新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

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『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その6
 
「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。またイザナギイザナミニ神が天の浮橋で互いに見染められたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多とよぶのも語源。また騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こモミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族のセソ
を千に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押しこめ居付地を呼ぶのとこれまた同じである。
 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末孫。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる八つの民が働くのに、彼ら四つの遊牧民族は違うからとの合名で藤原体制に、北方に追われキタともいう。
「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、八つと四つを合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり人や獣を扱うのが原注系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。
「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収獲物にのみ対しではなく土地を私有化し地租課税。よって河原や山頂を当てがわれた部落は納税の為に貧窮化した。
八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上って住みついたのが「八つの民」。
 今もイラソのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。
 裏日本ヘベーリングの寒流で入ってきたのが騎馬民族で四つとよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。
 治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制す、で八つと四つは交互に、互いに監視し牽制しあうように四つの弾左ヱ門家の下に、八つの車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので共に仲よくしあって、世直しをと煽動された。その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、八つの大井川の赤フンの川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン(ふんどし)を振りつつ、向うでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。
 伊勢神宮を北条政子と思いこんでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭の良い人が昔もいたものであると感心させられる。
 己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。
 人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。
『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その5
 彼ら歴史家は、崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の、「八つ」との区別もできず、10世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って換った契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であらうと指が八本との妄説までたてる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話をかいているのに喜田貞吉らは気づかず「特別部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。
 三韓征伐はまったく逆で馬韓・弁韓・辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦六六三年に世変りした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送りこみ徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのが、ゲットーの居付き部落と知らぬらしい。
 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ尽きると自滅させた。『日本後記』や『続日本記』に記録されている。
 八つはマレーシア経由の黒潮渡来族ゆえ、農耕漁業製塩をなし食糧増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王に率いられ、中大兄の韓国系に食糧確保の政策上から子をうまされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが終りには岡山のゲットーヘ収容、奴可耶の地名を今も残す。
 四つは崇神御孫景行帝が八つの八坂姫にうませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。
 彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山ガツ餌取り餌差しとされ、特殊部落民とされてゆく。
 恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が11世紀は青眼の賊舶が次々と来襲、山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛むかぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語でイと呼ぶから「刀イ(伊)」の乱。この時、頼光四天王として坂田金時らも現われるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ従五位下止りで昇殿は不許。
 ようやく文治革命で夷津の夷頭の北条政子の世になると京を征伐し尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変りして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に足利創業に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。

『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その4

 なにしろ、彼ら明治史学家の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長座天皇を明白にした事と楠木正茂の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その健で解明できずだった。脇星・湯浅・楠・新田の地名が特殊部落にどこも多い。
 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷詠朗詠果」から始まって「くぐつ記」遊行衆説教師遠の「鉢屋由来記」から「賤者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」菊池山哉の「賤とされし先住民族……日本部落史料」「長吏部落↓日本の特殊別部落」だけが主らしい。
 しかし国定教科書編集員だった喜田員吉だけが学界では評価され、部落者の者としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及ビ非人・社会外の人」明治時代までは、口伝えに残こっていたでユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致する者だけを己が名で発表しアイヌ研究の権威となった金田一京助に対し、アイヌの遺産を返すよう、モの伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し三部作を出しているボン・フチである。初め東大出の教授の肩書の喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でもそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊他山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は、まったく出してくれぬからと、東京史読会を作ったのである。
 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で戦国時代の村山七党の流れをくむ武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。〈野史辞典〉に三河の旗本は二名とはもれゆえである。今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の、世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国申で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、このとき裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河星いなりに犬のくそ」とまでいわれる。岡崎城も御三家どころか僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の、「後三河風土記」が広まったのも三河島旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。
旗本になった連中は後から採用され30人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や太製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と駿河七〇万石へ移封したのは、家康が徳川の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重荷を背負って……」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作りあげ、徳川家連を公爵にして華族会長にまでした。それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され家康の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。

『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著(一部加筆)その3

 さて大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にして四倍に値上刊行し、第六版から二二版まで世に送りだしたのは、金あつめのための作為なのかとも感じられる。なにしろ喜田貞吉博士はモの大正八年には南北朝両統問題でりース直系の三上参次らに睨まれ国定教科書編県官を追われ、やむなく自費で、「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金繰りで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にして貰った裏取引とも考えられる。日本では歴史屋は真実追及よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえである。
 部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ彼差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広めたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」。それと、この「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すえの「橋のない川」である。
 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを、本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人を」作ってきたのである。
「天の古代史研究」の本さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄則部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して、奴隷にして被差別した歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。
 が売れて広まったこれらの本のため大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田郷世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の三千八百人が押しよせ、村田銃をうちかけ火をつけて、乱入し片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。
 というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名をとった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝された土地。特殊部落とはいえ長史岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンヘいっていた。だが当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康とは松平元康の改名せしなり」という故、山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布。(『松平記』として日本シェル出版四八〇〇円)そこで周辺近郊の者らが、世良田の徳川には、これまで冥が米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地許の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。
 そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集ってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。
 しかし当時の学士会は、華族会の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれの華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理をたて、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、さかのぼった奥付年月にした『松平記』を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。

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