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研究報告 (武川町)唐土神社の研究 竹川義徳氏(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
今回の夏草道中第二日日、北巨摩郡武川村山高の幸燈神社をたずねた。ここで日ごろ知りたいと思っていた唐土神社との関係を調べることが出来たのは収穫であった。
このお宮は甲斐国志に、
大己貴命を祭り、新羅三郎義光を相殿とす。昔時は二両を大武川の河側唐土と云所に在り社地方一町余、張水に流亡して今は数株の古樹を余すのみ。元亀光年山高氏是を西宮と云処に遷し両両合せて相殿となす。正徳中又村内に遷せしが其よごれを恐れて、文化二年重て村上の旅行へ遷し(中略)文保中(鎌倉末期)新羅三郎義光を祭る。新羅の名を取って唐土の両と号すと言へり。
とある。
まず祭神の考察をすると、祭神は大己貴神と義光がまつってあり、大己貴神については正徳三年正月狩野洞元が書いた大国主命像を山高兵助信知が奉納したことと結びつき、義光については、北巨摩郡下には義光
をまつるお宮が多いので、これも当然として受け取ることが出来る。しかも義光は山高氏の遠祖とされているのでなおさらである。
ところがこのお宮はまたの名を唐土神社といい、県下の唐土神社の祭神はスサノウノミコト(素戔鳴命)が圧倒的に多いので、このお宮はなぜ国志・郡誌には祭神となっていないか。旧地を唐土というのは唐土神社とあった証拠ではないか。これについて山高の人にただしたところスサノウノミコトが祭神となっていると答えた。円井の歌田昌翰氏から見せてもらった武川筋神名帳には摂社に八雲社があり祭神はスサノウノミコトとなっている。唐土信仰がうすらいだため祭神のスサノウノミコトの影がうすくなったのであろうか、従って社名も幸燈神社が表看板になり、唐土神社は忘れられようとしているが、同社に「甲州巨摩郡武川筋山高村正一位唐土大明神幣帛」と書いたIメートル余の板が保存され、社殿の東に「唐土大明神」と刻んだ石鳥居の額が鳥居の桂の折れたのを立ててその上に載せ石神さんのようにまつられてあった。これは額の保存のためとも見られ、また唐土大明神は本殿からはみ出しているとも考えられる。
唐土信仰のうすくなったのはひとりここばかりではなく、合社、廃社となっているところもある。唐土の社名については甲斐国志で新羅三郎義光の名をとって唐土の祠と称したとあるのは、スサノウノミコトの存在を考えないものであると思える。
唐土神社については赤岡重樹氏の『甲斐古社史考』には、
唐土明神は大石和筋矢作、北山筋牛句等にも同名神あり、元亀神文になど明神とあり、遠戸の義にして近戸の対称ならん。吉沢千田、高町に近戸明神ありて食料は金峰の東麓、牛句、吉沢は其の南の南麓にあれば遣戸近戸は何等か因由あるものの如し
とあり、また先年群馬県勢多郡北橘村の民俗学研究者今井善一郎氏から山梨県でも唐土神社は金峰山の外側をとりまぎ、近戸神社は内側にあるかどうかと言って山梨郷土研究会に照会して来たことがあった。その際本県内の調査を私が依頼され調査したところ唐土神社と近戸神社の分布は次のようであった。
【唐土神社】
唐土神社は、東山梨郡牧丘町食料・同成沢・山梨市万力・同西後屋敷・東ハ代郡一宮町矢作・中巨摩郡敷島町牛句・韮崎市下条南割・円井・北巨摩郡須玉町江草・武川村山高など十社あり、社名については牧丘町倉料の黒戸奈神社、武川村山高の幸信神社の外はほとんど唐土を用い、唐渡と書く場合もあり、永禄四年の番帳に唐土の称宜と書いてあるのが一つ万力にある。祭神は大部分が素戔鳴命であるが、山高と竜岡の二つは大己貴命となっている。大己貴命は素戔鳴命とは全然関係がないわけでもない。
【近戸神社】
近戸神社は、甲府市宮本高町・中巨摩郡敷島町吉沢・同吉沢千田、韮崎市青木・同上条北割の五指を折ることが出来たが、祭神はみな違っている。ただ青木の近戸神社は摂社に荒神社というのがあり、素戔鳴命を祀ってある。
以上の唐土、近戸両神社を山梨県地図に書き入れて見ると、なるほど多少の遠近の差はあっても大休金峰山をとりまいており、遠く河内や郡内では唐土神社は発見出来なかった。唐土、近戸神社は金峰山に対する近戸、遠戸の関係であるという結論を下すことは早計かも知れないが、さりとて全然関係がないと断定するにはあまり道具がそろっているので私にはその探究を思い切ることが出来ない。
そこで今一つ問題を提供したいと思うのは金桜神社である。前記の唐土神社のある付近に、牧丘町杣口、山梨市万力、同歌田、甲府市宮本などに金桜神社があり、金峰山を奥宮としている点である。もし唐土神社を金峰山の遠戸、近戸とする説をとるとすれば、金桜神社と唐土神社をひろめた人たちと、両社創設の年代を異にするのではないかということも考えられる。
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