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国宝市川文書の外貌(「信濃」第五巻第7号付録 昭和7年)
史料として史学界に高い位置を占めてる「市川文書」は、今春二月國賓に指定された。今日は、東北きっての大富豪、酒田本間家の所藏に帰して居るが、明治初年までは、米澤藩の大身、市川家の傳家の重宝であった事は云うまでもない。そして、その市川家なるものは、鎌倉初期頃、甲州から、信濃へ移佳した氏人であって、中野氏と併立して、下高井郡越後国境、樒山(堺村志久見)の地頭となり、南北朝後は中野氏を追って爾來、徳川初期慶長三年三月、上杉景勝の部下として会津方面へ移る迄、四百年内外は、日本の最深降雲地たる件の志久見、または箕作(堺村)に連綿居住した氏人であつた。そして、所謂「市川文書」は、この四百年間、彼家及び親戚中野家へ到来した重要の文書を指して云うのである。
維新後は、言わば古文書は「生活に直接關係ない物」になってしまった爲に、嘗ては生命にも代へ難かった重宝も紙屑として流れ出す運命になってしまった。
偶、歴吏研究の興味から、之を買集められたのが.地方史料界の大家、故伊佐早謙先生であった。先生の御話によると.当時是等文書の価格は一枚十銭以下だった,と云うのである。何れにしても、先生の様な篤學者の手にはいったればこそ、これ等の大吏料も今日迄無事に傳えられた、と云うべきであろう。もっとも既に流れ出したものもあったと見え.高田市の謙信文庫内に至徳年間の一通が存在している。が、大体は保存されていると見てよかろう。
去る昭和六年、先生の物故なされると、筆者は六郡教育界の御援を得て、其行衛を捜索する事三ケ年。漸く昭和八年に、本間家に移って居る事を発見し、同家に講いて、全部撮影の宿願を果した次第であった。玻璃版は、即ら其文書の張られてある巻輔物の外形である。大体、このように巻靹にされた時代は戦風末であるらしいけれど、付箋は相當前のものであるらしい。また此巻輸は、戦國期に特製された革筐に入れてあったのであるが、撮影当時の本間家には無かったのを、伊佐早先生の令嗣信氏、(下関地方裁判所長)の好意から本間家へ贈られる事になった。凡ての事は、思ひ出しても感慨無量なるものがある。
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