門も南北の二派に分かれたもうろうの時代であった。信武は足利氏の殊遇を被り、その男の義武を穴山に拠らしめて穴山を氏号とする一族を創立させたが、武田勢力の辺見台地進攻の拠点を七里岩、穴山台に選定したことは、天険を利用することが居館と山城の築設から人工をはぶき威力を有ならしめるためである。西から南にかけて釜無の断崖、東は塩川の段層に亘る壮大な天険に立地している。
乳房山すなわち能見山を要害の中心として、近接するわし山、飯森山、おさごし山の小円丘、小丘陵を物見のとりでとして、山下の平地能見山東方の駒形神社付近に居館を配している。
能見城の構造については築城期を二期に分けて見ることが必要である。第一期は南北朝期穴山氏発祥当時の純然たる山城である。第二期は天正年間(天正九年五月起工、同年十二月まで)新府築城計画による能見城の修築改造である。第一期は前述の穴山氏の拠点であるが、時代の性格から大規模な築城ではなく、あくまで天険を主とした地形の利用であり、城地も居館も小規模簡単なものであった。居館、要害の分離した分散式構造である。第二期においては能見城の要害の一切を包む新府城の築設である。
穴山氏は当時南部氏の奥羽移封後の所領に拠り南部下山を領した。穴山氏の本所領地である穴山台を本家の武田氏に譲渡して大規模な新府築城が、穴山梅雪の進言によって具体化したことについては、今日なお郷土史上の大きな研究課題のひとつである。今日に残存する城跡遺構は天正築城に由来するものが多い。
塁跡は東門である竜の口門跡と、西門である鎮門跡には四間、五間の枡形塁跡を存している。東に能見山ろくをめぐる土塁をみとめる。
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