新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

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真壁文書と一木文書(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)佐藤八郎氏著
 円野町上円井の真壁多幼氏所蔵の武田勝頼花押書状と、同じく竜の丸朱印状、武川村黒沢の一木清兵衛氏所蔵の武田勝頼獅子朱印状の三点について考察してみたいと思う。その第一は、信玄没後間もない元亀四年九月のものである。
     「定」
 一、大鳥居郷 参拾五貫文
   此外陣夫壱人
 一、小石和之内 市川民部丞名田拾貫六百借文
 一、河内郷之内 七貫三百七十文 以上
 右知此可貧下屋之旨、跡部大炊幼顔御訴訟貧中侯之条、貧相渡候。
自今己後、知御書付、嗜武具、無疎略、勤軍役、可抽戦功之趣貧仰出侯者也。価知性。
    元亀四酉九月廿三日           跡部美作守(竜の九朱印)奉 之
塩屋五郎右衛門尉殿
 
 文面によれば、
 
跡郡大炊助がしきりに愁訴するので、上様(勝頼)には大鳥居で三十五貫文と陣夫一人、小石和で十貫六百三十文、河内で七貫三百七十文、合計五十三貫文の知行をお前に下されることになった。
今後は別紙軍役定書に記してあるように、武具を整え手落ちのないように軍役をつとめ、抜群の戦功を立てよとの上意である。
 
というもので、奉行人の跡部美作守は勝忠で、勘定奉行であった。宛名人の塩屋は跡部大炊助の寄子で、八代郡の在地武士であったらしい。塩屋氏は塩谷で、巨摩郡、八代郡に分布がみられる。
 元亀四年は七月二十八日に元正と改元されたが、交通通信の不便な当時、「都より甲斐へは程遠し、日はお急ぎあれや武田殿」と歌われたごとく、二カ月近くも甲州では改元を知らなかったのである。武田家の軍役については二、三の史料もあるが他日紹介したい。
 
第二は、天正八年十二月、武田家と特別の関係にある駿河の御宿若丸にあてた定書で、
    「定」
 一、御宿投銭共百弐拾貫文
 一、千福投銭共百参拾九貫九百四拾三文
 一、菅古投共拾壱貫文
 一、狸藻投銭共ハ貫文
 一、平山段銭共廿八貫七百三十壱文
一、焼津 百四拾俵
一、丸子 七拾壱俵
  一、池野 五拾貨文
  一、沢田名倉名六拾壱貨文
  一、久足 百貨文 半田兵部丞知行得哲也 以上
 五百八拾一、貨九百六拾四文右任父監物譲与之旨、知此出置侯、向後弥抽戦功、可相勤軍役指値奉公之忠、
 可令重愚者也。価知性
     天正ハ庚辰十二月十九日      勝   頼(花押)
          御 宿 若 丸殿
 御宿若丸は、大監物といわれた友網の子である。暮山氏の同族で、父監物は信玄の命により信玄の六男である信貞を養って名跡(嫡子)とし、したがって、実子若丸は二男ということになった。友網は老して後、本領を信真にゆずり、若丸すなわち網真には新恩之地を譲った。葛山家譜に、
 網貞若丸、母長坂釣閑斎女、勝頼宛行御宿之領地如旧
 
とあるのがそれで、この勝報定書はその際のものである。戦国大名の家臣に対する統制は厳格を極め家庭の内部にまで及んだ。自分の子に知行を譲る場合にも、領主の許しを要し、しかも、それすら領主から特旨をもってあてがわれるというのであった。天正八年といえば、武田の家運も急激に煩きつつあったにもかかわらず、これだけの権威があったのである。御宿網貞すなわち若九は、壬午の後、北条氏に従い助兵衛と称した。小田原没落の後は結城秀康に仕えて一万石を領したが後、故あって浪人し、大阪冬夏の陣には、大阪方のために奮戦して勇名を馳せた快男児である。
第三は天正九年八月のもので、武田勝頼の獅子朱印を捺した山境裁定状である。
     「黒沢山犬堺之事」
一、      南ハ判行之道より八町庄司みつなぎより北ハ黒沢分、北ハ真原下道より石うとろ(空)わたは石塔烏帽子石大武川石に南ハ黒沢分也
    天正九年辛已八月廿日                (獅子朱印)
 
勝頼の獅子朱印は、竜王川除け関係の文書にもあり、民政関係の定書等に用いたものであろう。一木家(武川村長一木清兵衛氏)の家系は黒沢出羽守より出た旧家で、出羽の子一木主水介長高を祖とする。天正のころ一木清七の代に武田氏より鳳凰山黒沢山大堺の朱印状を受けて所有権を確認された。これがその朱印状で、これによって以後若神子村、塚川村(今長坂町の内)をはじめ近在諸村へ相当代償を徴収して入会を許したのである。そしてこの権益は武田氏滅亡後、徳川氏からも承認され、明治初年まで入会諸村は一木家に対し、入山料として相当の金品を納めている。例えば塚川村では明治五年十一月籾二俵(大桝二斗二升入り)を山年貢として黒沢村清兵衛まで納めているし、明治十四年四月にも同村から西山小物成として山・籾六斗六升入り二俵、この石代金三円八十一銭二厘を旧黒沢村一木和十郎に納めている。
研究報告 (武川町)唐土神社の研究 竹川義徳氏(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社) 
今回の夏草道中第二日日、北巨摩郡武川村山高の幸燈神社をたずねた。ここで日ごろ知りたいと思っていた唐土神社との関係を調べることが出来たのは収穫であった。
このお宮は甲斐国志に、
 
大己貴命を祭り、新羅三郎義光を相殿とす。昔時は二両を大武川の河側唐土と云所に在り社地方一町余、張水に流亡して今は数株の古樹を余すのみ。元亀光年山高氏是を西宮と云処に遷し両両合せて相殿となす。正徳中又村内に遷せしが其よごれを恐れて、文化二年重て村上の旅行へ遷し(中略)文保中(鎌倉末期)新羅三郎義光を祭る。新羅の名を取って唐土の両と号すと言へり。
 
とある。
 まず祭神の考察をすると、祭神は大己貴神と義光がまつってあり、大己貴神については正徳三年正月狩野洞元が書いた大国主命像を山高兵助信知が奉納したことと結びつき、義光については、北巨摩郡下には義光
をまつるお宮が多いので、これも当然として受け取ることが出来る。しかも義光は山高氏の遠祖とされているのでなおさらである。
 ところがこのお宮はまたの名を唐土神社といい、県下の唐土神社の祭神はスサノウノミコト(素戔鳴命)が圧倒的に多いので、このお宮はなぜ国志・郡誌には祭神となっていないか。旧地を唐土というのは唐土神社とあった証拠ではないか。これについて山高の人にただしたところスサノウノミコトが祭神となっていると答えた。円井の歌田昌翰氏から見せてもらった武川筋神名帳には摂社に八雲社があり祭神はスサノウノミコトとなっている。唐土信仰がうすらいだため祭神のスサノウノミコトの影がうすくなったのであろうか、従って社名も幸燈神社が表看板になり、唐土神社は忘れられようとしているが、同社に「甲州巨摩郡武川筋山高村正一位唐土大明神幣帛」と書いたIメートル余の板が保存され、社殿の東に「唐土大明神」と刻んだ石鳥居の額が鳥居の桂の折れたのを立ててその上に載せ石神さんのようにまつられてあった。これは額の保存のためとも見られ、また唐土大明神は本殿からはみ出しているとも考えられる。
 唐土信仰のうすくなったのはひとりここばかりではなく、合社、廃社となっているところもある。唐土の社名については甲斐国志で新羅三郎義光の名をとって唐土の祠と称したとあるのは、スサノウノミコトの存在を考えないものであると思える。
唐土神社については赤岡重樹氏の『甲斐古社史考』には、
 
唐土明神は大石和筋矢作、北山筋牛句等にも同名神あり、元亀神文になど明神とあり、遠戸の義にして近戸の対称ならん。吉沢千田、高町に近戸明神ありて食料は金峰の東麓、牛句、吉沢は其の南の南麓にあれば遣戸近戸は何等か因由あるものの如し
 
とあり、また先年群馬県勢多郡北橘村の民俗学研究者今井善一郎氏から山梨県でも唐土神社は金峰山の外側をとりまぎ、近戸神社は内側にあるかどうかと言って山梨郷土研究会に照会して来たことがあった。その際本県内の調査を私が依頼され調査したところ唐土神社と近戸神社の分布は次のようであった。
【唐土神社】 
唐土神社は、東山梨郡牧丘町食料・同成沢・山梨市万力・同西後屋敷・東ハ代郡一宮町矢作・中巨摩郡敷島町牛句・韮崎市下条南割・円井・北巨摩郡須玉町江草・武川村山高など十社あり、社名については牧丘町倉料の黒戸奈神社、武川村山高の幸信神社の外はほとんど唐土を用い、唐渡と書く場合もあり、永禄四年の番帳に唐土の称宜と書いてあるのが一つ万力にある。祭神は大部分が素戔鳴命であるが、山高と竜岡の二つは大己貴命となっている。大己貴命は素戔鳴命とは全然関係がないわけでもない。
【近戸神社】 
近戸神社は、甲府市宮本高町・中巨摩郡敷島町吉沢・同吉沢千田、韮崎市青木・同上条北割の五指を折ることが出来たが、祭神はみな違っている。ただ青木の近戸神社は摂社に荒神社というのがあり、素戔鳴命を祀ってある。
 以上の唐土、近戸両神社を山梨県地図に書き入れて見ると、なるほど多少の遠近の差はあっても大休金峰山をとりまいており、遠く河内や郡内では唐土神社は発見出来なかった。唐土、近戸神社は金峰山に対する近戸、遠戸の関係であるという結論を下すことは早計かも知れないが、さりとて全然関係がないと断定するにはあまり道具がそろっているので私にはその探究を思い切ることが出来ない。
 そこで今一つ問題を提供したいと思うのは金桜神社である。前記の唐土神社のある付近に、牧丘町杣口、山梨市万力、同歌田、甲府市宮本などに金桜神社があり、金峰山を奥宮としている点である。もし唐土神社を金峰山の遠戸、近戸とする説をとるとすれば、金桜神社と唐土神社をひろめた人たちと、両社創設の年代を異にするのではないかということも考えられる。
道中筋と天保騒動(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
 竹川義徳道中講師は道中筋と関係深い天保騒動について次のように説明した。
 天保七年(一八三六)八月二十一日食糧難打開のため蜂起した郡内一揆は、甲州街道を東から西に押しよせ、甲府以西は時には脇道にそれたが、大体今回の夏草甲州西道中を本筋として、台風のように荒らしまわり甲信国境に到って大詰めとなった。甲府をあらしたあと、八月二十三日夕刻竜王に乱入し、さんざあばれた上、赤坂を上り志田、宇摩谷で暴威をふるい、韮崎宿では放り出し、りゃく奪、暴行のかぎりをつくし、それより一路武川筋に向かうはずであったが進路をかえて逸見筋に入った。
 北巨摩郡誌によると、韮崎宿の名主兵左衛門と玉屋五兵衛が、武川筋は出水で交通と絶であるとあざむき、道をたがえて逸見筋に案内したとあるが、上円井村歌田隼人正常という人の所蔵であった「甲斐国天保騒動見聞録」には洪水のため穴山桃が落ちたため一揆がそれて武川筋のうち上、下三吹村以南甘利郷までの村々が災害を免れたと書いてある。
 いずれにしてもわざわい変じて福となったわけである。逸見筋にそれた暴徒は道々無法者が加わって下条・駒井・中条・大豆生田・若神子をあらし、下黒沢・穴山・長坂を押し通り、片風から釜無川を越えて台ケ原に進撃し、白須・鳥原・松原から上下教来石に殺到し、山口の関所を突破して大武川までなだたれこんだ。
 この時の一揆の頭取は西河内江尻窪村(中富町)源八の倅大工職周吉であった。周吉は、はじめは頭取の指揮に従っていたが郡内の頭取たちが引きあげたあと、頭取からもらった茶羽織を着、赤い打ちひもをたすきにし、長脇差を帯び、村々から狩り出した人足に罵龍をかつがせ、それに乗って頭取気取りで一揆を指揮した。(甲州騒立一件裁許状)
 国境に達した一揆は、諏訪の高島城市か援兵をくり出したため大八田河原に追われ鉄砲の乱射を受けて総くすれとなった。裁許状によると、周吉は捕えられ「石和宿にて磔」となっている。五日間にわたる一揆の暴動は二十五日遂に鎮定された。夏草甲州西道中一行の最終コースで終止符を打ったわけである。
道中筋と天保騒動(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
 竹川義徳道中講師は道中筋と関係深い天保騒動について次のように説明した。
 天保七年(一八三六)八月二十一日食糧難打開のため蜂起した郡内一揆は、甲州街道を東から西に押しよせ、甲府以西は時には脇道にそれたが、大体今回の夏草甲州西道中を本筋として、台風のように荒らしまわり甲信国境に到って大詰めとなった。甲府をあらしたあと、八月二十三日夕刻竜王に乱入し、さんざあばれた上、赤坂を上り志田、宇摩谷で暴威をふるい、韮崎宿では放り出し、りゃく奪、暴行のかぎりをつくし、それより一路武川筋に向かうはずであったが進路をかえて逸見筋に入った。
 北巨摩郡誌によると、韮崎宿の名主兵左衛門と玉屋五兵衛が、武川筋は出水で交通と絶であるとあざむき、道をたがえて逸見筋に案内したとあるが、上円井村歌田隼人正常という人の所蔵であった「甲斐国天保騒動見聞録」には洪水のため穴山桃が落ちたため一揆がそれて武川筋のうち上、下三吹村以南甘利郷までの村々が災害を免れたと書いてある。
 いずれにしてもわざわい変じて福となったわけである。逸見筋にそれた暴徒は道々無法者が加わって下条・駒井・中条・大豆生田・若神子をあらし、下黒沢・穴山・長坂を押し通り、片風から釜無川を越えて台ケ原に進撃し、白須・鳥原・松原から上下教来石に殺到し、山口の関所を突破して大武川までなだたれこんだ。
 この時の一揆の頭取は西河内江尻窪村(中富町)源八の倅大工職周吉であった。周吉は、はじめは頭取の指揮に従っていたが郡内の頭取たちが引きあげたあと、頭取からもらった茶羽織を着、赤い打ちひもをたすきにし、長脇差を帯び、村々から狩り出した人足に罵龍をかつがせ、それに乗って頭取気取りで一揆を指揮した。(甲州騒立一件裁許状)
 国境に達した一揆は、諏訪の高島城市か援兵をくり出したため大八田河原に追われ鉄砲の乱射を受けて総くすれとなった。裁許状によると、周吉は捕えられ「石和宿にて磔」となっている。五日間にわたる一揆の暴動は二十五日遂に鎮定された。夏草甲州西道中一行の最終コースで終止符を打ったわけである。
横手本村に桜の巨木(白州町大坊・横手・菅原・教米石)(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
 第三日(白州町大坊・横手・菅原・教米石)
 第三日の十日は前日の豪雨とはうって変わった快晴に全員元気いっぱい、朝七時半天薮鉱泉を出発した。天野広親区長の案内で白州町天坊の天野厚氏宅にある信玄像を見、横手の旧家出田田護楼氏宅では中山太郎区長の説明を受けながら無銘だが長船だと伝える太刀(二尺三寸五分=七一・ニセンチ)包重(一尺七寸=五一・五センチ)の古刀や軸などを研究、中山区長の案内でかつての旧家横手彦寧氏の屋敷跡をみた。更らにその関係から横手氏の墓がある横手山安福寺では横手氏の先祖をたどって研究する者もあった。
 一行は墓地裏を出て信州へ技ける旧街道を横手本村に進み横手の名所だという幹囲四・一二メートル高さ一二メートルの桜の下で一休した。ここで中山区長から本村がもとの横手の根拠であったが、西村、原村、新居などへ移り住み、いまは中山、駒木、赤羽などの姓を名乗るわずかの人しか残っていないこと。西村など新部落は貧富の差はほとんどなく経済状態は平均していることなど、部落の推移が説明された。また寺や神社も移ったが、その跡などがまだはっきり残っているという。
【馬場美濃守信房・天保騒動・獅子舞】
 やがて一行は本村の細道を国道に向かって歩を進め、前沢部落で馬場美濃守の宅跡を見(?・)、案内に当たった浅川元菅原村長は「馬場美濃守が長篠の森で自刃し、若宮八幡に葬ってある(?)。この付近にはいくつかの塚がある」ことを説明された。一行が白須の松原に到着すれば古屋町長や役場職員、婦人会員など大釜でお茶をわかしての歓迎だった。松かげで昼食の折り、竹川義徳講師から「白州町下宿の高木勲氏宅大黒柱にはヨキ()あとがあり、天保騒動の一味が流れ流れて白須にまで至り米屋にも暴れ込んでいる」ことが説明された。
 午後は新街道へ出て六地蔵を見、島原で教来石民部の屋敷跡を見学、下教来石に入り、明治十六年明治天皇巡幸の際の御小休所をみて旧鳳来村の産土神諏訪神社でくつろいだ。神社境内では一行を歓待するため地元青年団による「獅子舞い」婦人会の「教来石甚句」など土地に長く伝わる民踊が披ろうされ、秋山藤一さん(七五)の「馬八踊り」は疲れた老人たちを慰めた。
【教来石・きょうらいし・明治天皇田植え石・・山口番所・山口素堂】
 神社を出て日本武尊が東国征伐のとき休んだと伝えられるヘテコ(テ?)石(教来石)また明治天皇が巡幸の時、田植えをご覧になったという「明治天皇田植え石」をみて上教来石へ入った。ここで山口番所り案内に当たった有賀宜一元鳳米村教育長は「関守りをしていた二宮、若尾両家は今はこの土地を去っているが、番所のすぐ隣りが俳人山口素堂の生地である」と説明、一行は進藤積善さん方で保管している昔、番所で使用された「つく棒」「さすまた」「そでがらみ」などを見、素堂屋敷跡(?)に住まっている佐伯さんからは移り住むまでの由来を聞き、一路国界橋に進み予定より一時間余り早く三時五十分には全員無事到着、四時から橋畔で道中の感想などを述べあったあと、小沢秀之団長の発声で夏草道中の万歳を三唱、解散した。
   

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