新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

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 私はこれまで数度にわたって「市河文書」と山本勘助について記してきた。
 大きな疑問は何故山梨県がこの文書類を2000万円もかけて購入する意味がどこにあるであろうか。
 さすが山梨県というべきか、やはり山梨県というべきか。
 この文書と山梨県が関係するものは「カンスケ」と「武田家」に関する範囲であり、多数の古文書は市河家の栄えた地域やその関係者の元に置いてこそ価値があるもので、山梨県の文化財指定などはその認識と良識を疑いたい。
 市河家の発祥が山梨県の市川に否定されるが、歴史資料からは市川三郷か山梨市市川も定かではない。
 従って山梨県ではその存在やコピーで調べれば済む問題であり、購入して文化財指定などはまったくその必要性が認められない。
 研究資料と歴史的価値観には大きな差異があり、こうした文書は故郷に置いてこそ価値があるもので、今回の山梨県の購入措置が正しいかどうか私にはわからない。
 市河家周辺の探訪をしてさらにその感が強い。

県立博物館
「勘助」名の書状など釧点到着 「市河家文書」を公開
県が今月上旬購入した、武田信玄の家臣・山本勘助(菅助)の名が記された古文書を含む「市河家文書」91点が県立博物館に到着し、26日に古文書の一部が報道陣に公開された。
市河家は、平安・鎌倉時代に甲斐国市河荘(市川三郷町、中央市、昭和町を本拠地とし、室町・戦国時代は北信濃で勢力を広げ、武田、上杉両家に仕えた豪族。
同家に伝わる文書約240点は、平安末期から戦国期に至る武士の動向などを知る上で貫重な史料とされる。
県が北海道釧路市在住の個人から約2千万円で購入した91点は、市河家が最後まで手元に残した南北朝時代から江戸時代(14〜19世紀)の古文書で、架空の人物説があった武田信玄の家臣・山本菅助(勘助)の実在が初めて確認された書状や、武田信玄(晴信)が市河信房の北信濃領有を正式に認めた朱印状、上杉景勝の重臣直江兼続が市河勝房にあてた書状などがある。
県立博物館学芸員の西川広平さんは「史実やそのほかの古文書を照らし合わせ、研究を進めたい」とし、県学術文化財課の三枝仁也課長は「本年度中に県の又化財指定を目指す」と話している。購入した古文書は、9月19日から23日まで、同館で一般公開される。(「山梨日日新聞 2009・6・27」記事)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(市川文書 から転送)
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市河文書(いちかわもんじょ)は、信濃国志久見郷(長野県下高井郡北部)の地頭職であった市河氏と豪族中野氏が残した書簡や古文書の総称。平安時代末期から戦国時代に至る市河氏の動向を示した武家文書群。中野氏は市河氏と縁戚関係を結んだ志久見郷出身の氏族で、両家の資料が市河氏に代々伝えられたことから、この名称で呼ばれる。

概要 [編集]
市河氏は、江戸時代に編纂された『甲斐国志』によると甲斐国巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町、旧市川大門町)を本貫地とする一族で、鎌倉時代初期に信濃に移ったとされる。『吾妻鏡』にも登場しており、鎌倉中期には中野氏を被官化して志久見郷を中心に勢力を築いたと思われる。この地は越後との国境に近い奥信濃に位置し、戦国期には武田氏に属したこともあったが、江戸期は上杉氏に従って会津・米沢と移り、代々受け継がれた文書も米沢へと移った。しかし明治期の変革の中で文書は他家の所有となり、昭和初期に本間家の所有となった(本間美術館所蔵品)。この段階で足利義満感状など一部の文書が失われており、また一部は、陸軍駐屯兵となった子孫が携行して北海道に渡った。
本間美術館所蔵品は、平安時代末期の嘉応2年(1170年)から室町時代の応永30年(1423年)まではほぼ揃っており、信濃や越後・甲斐の情勢を伝える貴重な一級資料とされ、地頭職にあったことから根本資料(当時の公文書)である鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣などが含まれる。ただ、残存状況が室町初期までの時代に偏り、戦国時代の文書は永禄12年(1569年)10月12日付市河新六郎宛武田家朱印状のみが現存している。
その後の調査で、米沢市在住の個人所有18通(本間家の手に渡る前に散逸した一部)が発見され、更に昭和44年にはNHK大河ドラマ『天と地と』の影響もあり釧路市で市河氏の子孫が受け継いでいた文書(本間美術館所蔵品の控えを含む)が発見された。釧路で発見された文書は中世から近世の古文書や系図などの文書群で、中でも武田氏家臣の伝説的軍師「山本勘助」の実在性を裏付ける可能性のある書状が含まれていることで注目されている。昭和51年には釧路市文化財に指定された。また、長野県立歴史館の所蔵する長野県立図書館旧蔵文書のなかにも2通の文書が含まれていることも確認されている。
本間美術館 146通(16巻)(山形県酒田市)- 国の重要文化財
個人所有 19通(北海道釧路市)- 市指定文化財
「山本勘助」実在の証拠 [編集]
山本勘助は江戸時代に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に唯一活躍が記されているが、同時代の文書には名前が見られないことから『軍鑑』作者による創作的人物であると考えられていた。
市河文書に含まれる「弘治3年(1557年)6月23日付武田晴信書状」(書簡)は、弘治3年(1557)の第三次川中島合戦で、武田晴信(信玄)が市河藤若に宛てた感状で、最後に「猶可有山本菅助口上候」(詳しくは山本管助が口上で申しあげる」と記されており、与力豪族への使者となるに相応しい地位にあったことが確認された。(どの程度の地位/身分を想定するかで諸説ある)。
この文書の評価を巡っては、上野晴朗ら勘助の実在性を示す文書として積極的評価する立場がある一方で、武田家中に「山本管助」と称する家臣が存在することを示すのみの文書であるとし、『軍艦』に記される人物像に関しては不確実とする慎重な立場もある。
弘治3年文書は、『戦国遺文』『山梨県史』に収録されている。



概要 [編集]
1)市河氏は、江戸時代に編纂された『甲斐国志』によると甲斐国巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町、旧市川大門町)を本貫地とする一族で、鎌倉時代初期に信濃に移ったとされる。

2)『吾妻鏡』にも登場しており、鎌倉中期には中野氏を被官化して志久見郷を中心に勢力を築いたと思われる。この地は越後との国境に近い奥信濃に位置し、

3)戦国期には武田氏に属したこともあったが、
4)江戸期は上杉氏に従って会津・米沢と移り、代々受け継がれた文書も米沢へと移った。
5)しかし明治期の変革の中で文書は他家の所有となり、昭和初期に本間家の所有となった(本間美術館所蔵品)。
6)この段階で足利義満感状など一部の文書が失われており、
7)また一部は、陸軍駐屯兵となった子孫が携行して北海道に渡った。
8)本間美術館所蔵品は、平安時代末期の嘉応2年(1170年)から室町時代の応永30年(1423年)まではほぼ揃っており、信濃や越後・甲斐の情勢を伝える貴重な一級資料とされ、地頭職にあったことから根本資料(当時の公文書)である鎌倉幕府下文・官宣旨・国宣などが含まれる。
9)ただ、残存状況が室町初期までの時代に偏り、
10)戦国時代の文書は永禄12年(1569年)10月12日付市河新六郎宛武田家朱印状のみが現存している。
11)その後の調査で、米沢市在住の個人所有18通(本間家の手に渡る前に散逸した一部)が発見され、
12)更に昭和44年にはNHK大河ドラマ『天と地と』の影響もあり釧路市で市河氏の子孫が受け継いでいた文書(本間美術館所蔵品の控えを含む)が発見された。
13)釧路で発見された文書は中世から近世の古文書や系図などの文書群で、中でも武田氏家臣の伝説的軍師「山本勘助」の実在性を裏付ける可能性のある書状が含まれていることで注目されている。
14)昭和51年には釧路市文化財に指定された。
15)また、長野県立歴史館の所蔵する長野県立図書館旧蔵文書のなかにも2通の文書が含まれていることも確認されている。
16)本間美術館 146通(16巻)(山形県酒田市)- 国の重要文化財

17)個人所有 19通(北海道釧路市)- 市指定文化財


関係資料
http://blogs.yahoo.co.jp/singentokensin/12634946.html

http://sky.geocities.jp/sabutyan64/

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