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小説や映画、テレビ、歌舞伎と江戸幕府の悪役として定着、みんなで弄くりまわして架空の人物を作り上げる。現在山梨県における山本間助協奏曲と類似している。市川文書に振りまわされて、虚像を真実にしようとする行為は公的歴史家の進む道ではない。 |
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2010年11月15日
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この植林地は壊滅状態となっている。振り返ることのできない日本事業植林、木目細かな対応が望まれる。 |
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森林の共用と共同管里(資料『インストラクター教本』)
森林を利用し、保全するという考え方の源は、森林の共同利用すなわち入会(いりあい)利用にみることができる。森林の入会利用とは、地域の人たちが共同で、自由に使えることをいう。その起源は古く、8世紀初頭の大宝律令によって、制度化されている。そこでは、特別な場所を除き、山、川、森林、沼などは、一個人に帰することなく、すべての人が、自由に利用できる、と定めている。一部の場所を除き、森林の木、きのこ、山菜を、誰でも採ることが許されていたのである。
このように、自然の独占を禁じ、自然の産物はひとりのものでななく、多くの人々が使うものだとする考え方は、形を変えながら後世へ受け継がれた。中世以降、庄園、大名領国制が広まっていったが、その領地の中においても、林野の入会利用は続けられた。江戸時代においても、幕府や大名の所有林野であっても、採取料負担の制限下、利用は地元民に自由に委ねられることが多かった。
こうした入会利用のシステムは、人問による自然からの一方的な収奪が進むことを防ぐ効果があった。なぜなら、共同利用林野は、地域の人々に食料、生活資材、農業資材を供給してくれる資源であり、これを荒廃させることは自らの生活基盤を崩壊させることを意味したからである。それだけではない。入会林野は地域に住む人々の生活環境を保全する役割も果たしていた。従って、地域の人々は、森林を利用しつつも保全管理に心がけたのである。このように、入会利用のシステムは、コミュニティーを維持する環境財、生産基盤を保全する機能をもっていた。
明治時代以降、森林の官民所有区分が明確にされてきた。また現代では山村の過疎化が進み、森林の地域外所有が増えた。それに伴い、森林の入会利用は次第に減少してきた。しかし、森林を共同で利用し、管理するという考え方は、現在にまで引き継がれている。
最近では、管理の担い手の一部に地域住民だけではなく都市住民が参加する例が増えている。「国民参加の森林づくり」の中に、さまざまな例をみることができる。例えば、水源下流地域の企業、自治体が出資して設立した基金が、水源地域の森林管理に資金的援助を行うといった例である。水源を涵養する森林の働きを享受するものが共同で管理しようというしくみである。
こうした例も、広い意味では、公共財としての森林の共同利用、共同管理といえよう。今、森林管理の担い手不足が指摘されている。さまざまな原因があるが、都市と山村間で、富、人口、情報の偏在が著しいことが根本的な問題であろう。市場メカニズムや財政支出だけで調整できる問題ではない。それを補完する新たなシステム(例えばボランタリーな支援)が求められているのである。森林の共同管理もその例外ではない。今後は、国内はもとより、地球規模での森林の共同管理システムを築き上げる努力が求められてこよう。
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明治時代の金原明善(資料『インストラクター教本』)
治山治水事業に貢献した1人として、明治時代の金原明善を挙げることができる。静岡県天竜川の治水事業および治山治水造林に半生を捧げた明善の特色は、治山治水という公共事業と、林業・林産業という経済事業の両面を視点にいれて、地土或振興のための杜会資本投資を行ったという点である。従って、明善は単なる思想家あるいは公共事業家というだけではなく、優れた企業家でもあった。
天竜川は、農産物、木材など重要商品物流の大動脈として流域地方にはなくてはならない存在であった。しかし、天竜川はたびたび氾濫し、大洪水は多くの人々を苦しめていたのである。明善は、天竜川の治水事業に私費を投じて取り組んだ後、天竜川上流地域の造林事業に着手した。治山治水の根本は、上流の山に森林をつくること。それが明善の信念であり、それを自ら実践しようとしたのである。技師を吉野林業地やドイッに派遣し、造林技術を学び、合理的な施業方法を取り入れた大規模な人工造林を行ったのである。
中でも十年余りの年月をかけて成し遂げたのが天竜川流域の瀬尻山の造林である。1898年、スギ250万本、ヒノキ40万本、面積にしておよそ900haの人工造林を天竜111流域に育つ人工林は、現代の天竜林業地を支える森林資源を完成させた。
また、明善は製材業や木材の鉄道輸送会杜を設立した。これによって、造林と木材加工事業および輸送が連携した林業・林産業の生産基盤が築かれたのである。天竜川流域の林家に合理的な林業経営を啓蒙普及し、大勢の人々が人工造林に取り組むきっかけを明善は作ったのである。自らの力だけでは、広大な地域の造林を成し遂げることは不可能であり、大勢の人々の人工造林への意欲をかき立てる意味で、造林・製材・輸送の三位一体の基盤づくりは大きな意味をもつのである。それは、後の林業地としての発展の基礎を築くことにもなった。
明善は、自ら経営する金融業の資金力をもとに、こうした事業を行っており、長期的投資であると同時に社会還元事業でもあった。時の明治政府は、まだ財政力が弱く、造林や鉄道建設など公共的な事業を十分に行えるほどの余裕はなかった。そうした中で、民間資本により、公共性と営利性を兼ね併せた造林投資を行ったのが明善である。
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治山治水の要は造林 熊沢蕃山(資料『インストラクター教本』)
江戸時代、治山治水の要は造林にあることを説き、思想面で大きな影響を与えたのが熊沢蕃山である。学者であり、政治家であった蕃山は、備前藩(岡山県)において、治山治水工事の重要性を説き、藩の事業としてそれを行ったことで知られる。
また、蕃山は、雑木やマツの造林をも進めた。これは、地元農民がそこから薪や肥料用の落葉落枝を採取できる山づくりを目的としたものである。というのは、奥山はともかく、里山林が森林保護のため伐採禁止となると、そこから薪や農業資材を得ていた農民は困ることになる。そこで、スギ・ヒノキなど用材林を造林するのではなく、薪・炭材、農業資材資源に富む雑木林、マツ林の造林を奨励したのである。はげ山に造成された里山林は、地元民の生活に役立ち、かつ農業を維持
する上で大きな役割を果たすことになる。
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