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《野生生物のハビタートの破壊》(「新国有林論 森林環境問題を問う」黒木三郎氏他著 )
林木の成長不全とあいまって、主として造林木の苗木の獣による食害という実態があり、日本の森林の問題を複雑なものにしている。これに対して、ただでさえ人手不足、経営困難な林業が野生動物の存在によって、深刻さを増しているという認識がある。しかし、いわゆる獣害は人間の病気でいえば・熱とか痛一牒みといった症状にすぎない。獣による食害は、現象としては事実に違いないが、それがおこる必然という本質は、獣には責任がないことは、たとえば古林賢恒氏のような真面目な研究者の研究によって明らかである。人間が獣の領域に入り込み過ぎているからだという俗説も当たっていないことはない。
人間の都合、それも土地から少しでも収益をあげたいというだけの理由で、人間は土地の主人公であるとの誤解のもとに、森林に対して、天然林の伐採と植林、林道・ゴルフ場・スキー場等の建設を、なんらの疑問をさしはさむことなく行なってきたし、いまも行なっている。しかし、そのことによって森林に先住の動物たちのハビタートが破壊されている、ということにはまったく気づいてはいない。
ハビタート(ハビタット・生物個体あるいは個体群のすんでいる場所。生息場所。)を奪われた動物が、わずかに残された野生的な山野に集まると、動物が殖えたととらえる。人間の林地に現われたり、たまたまある苗やミカンを食うことがあれば、獣害ということになる。動物にしてみれば自然の行為の延長なのだが、これを理解するほどの余裕は人間にはないようである。
このような関係を過疎地域の住民に押し付けていたのでは、そして結局のところは野生動物の駆除に終わるような処置を繰り返していたのでは、「獣害」問題は片付かないし、取り返しのつかない結果に陥ることはないだろうか?いわゆる獣害とは、野生動物と過疎地域の住民との間のトラブルなのではない。日本の野生生物と日本の人間社全全体との関係という課題なのである。自然と人間の調和とか、自然と人間との共存という標語が流行語になっているが、流行ではなくて、この標語の具体的な内容は、野生生物と人間社会との関係をどうするかという課題なのである。それはまた、万物の霊長などとみずからを称し
ている人間が、もし万物の霊長であるならば、当然考えなければならないことではないだろうか?
森林とは、林木やその他の植物と、虫・鳥・獣という動物などによって構成された複合体すなわち、生物群集であるという生態学的には当たり前の認識を受け入れるならば、あるいは近頃はやりの森林生態系という概念を素直に受け入れるならば、獣は害獣としてしか認識できないような、今日の歪んだ森林動物像がおかしいことは自明だろう。
私たちのすこし前の先輩も、今とは異なる森林動物像をもっていたのである。森林に動物は無用なのかという質問を、林業従事者にあるいは行政者にあらためてしたい。そして、日本のような高度に工業社会化した社全にこそ、野生生物が豊かに存在する野生的な自然が必要不可欠である根拠を後に述べたいと考える。
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