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神取(かんどり・明野村)『山梨県の地名』昭和58年 NHK甲府放送局編
北巨摩郡明野村(現北杜市)は、昭和三十年三月一日に朝神、上手、小笠原の三村を合併して発足した村です。朝神村は、幕末のころまでは巨摩郡逸見筋に属した浅尾、浅尾新田、上神取、下神取の四カ村が、明治八年に合併し、さらに旧打名から一字ずつ取って組み合わせ、浅尾の「浅」を朝日の朝にかえ、神歌の神をとって朝神打としたのです。
朝神村の大字上神取と下神取は、もとはそれぞれ一打をなしていたのですが、慶長六年(一六〇一)に実施された慶長検地の結果、打ち出された『慶長郷村帳』には、
一、 神取村高三百六十石七斗六升
とあって、まだ上下の二村に分かれていません。『甲斐国志』によれば、神取村が上神取、下神取の二村に分けられるのは、それから五十六年後の明暦三年(一六五七)のことで、慶長以後、水利の開発や原野の開墾が進み、村高も上神取村四百石、下神取材三百五十石となって、慶長当時の高の二倍を超えています。
さて、この神歌の地名はどうしてできたのかといいますと、これには古来、二つの説があります。
第一説は『甲斐国志』の古跡部の説で。神取は神服部から出たとするものです。いわく「神服部、按ズルニ神取村是レナルベシ。『日本紀』ニ、神護景雲三年、神服部ヲ天下請社ニ奉ルト。神田ヲ寄セラルルナリ」と。しかし原典(これも『日本紀』でなく『続日本紀』である)によりますと、称徳天皇の神護景雲三年二月十六日の詔に「神服ヲ天下ノ請社ニ奉ル、社毎ニ男神衣一具、女神衣一具ナリ」とあるだけで、神田を寄せたということはまったく見えません。察するに、神取が神服部と音が似ているので『甲斐国志』の編者が早合点のままを記したものでしょう。
第二説は『甲斐国志』神社部の説で、神取は村の氏神・香取明神の香取にちなむとするものです。下総の一宮香取明神は小笠原牧の守護神として、牧の一隅、塩川段丘上に勧請され、付近は香取郷と呼ばれました。この神社は後に白山神社となりますが、祭神には香取明神がいます。香取郷が中世のころ、座取郷と書かれ、加島県とも呼ばれた資料が幸いに残っています。
中道町の真言宗七覚山円楽寺所蔵の大般若経の一冊に「上座取折損寺常住、貞和二年十月十一日」の奥書きが見えます。上座取は上神取で、南北朝時代まで香取郷の上座取折損寺什物だった大般若経が、後年、円楽寺に移ったものです。
次に山梨市矢坪の永昌院にある県文化財の梵鐘は次の銘のあることで知られています。「甲州香取郷、山は集雲と名づけ、寺は大林と号す。永和丁巳三月下訴」。丁巳は水和三年(一三七七)で、前の貞和二年より三十ツ年後に当たります。当時集雲山といった大林寺は今は神竜山と山号をかえています。大林寺の鐘は、のち、応永二十七年(一四二〇)に甲府の東光寺に移り、さらに武田信昌のとき、山梨市矢坪の永昌院に移りました。
また塩出向岳寺開山の抜隊禅師語録には、香取郷を加取の県と記しているのも興味深く思われます。これによって、南北朝には、まだカトリ郷(県)と呼んだことがわかります。
以上の資料から考えて、神取は、初め香取といったのが転じたものと考えてよいでしょう。
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2011年02月17日
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素堂の俳諧論
素堂(信章)がいつ頃から俳諧を始めたかは明確な資料を持たないが、寛文七年(1667)二十六才の時に貞門俳諧師、伊勢の春陽軒加友の俳諧撰集『伊勢踊』が初出である。発句は本文に掲載してあるが、注目されるのは前書の少ない『伊勢踊』の信章の句には、加友が「予が江戸より帰国の刻馬のはなむけとてかくなん」と認めている。これは素堂の職業上の地位か俳壇に置けるものかは分からないが、それなりの地位を確保していたものと考えてもよい。寛文九年(1669)には石田未得の子息未啄の『一本草』に入集している。素堂が北村季吟に師事したとの説が俳諧系譜や研究書に見られるが、これは否定できる。(後述)当時の江戸においての重鎮高島玄札や先の石田未得辺りとの接触も多いに有り得る。素堂が京都の清水谷家や持明院家から歌学や書を習ったという説もあるが、その時期などは定かではない。
延宝二年(1674)二十三才の十一月に上洛して季吟や子息の湖春らと会吟した。(九吟百韻、二十回集)「江戸より信章のぼりて興行」が示すように、歓迎百韻であり師弟関係でないことが理解できる。
素堂の動向が明確になってきたのは、寛文の早い時期から風流大名内藤風虎江戸藩邸に出入りをしていて、多くの歌人や俳人との交友が育まれた。その中でも寛文五年(1665)大阪天満宮連歌所宗匠から俳諧の点者に進出した西山宗因からも影響を受けた。宗因はそれまでの貞門俳諧の俳論は古いとして、自由な遊戯的俳風を唱えて「談林俳諧」を開き、翌六年に立机して談林派の開祖となった。素堂が出入りしていた内藤風虎と宗因の結びつきは、寛文二年の風虎の陸奥岩城訪問から同四年江戸訪問と続き、風虎の門人松山玖也を代理として『夜の錦』・『桜川』の編集に宗因を関わらせた。風虎は北村季吟・西山宗因・松江重頼とも接触を持った。重頼は延宝五年(1677)素堂も入集している『六百番発句合』の判者となっている。
延宝二年(1674)宗因の『蚊柱百韻』をめぐって、貞門と談林派との対立抗争が表面化して、俳諧人の注目を浴びる中、翌三年五月風虎の招致を受けて江戸に出た宗因は『宗因歓迎百韻』に参加する。この興行には、素堂や芭蕉(号、桃青)も参加する。素堂も芭蕉も共に貞門俳諧を学び、延宝の初年には宗因の談林風に触れて興味を示し、『宗因歓迎百韻』に一座して傾倒していく。四年、芭蕉は師季吟撰の『続連珠』に入集している。芭蕉は季吟より「埋木」伝授されていて門人であるというが、その後の接触は見えない。 素堂は季吟の俳諧撰集への入集はなく、巷間の「素堂は季吟門」は間違いということになる。貞享二年(1685)に『白根嶽』を刊行した甲斐、一瀬調実には季吟の批点を示す史料がある。(『甲斐俳壇と芭蕉の研究』池原錬昌氏著。参照)調実は岸本調和門ではあるが、紙問屋という職業も幸いして広く著名俳人に接触した形跡が残る。天和二年暮れの大火事で焼け出された芭蕉を甲斐谷村に招いたとされる谷村藩国家老高山麋塒(伝右衛門)との交友も深い。
素堂は延宝六年(1678)三十七才の夏に、長崎に向かった。素堂研究家の清水茂夫氏(故人)は『大学をひらく』の中でこの旅行に触れ、「二万の里唐津と申せ君が春 の句は仕官している唐津の主君の新春を祝っている」としている。これが事実とすれば『甲斐国志』に言う素堂の仕官先桜井孫兵衛政能とは大きな食違いが生じる。
さて宗因の感化された素堂と芭蕉は延宝五年に『江戸両吟集』を翌六年にかけて京都の伊藤信徳を迎えて『江戸三吟』を興行した。
梅の風俳諸国にさかむなり 信章 こちとうづれも此の時の春 桃青(『江戸両吟集』)
素堂も芭蕉も共に貞門俳諧から出発した。素堂が『続の原』跋文や『続虚栗』の序文に於て「狂句久しくいわず」や「若かりし頃狂句を好みて」と云うように、俳諧は滑稽・遊びとして捉えていたようである。従ってそれまでに培った知識を縦横無尽に駆使して作句した。季吟や宗因の影響で一時は談林風に傾斜したが、 延宝六年から七年の号を来雪とし、長崎旅行を経て致任、翌八年来雪から素堂(本名)と改号した辺りからと考えられる。延宝八年(1680)素堂三十九才の時である。この年素堂は高野幽山『俳枕』の序文で自らの俳諧感を述べ、「俳枕とは、能因が枕をかってたはぶれの号とす」として中国唐時代の司馬遷の故事・李白や杜甫の旅、円位法師(西行)や宗祇・肖柏の「あさがほの庵・牡丹の園」に止まらずに「野山に暮らし、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。是皆此道の情なるをや」と生き方の共通性を云い、幽山の旅遍歴を良として「されば一見の処々にて、うけしるしたることばのたねさらぬを、もどりかさねて」と和歌・連歌・俳諧等の一貫した文芸性を指摘して「今やう耳にはとせまの古き事も、名取川の埋木花咲かぬも、すつべきにあらず」として、此の道の本質(俳諧の情け)として捉え、旅をする生き方の重要性と風雅感を吐露している。これは後の景情の融合と情け(心)の重要性を説いている。素堂歿後の享保六年(1721)素堂の晩年の世話をした子光編の『素堂句集』には「弱冠より四方に遊び、名山勝水或いは絶れたる神社、或いは古跡の仏閣と歴覧せざるはなし」とあり、旅の豊富さを認めている。
漢詩文を得意とする素堂は一派に属さず天和調とも云われる漢詩文調の句を多作する。この頃の素堂の句は「字余り」も多いが、これは余すことで詩情を余韻を良くし、貞門俳諧以来の外形的形態を満たし、素堂んならではの高踏らしさの感動を顕しているのである。
その頃芭蕉は信徳らの『七百五十韻』を受けて、天和元年(1681)『俳諧次韻』を出し、俳諧革新を進め、天和調の第一歩を拓いた。(『俳文学大辞典』)また新風を興す模索を続ける。天和三年には甲斐逗流の後其角の『虚栗』の跋を認め、貞享元年には帰郷の目的で「野晒し」の旅に出る。翌年江戸に戻るが、芭蕉は漢詩文調を脱する新風を興す手応えを感じていた。
素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享四年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。
『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、
風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。
昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和歌や俳諧でもこうありたい。詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。
……人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。
として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。
これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替えって見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於いて、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、風雅観が生まれると説いたのである。
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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂評価
高木蒼梧の『俳句講座」の俳人伝素堂の項によると、
伯毅の「含英随記」には「子晋(素堂の号)の才は檎ふ可らず、蓋し林門の三才の随一たるべし」あるいは「学才我門に絶すと師の春斎も語られき」と蟹守の素堂伝にもあると伝える。
素堂の家は甲斐府中魚町於いて酒造業を営むと諸書に紹介されているが、これは昭和初期の功刀亀内の『甲州俳人伝』に寄るものであり、素堂が生誕した寛永十九年(1642)以降酒造は冬の時代に入っている。当時は酒造は自由に造ることはできずに幕府の賎しい監視下に於かれていたのである。(後掲載参照)
少々引用が長くなったが江戸時代の酒造業の厳しさが理解していただけた事と思う。素堂の家は教来石村より府中魚町に移住して忽ち財をなして人々に【山ロ殿】と呼ばれる程の富豪であったとこれも国志に記されその後事実確認の無いままに誇大に引用されてきたのである。素堂の生家は酒造家であった事実は無く、屋号は【素仙堂】である。ましてや甲斐府中に幼年から青年時代に住居していたことも歴史資料からは認められないのである。
素堂の祖先は前述の『連俳睦百韻』によると蒲生氏郷の家臣山ロ勘助としている。山口勘助の致任した時期及び生業については不詳であるが、素堂の家は山ロ里で無く医者かもしくは文事をもって仕えていたとの推察の方が酒造業より近い。
素堂の嫡男清助は早く亡くなり嫡孫山口素安が素堂の家系を継ぐ。素堂の弟も儒臣として尾張家に仕え素堂も林門の俊才として各家に講じていた。恐らく素堂を儒家として求めた幕府の要人や大名は多かったと思われ、その位素堂の名声は当時に於いて世に轟いていたのである。
過ちは正されなければならない。現在まで伝えられる素堂伝を勇気を持って正さなければならない。これは歴史に携わる人々の責任であり義務でもある。
前『俳句講座』(高木蒼梧著)には素堂の漢詩について漢詩壇の泰斗国府犀東の素堂の漢詩評を載せている。
「……箇様に褒め立てて見ると、宗人の唾余を拾わず、唐賢の下風を拝せず、遥かに漢魏六朝の上にまで遡って、先泰周季に力を得て居る。蘊蓄の音ならぬ詩壇の一巨璧のあるかの様に見える。そうして殊に古文辞学派の起こり来らんずる先駆をなし、宗儒道学者流の口吻を一擲してし去った。一新機軸の新作家であるように認められる。古文辞学派の詩人を、そのまだ起こり来らざる前に当たって、あっと云わせるだけの力があったばかりでなく、同時に又宗代の新流行であった詞余の調子を取り入れることを知っていた所のハイカラであった。云々」
と素堂の漢詩に於ける当時の名声を示している。
素堂の序文、祓文、詞文の多さは他を圧倒している。『俳枕」を始め『芭蕉庵勧化簿』・『野ざらし紀行』・『芭蕉庵四山の銘』・『蓑虫記』」・『続虚栗』,『素堂亭十日菊』・『芭蕉庵十三夜』・『あら野集』・『芭蕉奥の細道送別詩』『芭蕉伊賀へ、餞別漢詩』・俳諧指導書『松の奥・梅の奥』・『甲斐酒折宮奉納和漢』・『俳諧六歌仙』・『三日月日記』・『一字幽蘭集』・『三巻一軸の画』・『芭蕉三回忌追善』・『六玉川の詩』,『法竹子の父に手向る辞』・『長休庵記』・『宗長庵記』『鳳銘記』・『利休茶道具』・『茶入号朝日』・『一楼賦』・『千句塚』・『東山万句』,『嵐雪を悼む辞』・『東海紀行』・『菊の塵跋』・『陸奥千鳥誠」・『葛飾序』・『千鳥掛序』・『誰袖集之序』・『梅の時序』・『蟻道が句のこと』など枚挙に暇がない。
素堂に序文などを依頼した人達は多く、当時一流の俳諧たちの序文を書すと言うことで当時の素堂の地位と名声の高さを窺い伺い知る事ができる。
前記の幽蘭集を編んだ沾徳を素堂は磐城平城主内藤風虎(義概)に紹介して沾徳は内藤家に仕える事となる。風虎の父忠実の娘(実は風虎の兄弟の美実の娘を養女とする)は上諏訪の高島城主内藤忠晴(俳号路葉)に嫁いでいて、諏訪内藤家も代々俳諧を嗜み、頼水↓忠恒↓忠晴↓忠虎と活躍している。頼水は江戸斉藤徳元と交流があり、忠晴は芭蕉の第一の門人とされる其角に師事している。其角は素堂と親しく素堂の紹介で芭蕉の門人となる。忠虎は前記の水間浩徳や風虎の子露浩との交友が深い。
露沾や沾徳は素堂に非常に近い存在である。こうした事も素堂の文人としての地位の高さを示している。素堂は戸田茂睡の和歌集にも一首入集している。さらに老中秋本但馬守の領地の甲斐谷村にも、俳諧師素堂として和歌が一首所蔵されている。(「森山其進の甲斐国志草稿」による)又素堂はこの秋本家に松尾芭蕉の同郷の和田蚊足を足入れしている。
素堂の墓所は谷中感応寺であり甲斐府中の尊詠寺の墓所は 『甲斐国志」の記載が人々に知られてきてからの後世の物であり、素堂の石像も同じである。府中魚町の山ロ里の血縁と思しき山口里伊兵衛が山田藍々(素堂像を描く)と計り、平原豊撰文で府中の寿町金比羅社境内に「濁川治水碑」を東京の本所広庭町芭蕉山桃青寺の境内にも内務省関係者と計り、時の農相品川弥太郎の撰文を得て治水碑を建立した。
素堂の法号を「直脊柱完居士」とする俳諧伝書もあるがこれは『甲斐国志』の云う甲斐府中尊詠寺の山口家の墓所にあったとされる墓石の法号である。が、功刀亀内の『甲州俳人伝」によると昭和七年以前に調査しても不明であったと記されている。素堂の墓石はその後甥の山口黒露により小石川厳浄院に移されている。又、下記のような話もある。
現在素堂の位牌は感応寺は現在の谷中天王寺である。法号は【廣山院秋厳素堂居士】が正しく、現在も谷中天王寺の立派な位牌堂に大切に安置されている。これは今日庵六世社中が再興したものである。尊詠寺には素堂の母と称される墓石もあるがこれは後世の物であり、素堂の母では無い。素堂の母の死は元禄三年(1690)では無く元禄八年(1695)に死去しているのである。
(別述)
素堂は幕府の要家に仕えていたが、諸事情により(別述)致任するが、その後も忙しい日々を送る事となる。
素堂の句が俳諧書に見えるのは伊勢国加友の『伊勢踊」が初見であるが、これ以前に既に素堂に対する評価は高かったのである。それは『伊勢踊」の記載中に素堂に対する加友の詞が特別にあることでも判る。
『伊勢踊」に入集以来、素堂の俳諧活動は俳書には見えず、廷宝二年(1674)十一月、京都での北村季吟の歓迎百韻に望むまで影を潜める。しかし彼は俳諧人では無い。当時素堂は公職に就いていたのである。又幕府儒官林家の要人として大名家の講義に多忙な日々を送り、その中で暇があれば内藤風虎の江戸藩邸に出入りしていた。
松尾芭蕉との出会いが何時であったのかは定かではないが、多くの文人が風虎邸で交友を深めていたので、風虎を介しての出会いも考えられる。伊賀から出た後の芭蕉の消息は途絶えその間の事情を現在でも議論されているが結論は出ていない。江戸に出た時期や経緯及び出てからの芭蕉の消息も確定していない。現在出版されている芭蕉関係の本は、それぞれ著者の調査と思いこみに依る記述が多く、読む人の混乱を招いている。風虎邸でお互いの能力と感覚が合致した二人は江戸俳壇の先導者として華々しい活躍を見せる。その後の素堂と芭蕉は芭蕉の没年の元禄七年まで続き、芭蕉没後も素堂は変わらぬ慕情を諸俳書に記している。
芭蕉の庵を結んだのは素堂が元禄六年に購入した土地の側でこの場所は関東郡代伊那半十郎の屋敷跡地の傍らである。この土地はその以前は杉山杉風(芭蕉の衣食住にわたり世話をしていた。芭蕉の門人として芭蕉が最も信頼していた俳人)の抱え屋敷付近であった。杉風の姉は甲斐に住んでいたとの説もあり、杉風の親しく素堂とも交友があった青雲は甲斐の出身と言われ素堂と同じ俳諧集に入集している。
芭蕉が天和三年(1683)に甲斐谷村に流通したと伝えられ、その折に杉風の姉の居る等々力村の寺に来ているとの話は、芭蕉を信奉する人々により抹消されている。富士吉田地方には芭蕉の作句や流寓由来説が伝わるが、それが当時からのものか、後世の付合い伝説かは判らない。(別述)
素堂は一時本宅の他別邸と庵を所有していたと思われる。本宅には元禄七年(1694)までは母も妻も同居していた。儒官人見竹洞は素堂宅を訪れている。そのときの様子を『竹洞全集」に次のように記している。
娶酉季夏初十日与二三君乗舟認浅草川入
川東之小港訪素堂之隠屈竹径門深荷花地獄
松風碗圃瓜茄満畦最長広外之越也
『竹洞全集」にはさらに元禄八年(1695)の素堂の母の逝去も伝えている。
(森川昭氏紹介)
素堂山士八句老萱堂 至乙刻之夏忽然遭喪
さらに朝倉治彦氏は素堂の所有地について季刊紙『俳句」に発表している。(詳細は別述)
元禄九年九月 江戸町奉行 地子屋敷帳 深川の条
本所深川抱屋敷帳 四百三拾三坪 後 元禄十五年調べ 四百二拾九坪
これは抱屋敷である。素堂の本宅は別にあった。諸書によると素堂は元禄九年の濁川改修工事の終了後に江戸葛飾の庵に帰り隠士として密かに暮らしたと伝えるが、素堂は京都には頻繁に往来して、芭蕉無き後の俳諧人の取りまとめに奔走している。晩年には童病みを患い床に伏すが、復帰してその後も活動を続けるのである。近親者や盟友を次々に失い孤独な境遇になるのは最晩年の事である。京都ではある時は越年して優雅な暮らしをしている。まるで故郷に帰った様である。
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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂伝記『甲斐国志』と『連俳睦百韻』
さて素堂の家系を伝える『甲斐国志』の記載の誤りを諸書により確証してきたが、問題は『甲斐国志』と『連俳睦百韻』の信憑性である。素堂の生涯を見て筆者は『連俳睦百韻』を中心にしたいと思う。
この『連俳睦百韻』によると素堂の家は織田信長や豊臣秀吉に仕えキリスト信者(洗礼名レオ)であり戦国武将として有名な蒲生氏郷の家臣であり、町屋に下ったのが何時の時代か断定出来ないが曽祖父か祖父の時代頃と推定される。研究者の中にはこの『連俳睦百韻』と『甲斐国志』を結んで、「山口家は蒲生氏郷の家臣を致任してその後甲斐国巨摩郡教来石字山口に代々郷士として住み着いた。」とされる方も居るがその間に至る説明資料が何も提示されてはいないし余りにも無責任な感じさえする。文学書の中には歴史事実や資料の無いままに記述されているものが多く見受けられる。
織田家は天正十年(1582)には武田勝頼を攻めたて諏訪から教来石村山口、白須村を通り台ヶ原村に陣を張る。翌日は現在韮崎に勝頼が新設した新府城を攻め落とす。勿論家臣の中には蒲生氏郷もいた。もし氏郷の家臣山口勘助が何らかの理由で教来石村山口に定着する可能性も全て否定は出来ないが、と言って肯定する資料も見当たらないのである。
又生年月日についても両書は異なる。
『甲斐国志』五月五日生まれそして五が重なるから幼名は重五郎と言うとあり、『連俳睦百韻』は正月四日とある。
素堂が重五郎や市右衛門を名乗った形跡は他の資料からは窺う事は出来ない。しかし連俳の太郎兵衛も他の資料には見えない。素堂が晩年網んだ『とくとくの句合」の雷堂百里の序に依ると素堂は「若かりしころ松兵衛」を名乗った事が記されている。素堂が官兵衛や市右衛門それに重五郎を名乗ったと云う資料は現在のところ『甲斐国志』以外には見ることが出来ない。『甲斐国志』素道の項を著述した人は一体どんな資料を基に記述したのであろうか。
『甲斐国志」と比べて『連俳睦百韻」の信憑性が如何に高いかは次の事でも判る。
素堂の兄弟は次弟が友哲(太郎兵衛を名乗る)、末弟は(素堂の子息の可能性も)山口才功その子が清助素安とある。此の素安は素堂号の継承について寺町百庵の編んだ『毫(ふで)の秋』中に記述が見える。
連俳に依ると三男の才功は林家の門人とある。業堂は『含英随記』ると人見友元(竹洞)が業堂を評して「林門三才の随一(『含英随記」の作者は伯毅)と述べていると荻野清氏は『山口業堂の研究・上」のなかに記されている。この事をしても素堂の家を甲斐府中魚町の酒造里山口市右衛門家と結びつける事は確実な資料がない限り、例え『甲斐国志」の説で有っても全面的に信じる訳にはいかないのである。又多くの俳人が甲斐を訪れているが誰一人として素堂と甲斐との関連や業堂自身のことを述べている者はいない。
素堂門と云われる素丸も甲州街道を記して山口を通り教来石村の名所「教化石」で一句詠んでいるが、不思議のことに素堂の事には触れてはいない。
素堂没後から『甲斐国志」が世に出るまでの約百年は業堂と甲斐を結びつける書は少なく、散見できる歴史資料も見当たらない
のである。野田成方が宝暦二年(1752)に編んだ『裏見寒話」にも「桜井孫兵衛」の事や「庄塚の碑」のことは記してあるが素堂については記されていない。
多くの書は素堂二十歳の折に甲斐府中から江戸に出て幕府儒家林春斎に師事したと伝えられるが、これは『甲斐国志』の記述を基にして語られている話である。前年の万治三年(1660)には甲斐府中は大火に見回れているのである。当時の資料によると府中は殆ど焼失している。勿論素堂の家とされる魚町山口市右衛門家も焼失しているのである。素堂は長男であり、家督を継いでいる素堂がその状況下で翌年の寛文元年(1661)に江戸に出る事などあり得ないことである。この万治三年の府中大火の事実に触れずに記述した『甲斐国志』「素道の項」の誤りは後世にそのまま継承される。また素堂は林家に入門する以前に「濁川改悛工事」の担当代官として指揮に当たった桜井孫兵衛政能の僚属に数年なったとの記述も歴史や両人の年齢や仕官先の役職就任年齢を無視したものである。桜井孫兵衛の業績を崇める余りの誤った記載である。素堂の幕府に於ける地位の高さは孫兵衛の及ばないもので『甲斐国志」でも孫兵衛の言として「閣下」などの用例もある。閣下は目上に対しての尊称である。
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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂と白州町足跡
白州町にも素堂の生誕地を示す石碑やそれに句碑も三ヵ所存在するがどれも昭和後期の碑でその由緒は全て『甲斐国志』の引用であり、地域に根付いた歴史資料を基にしたものではない。又墓所もなく山口姓を名乗る家も数軒あるが明治以降に付けられた姓であり、素堂とは何ら関係は認められないし、山口姓など全国何処でもある姓である。
山口には口留番所か関所の存在は諸書により確認できるが、素堂が生まれた年代に関所が有ったとすればそれは不自然であり、関所の周辺には人家など有る筈がないのである。山口は小さい集落であり、現在も殆ど変わらない形態を残しているが、素堂誕生碑のある現在の国道20号線が当時の甲州街道であった可能性は無く、20m〜30m後方の高台には未だ「海道」(かいどう)の地名が残り、かってはこの高台を宮道が通っていたのである。現在素堂生誕地の碑がある場所も根気のあるものではなく、周辺にある墓所も素堂の生まれたとされる寛永年間の物は無く、比較的新しい物である。地域にも素堂の事を窺う言い伝えなど一切無く、総て『甲斐国志』の記述内容が明らかになった以後のことである。
「山口」と言う地名は当時の甲斐には多く見られる地名であり、特別の地名ではない。田畑の耕作が出来ない地域では役所の替わりに山を守り山仕事で生計を立てていたし、年貢も米では納めなくて木材を伐採、製材をして川輸送したりして年貢代わりに充てていたものである。
白州の山口もそうした地名であり、「山の口」は山の産物を管理してそこに入る人達からも入山科を徴収して一部を年貢にしていたのである。そうした山の入り口が「山口」であり全国及び山梨県内にも無数にあった。韮崎の武田八幡宮の周辺にも現在山口の地名がある。当時に於いて山口姓は郡内にもあり、また「山口衆」と言う木に関わる集団も甲斐国内各地にに存在した。
前にも述べたが山口(巨摩郡教未石村字山口)の地名が世に知られているのは甲州九筋の内の口留番所があったからであり、関所(番所)の任務に就いていた二宮及び名取は『甲斐国志』にも記されている。(前文参照)
一、 山口
甲州道中教来石村の内にあり信州口 番人二人拾俵二人扶持 名取久吉、二宮勘右衛門。名取は元来土着の士番役を勤む、其始めは不詳。宝永二年(1705)松平美濃守(柳沢吉保)の時に名取利兵衛、加人願いによりて二宮勘八を本栖番人より当所へ引移去る。是は相州藤沢殿より宝永二年(1682)本棚に移されし二人也。とある。
又「山守」として、古は諸山に入り薪などを採る者より其の時々口銭を納むる。故に番人を置き是を集めを山口衆(と云う)山守衆とも呼。とある。
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