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武田軍の戦力分析 武田軍の兵糧
兵糠は軍役衆の自弁(?)
<例>永禄8年、信玄は上野箕輸城を攻略、付近を占領、前年の秋が豊作で、箕輸・松井田をはじめ、方々の小さ在要害城に兵糧がたくさんあった。それを武田軍は三割の利息をつけて将士に貸し与えた。年末に決算があり、信州の者も甲州の者も、
その筋の代官衆へ元利ともに返済したという。
<解説>占領地で食料を与えられても、それは支給ではなく貸与であり、しかも3ヵ月(箕輸城落城は9月29日に3割の利息までとられたわけである。
<例>武田勝頼が天正7年8月(推定)。信濃更級郡綱島兵部助宛書状
今年上州へ出陣する。在陣は20日を過ぎることはないから、特別(軍役人数以上の)、人員をつれてくれば忠節である。陣中で人員を調査し、定数以上の人員に対しては、兵捜等を支給するからそのつもりでいるように云々
<解説>」
・在陣20日間の兵糧は当然綱島が負担すべき尼が、軍役状に定められた以上の人員をつれて来た場合は、その増加分は武田氏から兵糠を支給する。
・ このような兵糠自弁(自賄)は武田氏に限らず、鎌倉時代〜戦国時代まで多用方法。
<例>大坂冬の陣・夏の陣において徳川氏は全軍30万人に兵糠を支給。
ではよほど進歩している。
<鉄砲使用の参考資料>
・ 慶長20年4月付の徳川氏軍役状、徳川軍装備、槍50に対し鉄砲20。
・ 浅野氏は槍28に対し鉄砲80。
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