新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

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パンフレットや森林情報誌では決して伝わらない山梨県の分収林の実態。
此の森林は負荷価値のみ、木材販売などでの利益はまったく産まない。

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山梨県伝説講座 怪談○荏草(江草・えぐさ)孫右衛門
『裏見寒話』「追加」(野田成方編)より、一部加筆
甲斐の北逸見筋荏草(江草)村(現在の北杜市須玉町)の山中に異人あり。延宝(1673〜80)の頃迄は村人、山に入れば何処ともなく來りて、樵夫(きこり)に交り斧を持て助力をなす。名は孫右衛門と云よし。折々人に語ていふ、
「我は上州(群馬県)の産、壮年にして父母を失ひ、それより大酒・放蕩、親族の諌めを用ひす。竟に見放され、生国を去て當國に來る。
その時は武田信玄の世盛りと覚えたり。我、元來剛力.勇猛、深山に入りて猟をなし、鹿・猿・狐・兎の類を食とし、村へ出ぎる事数ケ年、自然と山谷を棲家として光陰を送る。
三十年以前までは府下へも出で遊びしが、近來は人の交りうるさく、常に甲(甲斐)豆(伊豆)遠(遠江)山を回りて楽しみとすと云。樵夫らが飯を与えれば歓びて食す。其後は折々人に見ゆる迄にて、人家に近よる事なし。
然るに、正徳(1711〜15)の頃、荏草の村人山に入りて草を刈るに、異形の者巖上に立つを見る。髪は眞白にして、その髭胸に届き、眼光燗々たり。これを見る人、魂を失ひ已に迯(にげ)んとするに、忽ち狂風が起り、黒雲山頭に満ち、雷鳴草を貫く。是孫右衛門の熟睡の場を知らずして、草を刈て驚かせし故なりと。今に時としては姿を顯す、村人恐れて孫右衡門天狗といふ。

神話伝説からみた八ヶ岳(「長坂町誌」より)
〔金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構〕
八ヶ岳を見る二つの異なる視点八ケ岳南麓に住んでいた人々は、八ケ岳をどのように見ていたのだろうか。このことについて、金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構に関連して、次のような二つの見解がみられる。
(1)『山梨の古代』(山日出版)
「かこう(花崗)岩製の立石があった。かこう岩は、このへんにはない。その性格は、もう一歩不明である。はるかに離れた釜無川あたりの石だが、いったい、ここまでどうやって運んできたのか、なんのためにこの地に立てたのか、わからないことだらけだ。
ただ、いえることは、金生遺跡の正面にツンとそびえ立つ地蔵ケ岳と、なんらの関連がありそうだ、ということぐらいである。大胆な推測だが、当時、地蔵ケ岳のウニストンピークを男性の象徴に見立てた子授け信仰があり、祭祀場である金生遺跡では石棒や立石を立てて、ここから地蔵ケ岳をよう拝していたのではなかだろうか。」

(2)山梨の考古学』(山日出版)
「配石遺構の南側には前期、中期、後期の堅穴住居止群があり、北側には晩期の敷石住居辻群がある。巨大な配石を「祭壇」と考えた場合、人々は雄大な八ケ岳を背景にした配石群の前で祈りをささげたのであろう。ところが、配石遣構が造られたのは晩期であり、その時期の住居は配石よりも北側、すなわち、祭壇よりも高い場所に営まれていると報告されている。祭壇を造った人々が、祭壇の内側、祭られるべき場所に住んでいたという矛盾がみられる。このため、祭壇は住居から見て甲斐駒ケ岳の方向にあることから、甲斐駒ケ岳を祭ったものだという説も生まれている。しかし祭壇は南側から祈るように造られているのは事実で、八ケ岳を神体山に見ていることは動かせない。
(1)の見解のように八ケ岳に背を向けて南アルプスに視点を置くのか、(2)の見解のように八ケ岳に正面から向かい合うのか、八ケ岳南麓の歴史を考える出発点において基本的理解に相違がみられる。
(1)からは縄文人や古代人の心の中には八ヶ岳への信仰の姿は消えてしまうか、または影は薄くなってしまう。当時の人々にとって生活のすべてを依存するのは、八ケ岳南麓の自然の恩恵や驚異なのであり、それへの感謝の祈りや畏敬の念をいだくのは八ケ岳の神にほかならず、(2)の説明が妥当な見解であろう。

〔八ヶ岳と富士山との対比〕
八ヶ岳と富士山との対比その八ケ岳について考えると、まず最初富土山との背くらべ伝説が思い出される。
「昔は八ケ岳は富士山より高かった。ある時富士山の女神の浅聞様と、八ケ岳の男神の権現様とが高さの争いを始め、阿弥陀如来に仲裁を頼んだ。如来は苦心して、八ケ岳の頂上から富士山の頂上に樋をかけて、水を流してみると富士山の方へ流れて行った。それで富士山の負けときまったが、女でこそあれ気の強い富士山は、くやしさに八ケ岳の頭を太棒で叩いた。すると頭が八つに割れて、現在のように八つの峰ができた。」『甲州の伝説』より(角川書店)。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%C8%AC%A5%F6%B3%D9&ei=EUC-JP&fr=usf

神話伝説からみた八ヶ岳(「長坂町誌」より)
〔金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構〕
八ヶ岳を見る二つの異なる視点八ケ岳南麓に住んでいた人々は、八ケ岳をどのように見ていたのだろうか。このことについて、金生遺跡(大泉村)の祭祀遺構に関連して、次のような二つの見解がみられる。
(1)『山梨の古代』(山日出版)
「かこう(花崗)岩製の立石があった。かこう岩は、このへんにはない。その性格は、もう一歩不明である。はるかに離れた釜無川あたりの石だが、いったい、ここまでどうやって運んできたのか、なんのためにこの地に立てたのか、わからないことだらけだ。
ただ、いえることは、金生遺跡の正面にツンとそびえ立つ地蔵ケ岳と、なんらの関連がありそうだ、ということぐらいである。大胆な推測だが、当時、地蔵ケ岳のウニストンピークを男性の象徴に見立てた子授け信仰があり、祭祀場である金生遺跡では石棒や立石を立てて、ここから地蔵ケ岳をよう拝していたのではなかだろうか。」

(2)山梨の考古学』(山日出版)
「配石遺構の南側には前期、中期、後期の堅穴住居止群があり、北側には晩期の敷石住居辻群がある。巨大な配石を「祭壇」と考えた場合、人々は雄大な八ケ岳を背景にした配石群の前で祈りをささげたのであろう。ところが、配石遣構が造られたのは晩期であり、その時期の住居は配石よりも北側、すなわち、祭壇よりも高い場所に営まれていると報告されている。祭壇を造った人々が、祭壇の内側、祭られるべき場所に住んでいたという矛盾がみられる。このため、祭壇は住居から見て甲斐駒ケ岳の方向にあることから、甲斐駒ケ岳を祭ったものだという説も生まれている。しかし祭壇は南側から祈るように造られているのは事実で、八ケ岳を神体山に見ていることは動かせない。
(1)の見解のように八ケ岳に背を向けて南アルプスに視点を置くのか、(2)の見解のように八ケ岳に正面から向かい合うのか、八ケ岳南麓の歴史を考える出発点において基本的理解に相違がみられる。
(1)からは縄文人や古代人の心の中には八ヶ岳への信仰の姿は消えてしまうか、または影は薄くなってしまう。当時の人々にとって生活のすべてを依存するのは、八ケ岳南麓の自然の恩恵や驚異なのであり、それへの感謝の祈りや畏敬の念をいだくのは八ケ岳の神にほかならず、(2)の説明が妥当な見解であろう。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8C%97%E6%9D%9C%E5%B8%82%E9%87%91%E7%94%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1&ei=UTF-8&pstart=1&fr=usf&b=1

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