|
素堂の紹介『國文學』 解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著 素堂
山口素堂は寛永十九年五月五日(一説に正月四日)甲斐北巨摩郡教來石字山口に、郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛といった。初め來雪と號し(延寶六年初見)、後素堂と改めたが、(同八年)それは堂號素仙堂の略で、隠棲後の呼名素道と音の通ずるところから俳號に用ゐたものといはれてゐる。別に信章斎、松子、蓮池翁とも號し、且つ茶道の庵號として今日庵、其日庵等があつた。享保元年八月十五日、武蔵葛飾に於て病歿。享年七十五歳、法名廣山院秋厳素堂居士、遺骸は上野谷中感応寺中瑞院に葬られたが、別に小石川指ケ谷厳淨院に山口黒露の建立の墓があり、元禄九年故郷甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛政能の懇願によって助力したので、里人その恩に感じ、後年蓬澤に祠を營んで山口靈神と稱してゐるのである。
山口家は彼の少青年の頃、甲府に移り、魚町西側に居を構へ、酒造業を營む富商として、時の人から山口殿と稱せられゐた。
彼はかゝる境遇に恵まれつつ好學の若き日を送つたが、寛文の初年頃であったらうか、遊學のため江戸へと志した。家督を弟に譲ったいふのもこの頃であったと推定される。
江戸では林羅山の第三子春斎より經學を授けられ、京へ赴いて和歌を清水谷家に(或は持明院家ともいふ)書道を持明院家に學んだといはれる。かくて延寶年間、何かの公職に就いてゐたらしいが、同七年の頃、職を辞して上野不忍池畔に退隠した。その剃髪も改號(素堂)も、この時にかかはりを持つものであったらしい。
ともあれ、ここに隠士素堂の生活が開始された。彼は更に閑居を葛飾の阿武(あたけ) に移した。不忍退隠後は、漢詩・和歌・俳諧・書道・茶道(宗旦流)・香道・猿樂(寶生流)・等に瓦つて廣く樂しみ、葛飾へ移住後は、葛飾隠子、又は江上隠士として悠々隠逸の境に徹し、庭池に蓮を植ゑ、菊園を造り、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」といつた、京都東山隠士木下長嘯子の言葉をあはれみ(芭蕉『嵯峨日記』)ひたすら簡素・静閑の世界に端然と起居したのであつた。
けれど、至孝を捧げた母を失ひ、且つは小名木川を上下して親しく交渉したる芭蕉をも引續いて失つてからは、とかくこの閑居を出ることが多くなつた。即ち、元禄八年には父母の展墓のため甲府に歸り、身延に詣で、その翌年も甲府に赴いて濁河の治水に努め、爾後、東海道を西へ、京都を中心として、山城・近江・伊勢・尾張等への旅を屡々試みてゐるのである。而も千年の古都京の風光を酷愛し、その地に居を移さうとする心持さへ抱いてゐた。
その老後には、瘧を煩つて危篤に瀕し(寶永七年か)、正徳三年の師走には火災にあつて翌年の新春を他郷で迎へ、また山口本家が零落するなどと、人生の不幸を味つたが、それやこれやでその生活は不如意であつた。だが彼は清貧のうちに身を高く持してゐたもののやうであつた。
素堂の俳壇への登場は寛文七年(時に廿六歳)、加友撰の『伊勢踊』で「江戸山口信章」として五句入集してゐる。もとよりその句振りは
かへすこそ名残おしさは山々田
といつて具合に、貞門風そのものであつた。かくて延宝二年十一月には上洛して季吟以下の歓迎百韻の席に臨んでゐる(『廿日會集』)。けれど翌年五月には、大阪より東下して談林風を鼓舞してゐた總師宗因を中心に、桃青(芭蕉)らと百韻興行に参加し、新風への關心と接近を示したのであつた。時に彼の周囲には桃青あり信徳あり幽山ありで、「江戸両吟集」(同四年)・「江戸三吟」(同六年)・「江戸八百韻」(同年)と、談林讃美の心から、談林風の俳諧をものし、甚だ熟情的に活躍した。
當時の彼の俳句、「江戸新道」(同六年)所収。
かまくらにて
目には青葉郭公はつ鰹
は諸書にも採録されて、彼の作品中最も有名であるが、古歌以来の初夏の風物として青葉と郭公に更に鎌倉名物の初鰹を添へたものである。
最初の「目には」・で、以下「耳には」・「口には」を類推させるあたり、談林作家としての彼の得意の程が思はれる。その軽快の調べと、江戸っ子の愛好した初鰹のあしらひとが、初夏の清新さを表現して、大衆の人気を獲得したのであつた。延宝に於て芭蕉と交渉を持った素堂は、天和に入ると愈々その親交の度を加へて行つた。當時は所謂虚栗(みなしぐり)調流行時代で、それは芭蕉の新風開發の劃期的まものであつたが、その漢詩や和歌を取り入れた佶屈な句作りは、漢學や古典の教養深き素堂の得意とするところで、ここに再び彼の制作熱が燃え上り、新調のよき支持者となつたのである。
荷興十唱(中一句)
浮葉巻葉此蓮風情過たらん (虚栗)
この句の「蓮」はレンと音讀せねば一句の趣きがないと芭蕉は評したが(『草刈笛』)、それはこの句全體の格調が破れてしまふからである。一句としてよりも生硬を免れ得ぬものの、彼一流の高致の気概が内在する。 貞享から元禄にかけて、その閑居葛飾が深川の芭蕉庵に程近い關係からか、芭蕉一門との交渉が益々繁くなつた。
貞享度はもとより『冬の日』・『春の日』が公にされて蕉風の確立を見たが、これに續く其角編の『續虚栗』(同四年)の序に於て、
素堂は、景情の融合を望み、
更に『時の花』・『終の花』の論に及び、
時の花は一時的興味的美であり、終の花は永遠的生命的詩情であると、
蕉門の不易流行説の先驅説を述べてゐるが、當時の彼は自然を凝視し静観する制度に立って氣高き幾つかの作品をうたひ上げた。
雨の蛙聲高になるも哀也 (貞享三年・『蛙合』)
春もはや山吹しろく苣苦し (同四年・『續虚栗』)
かくて世の聲望を得つつ元禄期に入り、その三四年に至るまで、相當數の作品を制作したものの同五年の沾徳撰の『一字幽蘭集』の序文に於て、彼は、
自己を絶對視して他の排撃することを避け、是非・新古は畢意鑑別しがたく、俳諧の風體は推移に任すべきである
と、主義主張にかかはらぬ自由の態度を示すに至つた。これは、一門の總師として、この一筋に繁がり、ひたぶるに新味を追求し、新風を宣揚したやまぬ芭蕉の生命を賭しての俳諧態度とは全く對蹠的で、清閑の世界にその多趣味を樂しみつつある隠逸者の性格と生活の自づからなる歸結であつたのであらう。この態度はその命終に至るまで變る事が無かつたが(『とくとくの句會』自跋参照)、かくて彼自身の制作熱が微温的となり、而も俳諧の良友たる芭蕉を失つてからは、愈々それが低下の一路を辿つて行くのであつた。
だが彼は寛文以来長きに瓦る作家であり、且つは高潔の人格と和漢の深き學識の故に、人々の尊信を得つつ、依然として俳壇の高き位置を占めてゐたのであつた。
彼と芭蕉との交渉に就いては記すべき多くの事柄もあるであらうが、ともあれ彼は芭蕉より二歳の年長とはいへ、彼の及び難い芭蕉の俳諧的力倆を畏敬したことであつたし、芭蕉も素堂の學識と人格を尊重しつつ、彼の俳諧を推進するに當り、素堂の心からなる支持に多分の喜び力と得たことであつたに相違ない。
真実二人はこよなき俳友であり心友であった。
素堂の俳系は門下の長谷川馬光(素丸)に継承され、彼は葛飾正風の開祖と稱された。もとより彼はさうした意識はなかつたのだが、かく開祖と仰がれるところに彼の徳望の自づかからなる現はれであり、のみならず、葛飾蕉門がその後長く栄えて行つたことはまことに慶祝であつた。彼の句集には、荻野清氏の好著「元禄名家句集」中の素堂篇がある。(大分大学教授)
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年02月16日
|
奥の細道 松島 素堂松島の歌
日すでに午に近し。船を借りて、松島に渡る。その間二里余り、雄島の磯に着く。
そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮を湛ふ。島々の数を尽くして、欹(そばだ)つものは天を指さし、伏すものは波に葡匐(はらば)ふ。あるは二重に重なり、三重に畳みて、左に分かれ右に連なる。負へるあり抱けるあり。児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉潮風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯(た)めたるがごとし。その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはやぶる神の昔、大山祗のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞か尽くさむ。
雄島が磯は、地続きて海に出でたる島なり。雲居禅師の別室の跡、坐禅石などあり。はた、松の木陰に世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・桧笠など打ちけぶりたる草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映りて、昼の眺めまた改む。江上に帰りて宿を求むれば、窓を開き二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
松島や鶴に身を借れほととぎす 曾良
予は口を閉ぢて眠らんとしていねられず。旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安連、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きて今宵の友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。
十一日、璃巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後、開山す。その後に、雲居禅師の徳化によりて、七堂甍改まりて金型荘厳光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
|
|
山梨県文学講座 山口素堂 資料 増補『日本俳諧史』池田秋旻著 昭和八年発行
山口素堂、通称官兵衛、後市右衛門、来雪又は信章斎、別に葛飾隠士と号し、字は子晋とも云へり。
寛永二十年、(正しくは十九年)甲斐巨摩郡山口に生まれ、後甲府に移る。初め江戸に出で、林春齋に従て漢籍を学ぶ、彼が漢學のの力に就ては、芭蕉もまた之れを稱揚したりとて如何のも碩學なりしが如傳ふるものあれども、漢學者としての彼れは、餘りに斯道の記録にも見えず、恐らく俳諧仲間に於ての巨擘たりしと云ふ位に過ぎざるべきか。
|
|
山梨県文学講座 山口素堂 2、俳諧及び俳諧生活(晩年 葛飾風)
資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
彼は、晩年、自句を左右に分つて、『とくとくの句合』を選んだ。これ彼の唯一の著述であって、恐らくは、正徳元年、七十歳の折、成ったものと思はれる。此句合は、彼も「老のおもひ出とせり」と跋に述べてゐる如く、自己の俳風を世に問はんとする如き意図の下になされたのではなかった。尚又、一般に素堂が晩年葛飾風なる一派を創立したかのやうに傳へてゐるが、事実は、雁山、(後ノ黒露)素丸、(後ノ馬光)予光等の慕ひ寄る二三の人に對して、たゞ指導の勞を執つたに過ぎす特にに一派を立てゝ俳壇の一隅に呼号したが痕跡は、全く認められ無い。
葛飾蕉風なるものは、其日俺三世溝口素丸に及んで、誇稱されるに至ったものと思われる。かくて、素堂は、かつて業俳として門戸を張らず、且つ、生涯一の撰集だに公にせずして世を終ったのであった。かの「とくとくの句合」は享保に至って出版されたものである。彼の晩年に就いては、彼の一周忌追善集『通天橋』が発見されゝば尚明らかにされよう。
以上概略述べきたつて、彼の俳諧生活が前後五十年に亙る長きものであったに拘らず、概して不活発消極的なりし事に気付く。わづかに、延宝俳壇混沌の頃、活躍が見られるのであって、芭蕉以下が眞個の俳諧精神に目覚めたる後に於いては、彼は天和貞享の数年にのみ、やゝ精進し上るに止り、その後約三十年間は、たゞ俳人として餘端を保ってゐたに過ぎなかったのである。
しかも、延宝・天和・貞享に於いてすら、他の俳人に比すれば甚しい寡作であった。今、五十年の俳生活に於いて残されたる、彼の句を拾ふも、僅々約四二七句を得るに止る。此寡作の理由は後述に譲り、今は、彼が職業俳人たらず、強ひて句作する必要なき立場にあった事が、その一つとして考へられる事を擧げて置かう。(未完)
|
|
山梨県文学講座 山口素堂 2、俳諧及び俳諧生活(芭蕉没後)
資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
彼は、芭蕉歿後、なほ十部餘りの俳書に序跋の類を請れてゐる。此際、彼の古き俳歴、すぐれたる人格
學識、及び芭蕉の親友なりし事等は、彼の地位を保持するものだったと考へられる。
芭蕉歿後の彼の消息中、もっとも吾人の注意を惹くは、去来に新風興行をすゝめたといはれてゐる事であらう。
『去来抄』に依って見れば、それは同書の成った年の事であったらしい。
『去来抄』は籾山氏の研究に依れば元禄十一年より十三年の間になったといふ。
尚、素覧の『東武太平鑑』なる書には、此事に閥関して次の如く見えてゐるさうである。
江戸風の俳諧とて今世さまざまに品つくり、變りたる風をよるこびて、月にあまる事おびたゞしければとて、葛飾の素堂大人此由丈草去来がもと、そのほか伊賀の衆にはかり俳諧花風のおもてを興さむとありしかども去来は手届かず、又丈草は此ほど身すぐれずとて取合ず。たゞ伊賀の衆中には志をのべてこしたるもありけれど、力なくてやみき云々 (『俳譜二百年史』紹介』)
この両書に依れば、素堂が、去来その他に、新風興行をすゝめた事は、動かすべからざる事実のやうであるが、私は尚そこに疑を持つものである。第一、彼が去来・丈草等と格別深い交渉を持ってゐたとは考へられない事である。何が故に、素堂は、これら特に親交なき人々を、わざわざ選んで、新風奥行の相手たらん事をすゝめたのであろうか。又元禄十二三年の頃は、年譜に依って知るごとく、彼の俳諧生活は萎徴として振はず、精進の気概などは全く見られ無いものであつた。この彼に、率先して新風興行の盟主たらんとする意気があったとは、到底事実として受け取れない。更に彼の人物に考を及ぼす時は、此事は一層信じ難く思はれる。彼は、前述せし如く、隠逸にして、人を訪ぬるさへ煩わしいとした人物である。かゝる彼が、俗に趨いた其角一派の句風に飽き足らず思っていた事は肯かれるとするも、それ以上新風興行等の煩瑣なる企畫をなそうとは思われ無い。
尚又、彼の俳諧観及び其角との関係より見ても此事は疑はしい。
『去来抄』に就いては、現尚偽書とする説を存し、『東武太平鑑』とて俳書目録等に見えず、或は後人の假託の書とも邪推され、彼是思ひ合せて、尚暫く此事は後に疑を存して置きたいと思ふ。
|




