県立博物館
「勘助」名の書状など釧点到着 「市河家文書」を公開
県が今月上旬購入した、武田信玄の家臣・山本勘助(菅助)の名が記された古文書を含む「市河家文書」91点が県立博物館に到着し、26日に古文書の一部が報道陣に公開された。
市河家は、平安・鎌倉時代に甲斐国市河荘(市川三郷町、中央市、昭和町を本拠地とし、室町・戦国時代は北信濃で勢力を広げ、武田、上杉両家に仕えた豪族。
同家に伝わる文書約240点は、平安末期から戦国期に至る武士の動向などを知る上で貫重な史料とされる。
県が北海道釧路市在住の個人から約2千万円で購入した91点は、市河家が最後まで手元に残した南北朝時代から江戸時代(14〜19世紀)の古文書で、架空の人物説があった武田信玄の家臣・山本菅助(勘助)の実在が初めて確認された書状や、武田信玄(晴信)が市河信房の北信濃領有を正式に認めた朱印状、上杉景勝の重臣直江兼続が市河勝房にあてた書状などがある。
県立博物館学芸員の西川広平さんは「史実やそのほかの古文書を照らし合わせ、研究を進めたい」とし、県学術文化財課の三枝仁也課長は「本年度中に県の又化財指定を目指す」と話している。購入した古文書は、9月19日から23日まで、同館で一般公開される。(「山梨日日新聞 2009・6・27」記事)
<私記>
とあるが、ブログ「気ままな日記」によれば
----釧路の「市河文書」は、その後良一氏によって釧路市立図書館に寄託され、昭和五十一年十二月九日には釧路市有形文化財に指定された。
昭和五十三年に良一氏が亡くなり、文書は良一氏の子息の元に戻った後、釧路市在住の坂井進氏に譲られ、現在は坂井氏が市有形文化財として大切に保管している。----
とあり、山梨県は釧路市有形文化財を購入して、山梨県文化財に登録する新聞記事は伝える。「市河文書」は故郷に返すべきである。山梨県も2000万円も出して購入する必要はない。公開された資料でも十分である。
気ままな日記(yahooブログ)
http://blogs.yahoo.co.jp/bun3342/48995858.html
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市河文書の動き
志久見の地を離れてから、江戸時代は米沢の地で市河氏の子孫によって大切に引き継がれた「市河文書」は、明治初年に米沢在住の伊佐早謙氏の手に渡るが、昭和に入ってその存在が一時不明となる。
栗岩英治氏は長野県史編纂の一環として六郡の教育会の援助を受け、昭和六年(1931年)に伊佐早氏が亡くなってから3年間にわたってこの文書の所在を調査し、昭和初年から伊佐早氏の好意で酒田市の本間家に贈られ、その所蔵となっていたことをつきとめた。栗岩氏は本間家に懇願して、すべての文書をキャビネ版の写真に撮影し、これが後の『信濃史料』の校正に使用されたのである。
当時は戦国期になされた30巻の上品な藍色の軸装になっていた。
それが昭和11年(1936年)5月6日に国の重要文化財に指定され、現在のような16巻の姿にもう一度装丁されて(財)本間美術館に所蔵されているのである。
この文書は平安時代末期から戦国時代末期におよび、嘉応二年(1170年)二月七日の平家某下文から永禄十二年(1569年)十月十二日の武田氏朱印定書までの146通におよぶ。
時代別では平安時代4通、鎌倉時代49通、南北朝時代7通、室町時代26通、戦国時代1通などである。
その内訳は平安時代から鎌倉時代の文書の大部分は中野氏関係の文書であり、
以後はすべて市河氏関係のものであるが、これを総称して「市河文書」と呼んでいる。
この文書からは地方に土着してきた小領主の実態と、この間に信濃国で生起した大きな出来事を出所の確かな史料として知ることができるのである。
本間美術館所蔵の市河文書を時代別に見ていくと、
応永三十年(1423年)まではほぼ連続しているが、
それから145年もとんで永禄十二年(1569年)の文書が現われ、
戦国の動乱期である30年間の文書が皆無なのである。
これらは、信濃史料の調査で同じ米沢市の吉川吉蔵氏らのもとに18通が存在することが明らかになった。
その後昭和44年十月、北海道釧路市史編纂の過程で、武田晴信の書状が元米沢藩主で屯田兵として当地に入植した市川良一氏宅に存在することが、信濃史料刊行会にもたらされたのである。
市川氏の曾祖父にあたる房熙氏(天保元年〜大正元年)は安政二年(1855年)、十七歳で家督を継ぎ、明治維新の大変革の中で先祖伝来の文書・什器を手放し、
意を決して明治二十三年(1890年)六月陸軍の屯田兵となって米沢市門東町を引き払い、一族で北海道厚岸郡太田村に移住して開拓に従事するのである。
その後明治二十六年には太田小学校の教員となり、以後数校に赴任した後、昭和十六年には同郡鳥取町(現釧路市鳥取)に転任し、その子の房成氏は鉄道員となり、良一氏は釧路市の松浦郵便局長を勤めた。
同家には曾祖父が入植の際持参した桐箱に納められた文書が伝えられ、それは先祖伝来の重宝であるので毎年大晦日には床の間に供え、お頭づきでお祭りをするのが恒例であったとのことである。
この中には
小笠原長秀安堵状、武田晴信書状、上杉景勝宛行状など40通
と
本間美術館所蔵文書の控、藤原姓市川氏系図、常慶院由緒など7通の計47通
の文書が入っており現在も釧路市の同家に保管されている。
この市川良一夫妻は昭和四十八年十月二十九日、先祖の故地である志久見を訪れ、その際、北野天満宮にも立ち寄られ、天正二年(1574年)「市河中」という銘のある鰐口も見ている。
釧路の「市河文書」は、その後良一氏によって釧路市立図書館に寄託され、昭和五十一年十二月九日には釧路市有形文化財に指定された。
昭和五十三年に良一氏が亡くなり、文書は良一氏の子息の元に戻った後、釧路市在住の坂井進氏に譲られ、現在は坂井氏が市有形文化財として大切に保管している。
宮下健司先生 栄村公民館報寄稿文引用(平成14年)
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