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原発 間違って信じていること アカデミズムから大型プロジェクトヘ
「地球環境・読本』「別冊宝島101」掲載 吉岡斉氏著(九州大学教養学部助教授)
さて、これまでの議論を踏まえたうえで、日本の核融合開発のあゆみを、歴史的視点から批判的に回顧してみたい。
日本の核融合研究の発足に直接のきっかけを与えたのは、前述の一九五五年の第一回ジュネーブ会議である。バーバ議長の開会演説における発言に触発されるかたちで、大阪大学や京都大学で研究が開始された日本の核融合研究の基本方針(ストラテジー)が決定されたのは一九五九年のことである。
その基本方針というのは、大学などの研究者を中心として、プラズマの性質に関するアカデミックな基礎研究を進めることに当面は専念し、大型核融合装置による高温プラズマの発生と閉じ込めの研究は行なわない、というものである。プラズマ核融合の基礎研究の日本における中枢機関として一九六一年、名古屋大学プラズマ研究所が設立された。
一九六〇年代の核融合研究はかくして、中小規模のアカデミックな基礎研究を中心に進められたが、ビッグ・プロジェクト化への指向が一九六六年頃より顕在化する。
日本学術会議原子力特別委員会(力特委)の核融合部会(嵯峨根遼吉部会長)は六六年十月、『将来計画第二次案』をまとめ、公表した。日本学術会議ではその二年前の一九六四年から、核融合研究の将来計画をまとめるための本格的作業に着手し、一九六五年に『第一次将来計画』(六五年四月)を公表している。その発表主体は、日本学 術会議核融合特別委員会(融特委)であった。しかし第一次核融合ブームの冷却化にともない、「融特委」は一九六五年、「力特委」の一部会へと格下げされた。『第二次案』の発表主体の名称が変わったのはその為である。
このふたつの将来計画の間には、天地ほどの内容の開きがある。
すなわち『第一次案』では、プラズマの基礎的・体系的研究を軸とした大学など(アカデミズム)の研究を充実させる、というのが主たる強調点であった。それに対し『第二次案』では、科学技術庁傘下の新しい「研究開発祖織体」を設立し、「核融合用プラズマ」の実現をターゲットとする大型のプロジェクト研究を推進することに、主たるアクセントが置かれることとなったのである。
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