新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

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私は勘助が死んだ場所を探して彷徨った。勘助の墓を離れて河川両側を右往左往。そしてある寺を訪れた。そこにあった勘助の死の門出場所

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「市河文書」発給までの歴史認識(弘治3年「市河文書」周辺まで)

●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機を訴え、長尾景虎政景に救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。 (長野県史)

 信州の儀に就いて、度々啓せしむる如く、この度に至っても更によんどころなき子細候間、見検致すべきにあらず候。さりながら、出陣の日限等のこと、かたがた申し談じ進むべく候ところ、景虎出馬遅々に候へば、高刑飯山の地を打ち明くべきの由、頻りと申し越され候。左様にこれあらば、いよいよ節義を失い候条、明日(二十四日)籠もり立ち候。毎度申し宣ぶる如く、いよいよ御大儀たるべく候。早速の御着陣簡要に候。恐々謹言
 三月二十三日 弾正少弼 景虎 越前守殿(長尾政景)(「信濃史料叢書」 県立長野県図書館所蔵文書)

●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。 (甲府市史)

●三月廿五日、甘利信州立。 (王代記 山梨県大井大俣神社旧蔵及)

●三月二十五日、甘利(昌忠)、信州へ立、十月十六日馬入、窪川孫次郎討死。
廿三日、是より先、武田晴信の軍高梨政頼を水内郡飯山城に攻むるにより、政頼、長尾景虎に救援を請い、この日、景虎出兵せんとし、同政景の出陣を促す。

●三月二十五日、是より先、長尾景虎、善光寺に兵を進め、高井郡やまだ要害・福島等を鎮定す。是日、景虎、水内郡旭山要害を再興し、晴信の軍に備ふ。 色部弥三郎殿 長尾景虎(花押)(「信濃資料」色部家文書)

●三月二十六日、信玄、伊藤右京亮宛書状。
 高梨間山之郷之内三百貫文之所、被出置候、弥可抽戦巧者也。執達仍如件。
丁巳 三月二十六日 信玄 判 伊藤右京亮殿 (「山梨県史」中世ニ 県外文書 東京都の部)

●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。

四月九日、上野三ヶ尻(群馬県碓氷郡松井田町と富岡町の中間)北武蔵・西上野の武将十名以下二万人が長野信濃守を大将にして信玄公にたてつく。飯富三郎兵衛殿・馬場民部助・内藤修理・原隼人・諸角豊後守・小宮山丹後守・飯富兵部少輔と信玄子息太郎義信公を大将に追い崩し、勝鬨(かちどき)を挙げる。続いて長野信濃守の居城を攻める準備をする。(甲陽軍艦)

四月十二日、越後の謙信が川中島を窺うという報に、上野攻めを止め、川中島へ出馬、五月末日まで対陣し帰陣する。(甲陽軍艦)

四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。

四月十三日、武田晴信、上杉謙信出陣の報を得て、日向大和守等に命じて、鬼無里方面での動静を探らせる。
 読み下し(「須玉町誌」)
幸便を以って自筆を染め候意趣は、大日向の所従(よ)り木島を以って申し越さるる如くんば、鳥屋より嶋津従り番勢を加え、剰え鬼無里に向け夜搖の由に候。実否懇切に聞き届けられ、帰参の上、言上致さるべく候。惣じて別して帰国の次、鬼無里筋の路次等見届けらるること尤もに候。毎事疎略無く見聞有りて、披露待ち入り候。恐々謹言
追って小川・柏鉢従り鬼無里・鳥屋筋々に向かい、絵図いたされ候て、持参有るべく候。(下略) (「須玉町誌」資料編第一巻)

 第三回川中島合戦
●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。

●この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。(妙法寺記)

●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などを奪う。ついで旭山城を再興する。
 当地善光寺に至って着陣せしめ候、敵方より相拘り候地利、山田の要害並びに福島の地打ち明け候。除(のけ)衆悉く還住候。先づ以って御心安かるべく候。方々より申し来る子細も御座候条、早速御着陣待ち入る計りに候。如何とも御動(はたらき)祝着たるべく候。恐々謹言
 長尾弾正少弼 景虎(花押) 四月廿一日 色部彌三郎殿 御宿所 (『信濃史料』色部文書)

●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に引き出し決戦することを祈る。
 信州に至っての出陣に就いて、去る頃野島平次右衛門瀬波郡下向の刻、一筆啓せしむるのところ、御懇の報候。本領祝着に候。去る月十八山を越え、同二十五、敵陣数箇所、根小屋以下悉く放火し、同日旭要害を再興し陣を居え候。如何とも武略を廻らし、晴信を引き出し、一戦を遂ぐべき覚悟に候。その上敵地より、種々申し刷(つくろ)旨候。御心安かるべく候。恐々謹言
尾弾正少弼 景虎(花押) (弘治三年)五月十日 土佐林能登入道殿 (『信濃史料』芳賀文書)

●五月十日、長尾景虎、武田晴信と信濃に決戦せんとし、高井郡元隆寺に戦勝を祈る。
 (前文略)伏して惟(おもん)みるに、武田晴信世甲・信に拠り望を競ひ威を振ひ、干戈息むなし、越後国平氏の小子長尾景虎、去る夏以来高梨らのため、しばしば諸葛の陣を設くと雖も、晴信終に兵を出さず。故に鉾戦い受くる能はず。これにより景虎暫く馬を飯山の地に立て、積年の憤と散ぜんと欲す。云々
 弘治三年五月十日 平景虎敬白 (「信濃史料」小菅神社文書)

●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。

●五月十五日、
 当口動(はたらき)の儀について、急度御飛脚満足致し候。去る十二日に香坂へ行(てだて)の儀に及び、近辺悉く放火、翌日坂木岩鼻まで、打散じ候、凶徒一二千程取り出候へども、懸り動(はたら)き候へば、五里三里先より敗北候間、打ち捕へざること無念このことに候。重ねて天気次第相動き、珍しき儀候へば、申し入るべく候。恐々謹言
先刻申し入れ候儀、御用候間、草出羽同心、御大儀たるべく候へども、御加勢の儀この時に候間、申すことに候。
 (弘治三年)五月十日 平三景虎 高梨殿御報 (「信濃史料」)

六月十六日
晴信、市川籐若宛書状(「信濃史料叢書」 謙信公御代御書集』)
急いで客僧をもってお伝えします。そもそも長尾景虎が六月十一日に飯山に陣を移した様子で、風聞では高梨政頼がそちらへの融和工作をしているようですが、いうまでもなく、誓約の旨のとおりこちらの心底は残らず申し届けてあるとおりです。幸いに当方の陣は警固であり、さらに来る十八日には、上州勢がことごとく加勢にこちらのほうへ出張し、上田方面には北条綱成が着陣する予定です。越後勢は日を追って滅ぶでしょう。それが晴信の本意であることを知ってください。早々に軍備の調えを切に頼むこと、相変わらずの忠節を望むところです。なお、追って使者を送り一部始終を申し上げます。恐々謹言
 六月十六日 晴信(花押)市川籐若殿(山日新聞による)

☆六月廿三日
晴信、市川籐若宛書状
●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。
★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。(北海道、市河良一家文書)

注進状披見。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、其の地へ取り懸かるべき模様、又武略に入り候と雖も、同意無く、
剰え備堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由誠に心地よく候。何れも今度、其の方の擬たものしき迄に候。なかんずく野沢在陣のみぎり、中野筋後詰の義、飛脚に預り候き。すなわち倉賀野へ越し上原与三左衛門尉、又当年の事も塩田在城の足軽を始めとして、原与三左衛門尉五百余人、真田へ指し遣はし候処、既に退散の上是非に及ばず候。全く無首尾有るべからず候。向後は兼て其の旨を存じ、塩田の在城衆へ申し付け候間、湯本より注進次第に当地へ申し届けるに及ばず出陣すべきの趣、今日飯富兵部少輔の所へ下地を成し候の条、御心易く有るべく候。猶山本管助口上有るべく候。
恐々謹言。 六月廿三日 晴信(花押) 市河藤若殿

●七月三日、是より先水内郡飯山城将高梨政頼、越後春日山城将直江實綱を音文する。(高梨文書)

●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。

●七月五日、武田晴信感状。
 於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕、剰被疵二ヶ所候条、戦功感入候、弥可抽忠信者也。仍如件。
 七月十一日  晴信(龍朱印) 溝口(信濃史料)
●七月五日、武田晴信の軍、安曇郡小谷に長尾景虎の軍と戦う。尋いで、晴信、諸士の功を賞する。
  於于去五日信州安曇郡小谷之城、最善攻登、頸壱討捕之條、忠節感入候、弥可抽戦巧者者也。仍如件。
弘治三年七月十一日        晴信(朱印) 小平木工丞殿
 筆註  
同様の文書が多数ある。(「信濃史料」『諸州古文書』)岩波六郎左衛門殿・篠原藤十郎殿・三井助七郎殿・小井弖藤四郎殿
 岩波藤五郎殿・大村与右衛門殿

「千野文書」諏訪市本町 千野俊次氏所蔵 抜粋
  小谷城御本意の時分、構際に於いて弓を涯分仕り候。板垣具に言上故、高白斎を以って深志の御対面所へ召し出し、此の類なく相挊ぐの由、御褒美候事。

七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。

八月、信玄公は途中であった上野の信濃守の居城箕輪城を攻めた。十月中旬に信玄公は帰る。(甲陽軍艦)

●八月六日、武田晴信、安曇郡山田左近をして、本領を安堵せしむ。(山田文書)

●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦)
 今度於信州上野原(水内郡)一戦、働無比類次第ニ候、向後弥挊之事肝心に儀。謹言。
 (弘治三年)八月廿九日 景虎 南雲治良了右衛門とのへ(同様の文書の宛先 大橋弥次郎殿)

九月二十日、越後方の大将、長尾政景の感状
   信州上野原に於いて、晴信に対して、合戦を遂げ、勝利を得候砌、神妙の働き比類なく候。向後いよいよ稼がるべきこと専要(大切)に候。謹言。 九月廿日 政景 下平弥七郎殿

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提言書 山梨県教育委員会さま

山本勘助に関係あるという「市川文書」を大枚かけて購入するという。それは観光目的なのか。山梨県史にとって必要なのか。歴史家の見識か。不思議でならない。
 私は数年かけて山本勘助の研究を続けてきたが、「市川文書」文中の「カンスケ」が山本勘助であるような歴史的事実は見えない。それは文中の相手「市川藤若」なる人物は市川家家系や他の文書にはまったく見えない人物であり、唐突にこの文書に現れる人物である。それが山梨県の歴史家はこれが絶対的な揺ぎ無い史実のように伝える姿勢は間違っている。今後の研究は必要であろうが、勘助の史実と伝説を混在している歴史展開のこと。これは貴重な文書というより「県立博物館」の援助の窮余の一策ともとられる。私はそれより崩壊しそうな国や県の文化財の総点検や修復など肝心なことは他にあると考える。

 山梨県の指定文化財(一種の観光物件)は各種あるがその保存や案内板などは設置以来まったく風化してしまっているものも多い。特に神社仏閣や天然記念物がそれを象徴している。勘助文書云々より、総点検して是正をすることが先決ではないか。2000万円もの大枚があれば相当な範囲で活用できる。一部歴史学者のためにカンスケ関係の資料など「ネット検索」で十分である。机上論でなく、山梨県の史蹟名勝天然記念物を総力を挙げて足で稼いで調査をお願いしたい。


山本「勘助」にまつわる書状など91点
「市川文書」県教育委員会
重文指定めざし調査研究(山梨日日新聞社 2009・5・2)
 県教委は二十七日、「架空の人物」読もあった武田信玄の軍師・山本勘助(菅助)とみられる人物が登場する書状をはじめ、北信濃を支配していた豪族「市河家」に伝えられていた古文書「市河家文書」計九十一点を購入すると発表した。市河家は戦国時代に武田上杉両家に仕えており、県教委学術文化財課は「室町、戦国時代の甲信越地方の政治情勢や甲斐国出身の豪族の盛衰を知る上で貴重な史料」としている。
 「市河家」は平安・鎌倉時代に甲斐国市河荘(昭和町、中央市、市川三郷町)を本拠地としたと考えられている。鎌倉時代に信濃に移り、越後との国境を中心に勢力を持っていた。史料は北海道釧路市在住の個人から購入。価格については「個人からの購入のため非公表」(同課)だが、関係者によると約二千万円とみられるという。菅助の実在を証明する中世の文書のほか、小笠原、武田、上杉家から送られた古文書から成る。書状は信玄(晴信)が「市河藤著」にあてた内容で、信玄と上杉謙
信が川中島合戦を繰り広げていた一五五七(弘治三)年に書かれたものとみられる。藤若の働きによって上杉勢が退散したという戦況を述べた後、山本菅助を使者として送り、詳細を伝えさせるという内容が明記されている。信玄の花押(署名)もある。
 六月初旬の購入を予定しており、県立博物館のはか、武田家や上杉家にかかわる史料を収蔵する県外の博物館との共同企画展などで展示する方針。県教委は「県指定文化財への指定に向けて薫蒸や調査研究を行い、重要文化財への指定を目指したい」(同課)としている。

市川文書の調査報告
http://sky.geocities.jp/yamamotokannsuke2003/
http://sky.geocities.jp/sigennkaihatu23/index.html
http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/itikawamonnjyo
http://www.geocities.jp/kamanasigawa62jp/index.html

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 山本勘助に関係あるという「市川文書」を大枚かけて購入するという。それは観光目的なのか。山梨県史にとって必要なのか。歴史家の見識か。不思議でならない。
 私は数年かけて山本勘助の研究を続けてきたが、「市川文書」文中の「カンスケ」が山本勘助であるような歴史的事実は見えない。それは文中の相手「市川藤若」なる人物は市川家家系や他の文書にはまったく見えない人物であり、唐突にこの文書に現れる人物である。それが山梨県の歴史家はこれが絶対的な揺ぎ無い史実のように伝える姿勢は間違っている。今後の研究は必要であろうが、勘助の史実と伝説を混在している歴史展開のこと。これは貴重な文書というより「県立博物館」の援助の窮余の一策ともとられる。私はそれより崩壊しそうな国や県の文化財の総点検や修復など肝心なことは田にあると考える。

山本「勘助」にまつわる書状など91点
「市川文書」県教育委員会
重文指定めざし調査研究(山梨日日新聞社 2009・5・2)
 県教委は二十七日、「架空の人物」読もあった武田信玄の軍師・山本勘助(菅助)とみられる人物が登場する書状をはじめ、北信濃を支配していた豪族「市河家」に伝えられていた古文書「市河家文書」計九十一点を購入すると発表した。市河家は戦国時代に武田上杉両家に仕えており、県教委学術文化財課は「室町、戦国時代の甲信越地方の政治情勢や甲斐国出身の豪族の盛衰を知る上で貴重な史料」としている。
 「市河家」は平安・鎌倉時代に甲斐国市河荘(昭和町、中央市、市川三郷町)を本拠地としたと考えられている。鎌倉時代に信濃に移り、越後との国境を中心に勢力を持っていた。史料は北海道釧路市在住の個人から購入。価格については「個人からの購入のため非公表」(同課)だが、関係者によると約二千万円とみられるという。菅助の実在を証明する中世の文書のほか、小笠原、武田、上杉家から送られた古文書から成る。書状は信玄(晴信)が「市河藤著」にあてた内容で、信玄と上杉謙
信が川中島合戦を繰り広げていた一五五七(弘治三)年に書かれたものとみられる。藤若の働きによって上杉勢が退散したという戦況を述べた後、山本菅助を使者として送り、詳細を伝えさせるという内容が明記されている。信玄の花押(署名)もある。
 六月初旬の購入を予定しており、県立博物館のはか、武田家や上杉家にかかわる史料を収蔵する県外の博物館との共同企画展などで展示する方針。県教委は「県指定文化財への指定に向けて薫蒸や調査研究を行い、重要文化財への指定を目指したい」(同課)としている。

市川文書の調査報告
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