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気ままな日記(yahooブログ)より引用させていただきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/bun3342/48995858.html
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市河氏と志久見郷
市河氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて、志久見郷(現栄村志久見)を本拠地にして栄えた武士である。市河氏の出身地は甲斐市川郷(現山梨県市川大門)と『甲斐国史』<志>には記され、市河氏の名は鎌倉時代の初期から『吾妻鏡』にも随所に登場する。十二世紀末の源平の内乱時に信濃に進出し、一族は舟山郷(現長野市更埴)に所領をもっていたが、志久見郷の地頭職は中野氏(本姓は藤原氏)から獲得したものであった。
鎌倉時代中頃、市河盛房は姻戚・養子関係で中野氏と争い、中野氏からこの地を手に入れたのである。その後、惣領の権限を強化して同族的な結合を強めながら、志久見郷を基盤に領主的発展をとげていった地方武士である。
室町時代になると、市河氏は幕府を支える守護の忠実な先兵として各地に転戦し、その恩賞によってさらに領地を拡大していき、封建領主へと成長していったのである。
戦国時代になって、武田信玄が進出すると、市川信房はすぐにその支配下に入り、信越国境の北端を守り、上杉方の飯山城に対抗した。
武田氏の滅亡後、豊臣秀吉の大名統制による上杉氏の会津移封(国替え)に伴い、上杉景勝に従って慶長三年(1598年)その家臣団として米沢に移ることになる。400年間に渡って支配した祖先伝来の地である志久見の地を「市河文書」を持参して去ることになったのである。
市河氏の館跡は志久見集落の急な坂を上った河岸段丘上にある。ここは、「内池」と呼ばれる地で、西は長峰が屏風のように立ち、東が段丘崖となる要害の地で、この中に60間×40間四方の館跡があり、「たて」と呼ばれていた。
今は圃場整備によって、その跡がなくなってしまったが、かつては東側に土塁も残り、館前の水田の中には井戸跡もあった。
また、志久見神社に合祀される前は八幡神社もあり、八幡沖という広い水田が広がっていた。この内池地籍からはかつて鉄製の鰐口や中国青磁も発見されている。
志久見郷は鎌倉時代から戦国時代まで存続した中世の郷である。その範囲は東部谷から野沢温泉村までをも含む広大なものであった。特に市河氏の館が置かれていた東部谷は信越国境の要所で、生産力は他に比べ低かったが軍事的には重要な場所であり、室町時代には関所も置かれていた。
市河氏が米沢に移った後、志久見郷は江戸時代の幕藩体制の中で、志久見村をはじめとするいくつかの村に分割された。志久見村は近世前半は飯山藩、享保二年(1717年)からは幕府領となった。中世より麻(カラムシ・苧麻)を原料とする白布(麻布)の特産地でもあった。
明治八年(1875年)には江戸時代の高井郡志久見村と箕作村が合併して堺村となり、同九年には水内郡白鳥村と平滝村が合併して豊栄村、青倉村と森村が合併して北信村が成立した。明治二十二年には豊栄村と北信村が合併して水内村となった。戦後の昭和31年には、千曲川を挟んだ下高井郡堺村と下水内郡水内村が合併して下水内郡栄村となり現在に至っている。
<私記>
私はここを訪れていながら何等資料史蹟に出会うことも通り過ぎてしまった。
野沢温泉にも行ったがここでも消化不良であった。このような地域資料は山梨県では少なく「市河文書」だけしかも「カンスケ」だけが一人歩きをして、山梨県教育委員会も県立博物館も肝心なことを忘れ無神経に北海道から文書を多額な税金で購入した。この市河文書はやはり栄村に存在してこそ価値あるもので、関係の薄い山梨県が所蔵文化財とすることには違和感がある。
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