新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

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『松平家忠日記』(橋本昌広氏著)
富士山から方広寺大仏殿の材木引普請
 
天正17年7月〜
七月九日、家忠は富士山から大仏の材木を引く普請をするために、ニ八日に駿府に来るように吉田(富士吉田)の酒井家次から命じられた。大仏は秀吉が方広寺(京都市東山区)に建設中のもので、この材木は大仏殿の柱として使用されるため、巨木の切り出しが要求されていた。
『多聞院日記』によれば、大仏の建設は既に天正十六年に開始され、五月には大仏を据える石壇が積まれている。秀吉は大仏殿をはじめとする各種の建物の資材として、秋田杉や屋久杉など全国から名木を進上させている。
秀吉は日本に存在するすべての物を所有し、それを自己のために奉仕させることができるという理念を持っていたと思われ、この時には家康に富土山の材木を伐採して、方広寺まで運搬するように命じたのである。
家忠は一六日に「夫丸・ぶまる」(人夫)を出発させているが、この人夫は領内の百姓が徴発されたものと思われる。家忠は一九日に駿府に到着して城に出仕したところ、家康から人夫は大宮(静岡県富士宮市)まで先発させ、家忠白身は能を見物するように言われた。能は二一日に井伊直政の所で行われる予定だったが、雨のために延期となり、二六日に行われ、家忠も見物している。能も茶の湯同様に家康家臣の問で流行していたものである。
二一日には榊原康政が真田昌幸の沼田城を北条氏に渡す使者として出発している。これは従来からの係争地沼田領の三分の二を北条氏に渡し、残りの三分の一を真田氏に安堵するという秀吉の裁定を実行するためのものであった。
日記には富田知信と津田信勝が検使として康政に同道し、沼田城を北条側が受け取った後に氏直が上洛するとも書かれているので、家忠には秀吉と北条の交渉が伝わっていたことがわかる。
さて、家忠は
八月二日に駿府を出発して興津に到着し、本多忠勝から振舞を受けた。
翌三日条には「かしまの舟てこし候」とあり、鹿島(愛知県蒲郡市)の舟と舟手(乗組員)が材木の運搬のために徴発され、興津(静岡県清水市)に到着していた。鹿島は深溝から形原へ行く途中の三河湾に面する所にあり、形原松平氏の所領と思われるが、家忠は鹿島の村人と以前から顔見知りであったので、彼らが来たことに気づいたのだろう。家忠は鹿島の舟までが徴発されていることを知り、材木引が徳川氏の総力を挙げて行われる作業であることを実感したことだろう。
 
富士山での木引と富士川での木流
八月三日に家忠は上出(静岡県富士宮市)の小屋場まで行き、いよいよ材木引の作業に入った。
すでに一昨日から道作りの作業が開始され、作業小屋も完成していた。この作業は家忠ら家臣を複数の組に編成して行われていて、家忠は三日には井伊直政の組に入ったが、翌日には酒井家次の組に変更になった。
五日には木引が開始され、長さ二五尋の大木を引いたが、全く進まなかった。六日は雨が降ったので道作りだけを行い、七日に再開して三〇間だけ引くことができた。八日には二二〇人で引いて一六〇間進み、九日には八○間、一〇日には二〇〇間進んだが、九日以降は雨が降り続き、木引が中止になることも多く、作業は遅々として進まなかった。
一七日には酒井家次と平岩親吉の両組で別の大木を引くように命じられ、家忠も大木引に従事したが、この大木に「くち目」(朽ちた部分)があったために、元の大木を引くことになった。
こうした大木を引くには大量の労働者が必要であり、各地から多くの百姓が徴発されたことであろう。
八月二五日条に「着到付候、百五人木引候」、
八月二九日条に「着到付候、百二十七人」
とあり、作業の際には着到が付けられて、従事している人数が把握されていた。木引に携わる奉行が作業開始の際に人夫を整列させて、人数を数えて紙に記録したのだろう。こうした作業に従事する人夫には食料が与えられるのが一般的なので、この場合も着到に基づいて米や酒が支給されたはずである。人夫たちは山盛りの飯を食べて、木引に従事したことであろう。
八月二九日、平岩親吉組が担当している材木を酒井家次組も加わって、富士川岸の沼久保(静岡県富士宮市)まで引くことになった。早速、家次組に入っている家忠も加わって木引が開始され、
九月四日には沼久保まで引くことができ、富士川へ材木を置いた。しかし、ここから河口の吉原まで材木を下すのも大変な苦労であった。
九月五日と六日にはそれぞれ二〇町ずつ下ったが、六日には鵜殿氏の人夫が負傷するという事故も起きた。
また、七日には材木が洲に引っ掛かって流れなくなったが、翌日の雨で増水したため、ようやく洲を脱するということもあった。
九月九日には川が浅くなり、木を下すことが困難となり、仕方なく陸地を引くことになった。富士川は急流として有名であり、しかも下流には砂利が堆積し、大木を流すには困難が多かった。こうした苦労の末、
二一日に材木は吉原に到着して、家忠も安堵したことであろう。
だが、これも束の間で家忠には門木を引くという別の仕事が割り当てられ、一七日から門木引を開始した。門木とは大仏殿の門の木と思われる。この最中に家忠は振舞を受けたり、他の家臣を振舞っているが、これは普請や城の在番の時と同様である。
日記の一〇月の部分には三日を除いて、判で押したように「木引候」の記述があり、連日木引が行われていた。 
だが、二四日には当年中に必要な木だけを引いて、普請衆は引き上げてよいという命令が入った。
十一月に入っても木引は引き続き行われたが七日に終了し、家忠は駿府を経て十日に深溝へ帰った。
 
方広寺サイト
方広寺大仏殿
 
八ヶ岳信仰(「長坂町誌」より)
八ヶ岳信仰の概観(「長坂町誌」より)
八ヶ岳は長野県と山梨県にまたがり、南端の編笠山から権現岳、赤岳、横岳、さらに夏沢峠を越え、北端の蓼科山まで続く南北二一キロメートルの連山である。
〔二つの八ヶ岳〕
この広範囲の八卦岳を『信府統紀』に「右甲州境八ケ岳ノ峯ヨリ遥ニ亥子ノ方当レル処ニモ又八ケ岳ト云山アリ」と、二つの八ケ岳の記述があるように、夏沢峠を境.に南八ケ岳、北八ケ岳に二分することもある。
〔北八ヶ岳〕
北八ケ岳には、根石岳、天狗岳、中山、丸山、茶臼山、縞枯山、横岳、蓼科山があげられ、八つの峰の山名に変化がみられないのに対し、
〔南八ヶ岳〕
南八ケ岳は長野県諏訪地方、山梨県側などの地域によって八つの峰の山名が多少異なっている。
八ケ岳の山名は、古くは正保二年(1645)の八ケ岳山論裁許状に「八ケ岳逸見筋小淵沢村ト諏訪領蔦木村山出入之事」にみえる。
八ケ岳の山名の由来は、一説には八ケ岳の「八」が八百(やおよろず)の「八」と同義で多数という意味から、連山のように多くの峰を持つ山と解せられる。
一般には『甲斐名勝志』(巻之四)に「此山西は信濃国諏訪郡北は佐久郡なり、嶺分れて八有故に八ケ嶽と云」とあるように、八つの峰が集まった山として八ケ岳をとらえている。
江戸時代中期ごろの文献から現在に至る八ケ岳の記述も、この認識に基づいており、それを記してみると次の通りである。
『甲斐国志』(巻之二十九)
八ヶ岳…権現岳、小岳、赤岳、麻姑巌、風ノ三郎ケ岳、編笠山、三ツ頭、其余種々ノ呼称アリト云
『甲斐叢記』(巻之七)
八岳又谷鹿岳と作く長沢、西井出、谷戸、小荒間、上笹尾、小淵沢等の諸村の北に時立て桧峯権現岳トモ云、小岳、三頭岳、赤岳、箕蒙岳、毛無岳、風三郎岳、編笠山等八稜に分るるゆえに此名あり
『すわかのこ』(宝暦六年)
八簡山、八岐山…地蔵ケ岳、虚空蔵ケ岳、磨磐山共云、擬宝珠ケ岳、薬師岳、権現岳、阿弥陀ケ岳、編笠ケ岳、中ニモ至リテ高シ斎河原ケ岳(西岳のことをいう)
『八ケ岳絵図』(長野県富士見町乙事区共有)
権現岳、薬師岳、阿弥陀岳、擬宝石岳、編笠岳、地蔵岳、虚空蔵岳、西岳
『日本山岳志』
八ケ岳八峰中に、小岳、麻姑岳、風ノ三郎Lグ岳、三ツ頭等ノ名ヲ挙ゲタレド、今ハ普通、赤岳、阿弥陀岳、御柱山、西岳、編笠岳、箕蒙岳(別名硫黄岳)、擬宝珠岳、横岳等ノ名ヲ用ユル如シ
『山梨県市町村自治名鑑』(大正九年発行).
八ケ岳は、権現岳、小岳、麻姑岳、風三郎ケ岳、編笠山、三ツ頭、桧峰の八峰…
『長野県の地名』(平凡杜出版)
諏訪地方では、南の編笠山から順次北の方へ西岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、それに峰の松目あるいは天狗岳を加えている。
『北巨摩町村取調書』(県立図書館若尾資料大正五年)
権現岳、小岳、赤岳、麻姑岩、風の三郎ケ岳、編笠山、三ツ頭、槍小岳、桧ケ岳に雷神、石長姫を祀る。
 
〔八ヶ岳の山名〕
このように山名を列挙してみると『甲斐叢記』は単に峰の名称を列記する『甲斐国志』に比べて、八峰名を列記して八ケ岳を明らかにしている。ところが、列記している「赤嶽」「毛無岳」は、明治初年ころの『西井出外十三ケ村入会絵図(高根町)に「八ケ岳ノ内明嶽又ハ毛無岳」とあることから同一の山で、別称を複数にかぞえるなど、八ヶ岳の記述に不明の点がみられる。
 
〔諏訪側の八ヶ岳山名〕
さらに、諏訪側の「すわかのこ』、乙事の『八ケ岳絵図』には、山梨県側にみられない「薬師岳」「虚空蔵岳」「地蔵岳」「阿弥陀岳」などが記され、両者の違いをみせている。
明治中期ごろから山名の変更が起こり、呵弥陀岳は擬宝珠岳になり、桧峰を権現岳と称していたが、その後薬師岳を権現岳と称するようになった。そして桧峰、阿弥陀岳、虚空蔵岳、地蔵岳などの名称が消えていった。
この消減原因は、山名は必ずしも独立の峰ではない一定の信仰的目的をもつ場所にも付されることがあり、こうした峰を含めた八ケ岳から、独立の八つの峰をもった八ケ岳とすることへ変わったためであろう。
こうした原因は、八ケ岳山麓一帯のこの山に対する信仰が衰退し、登拝する者も減少し、山名も含めて八ケ岳に関する地域伝承が途絶えたことや、探検、観光登山の案内のために『日本山嶽志』にみられるように山名不明な山に名前を付けたごとによるものと思われる。
以上のように、どの峰をもって八ケ岳とするかは、地域性はもとより時代の推移とともに変化しており、八峰をもって八ケ岳とする説はあいまいになっている。
 
八ヶ岳の範囲
『国志』(巻之六五)に「八ケ岳権現、桧岳ニ鎮座ス桧峰神杜ナリ石長姫、八雷神ヲ祀ルト云フ」とある。桧岳に八ケ岳権現が祀られ、現権現岳の西にある石桐が桧峰神杜である。赤岳を八ヶ岳の中心とする地誌観とは異なるが、八ケ岳権現を祀る桧峰神杜を中心に信仰された峰表が、八ケ岳の範囲とみられる。
 
〔『輯製二〇万分の一図復刻版』〕
明治十七年参謀本部陸軍部測量局が着手した『輯製二〇万分の一図復刻版』に、権現岳の位置に八ケ岳の地名が記されている。これは、権現岳を八ケ岳の中心とする地誌観によるものであろう。
 
〔「大平山五ケ村入会図』〕
これと同様の地誌観によると想われるものに、明治十一年六月の「大平山五ケ村入会図』に権現岳西南一帯を「字八ケ嶽』とあり、
〔『新選信濃地誌』〕
また明治二十七年発行『新選信濃地誌』には「東ニ趣クモノハ立科、赤岳、八ケ岳ノ山脈トナリ、佐久、小県ト諏訪ノ境トナラン」とあり、赤岳と区別して八ケ岳の山塊を記している。
大正二年の五万分の一の八ケ岳の地図に、赤岳付近に八ケ岳の名称が記されているので、八ケ岳の中心が赤岳に移っていくのは、明治末期ごろのようである。
〔赤岳権現〕
信仰的側面においても、江戸時代中期長野県茅野市泉野の行者が国常立尊を祭神として赤岳権現を祀り、赤岳を開山しているのは、八ケ岳権現に対置した独立の意味からであると考えられる。中央に大きく「八嶽大神」、右に「赤嶽大神」、左に「東嶽大神」(三頭)と石碑(長野県富士見町)に刻まれているのは、赤岳より八ケ岳を上位に、かつ独立した信仰の存在を示している。
さらに、高根町長沢の修験の寺、真鏡寺由緒(杜記寺記)の文中に、「根本之義ハ兼帯所八嶽篠杜明嶽---」と併記しているのも八ケ岳と赤岳とは互いに包括されない独立の山であることの認識に基づくものであろう。
このように八ケ岳と赤岳とは、地誌的、信仰的側面において独立、併列の関係にある。現在赤岳を八ケ岳の中心とするのは、赤岳を八ケ岳の最高峰とする明治中期以後の登山ブームから生じた探検、観光登山家の地誌観の反映であろう。八ケ岳山麓の歴史、民俗、文化を考える場合、赤岳を除いた八ケ岳の範囲を明確にしていくことが不可欠と思われる。

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