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円野町歌田呂翰氏所蔵の木曽義昌書状(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
急度奉言上候
偽旧冬廿二於千其表被達御防戦
敵数千金為討捕由於千愚者式安堵仕候
弥当地在陣候之条
相応之子細可蒙仰侯具山村可申上候之間
金省時候恐惶謹言
追而塩五十斤進上候以上
正月五日 木曽義昌(花押)
甲府御陣所
参人々御中
これは、元亀四年正月五日に、信玄の女婿であり、木曽福島の城主であった義昌が、旧冬二十二日の三方原合戦の戦勝を祝賀し、併わせて当時としては貴重品であった火薬を五十斤進物として届け、文中にて、一層の軍務を仰せ付けられたいと申し出ているものである。
この時の甲州勢の意気、信玄の満足思いやるべきで、数十年ならずして、この義昌が勝頼の時代に叛乱の発頭人になろうとはだれが想像したであろう。
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山梨県文化財研究室
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西道中で見た武田氏関係の文書(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
西遊中でも多くの貴重な古文書を見学したが、モの中で興味あるものを佐藤八郎道中講師は次のように一、二説明した。
「「双葉町柳本春雄氏所蔵の信玄朱印状。」
自辛来歳両棟別共御赦免
然而御普請役隠田等之事軍役衆可為同前之旨御下知侯(候)間
存其旨厳重可令降参
御扶侍者如此間可被下者也但如件
元亀弐辛来年 山県三郎兵衛尉
卯月十九日 原拠人佑
朱印 泰之
六科郷 矢崎源右衛門尉
武田信玄の西上の大計画が漸やく実現の域に近づき、領国内の軍備を極度に充実し、総動員体制を完了しつつある当時の姿が思いやられる。宛て名の矢崎源右衛門は恐らく同人クラスの在地武士と思われるが租税の負担を軽減する代わりに、その費用を以って出陣に要する戦備を厳重に整備せられたい。
というので両棟別、普請役、隠田、軍役、降参の扶特等により戦国大名武田氏の権力構造の一端がうかがわれる。山県、原は当時の同職であった。
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円野・武川で勝頼文書見学(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
【″あてがい状″・徳島セギ・徳島兵左衛門の墓・神代桜】
第二目(穴山・円野・武川村牧原・山高・柳沢・藪の湯泊まり)
第二日の九日、一行は前日の強行軍のつかれの色も見せず強雨をつき朝七時三十分宿舎能見荘を出発。穴山梅雪の出城だった能見城跡の裾を通り、梅雪、山梨、青木、甘利などと一帯にあった豪族屋敷跡などについて話しながら穴山橋を渡り、雨のため予定を一部変更して韮崎市円野町上円井公民館にくつろいだ。婦人会の湯茶の接待を受けながら宇波円井の諏訪神社の宮司歌田昌翰氏や上円井の真壁暉三、真壁多助両氏などから特に一行のため持参された天正年間の禁制状、徳川秀志の御祝状、元亀四年 (信玄の死後)勝頼が塩屋五郎右衛門に与えた″あてがい状″など古文書を研究、歌田氏と佐藤八郎講師から説明を聞いた。強雨のため希望者だけが徳島セギの生みの親、徳島兵左衛門の墓のある妙心寺と二百七十六年前につくられた徳島セギの取り入れ口を、内藤第一、草間第二両区長、秋山農業土木委員らの案内で見学、台風六による強雨の中で、徳島翁の功績をたたえた。
再び勢ぞろいした一行は旧道の踏査を断念し、武川村役場に直行、会議室で一木村長のあいさつをうけたあと、平田農協組合長から、″古跡と新産業″について話を聞き、武田信繁の使用した懐剣(短刀)や水戸藩士大関竹庵の書など古文書、軸などを一覧ののち、山高へ。
【実相寺・神代桜】
村長の案内で実相寺で天然記念物指定の神代桜、賀茂真淵の使用した桐の机など宝物を見たのも公民館に到着、幸信神社所蔵の文献について石原重責、石原直各氏子総代から説明を聞き、四百年前から伝わる年中行事「丑の刻参り祭り」で甘酒を作る由来などを聞いた。
【柳澤吉保奉納絵馬??・弥太郎屋敷??・馬八節】
午後は公民館近くの幸信神社に参拝、娘の安産を祈願して柳沢吉保が奉納したと伝えられる絵馬二面を研究した。石器、土器が多数発掘されている実原開拓地行きは雨のため中止、旧道を下って柳沢へ出たころ雨はやんだ。小池熹
幸氏宅に立ちより、文献類を拝見している時、案内の水石義言武川教育長は柳沢吉保の幼名の「弥太郎屋敷」という地名の田んぼがあるが、甲斐の領主が生まれた土地と伝えるだけで何の遺物もないと語られた。
やがて外堀をぐるりとめぐらせた柳沢部落では珍しい元士族であったという一条春子さん方を見学のあと、武川の観光道路を一路宿舎の藪の湯へいそいだ。夜は大坊婦人会や青年団が歓迎に″馬八節″を「藪の湯」前で踊ってくれた。
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穴山能見城跡について(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
大森明道中講師は能見城跡について次の説明をした。
能見城跡は穴山氏の拠った南北朝期の山城である。穴山氏は武田十五代信武の五男義武に発祥する。
『大平記』延文四年畠山氏上洛の条に武田刑部大輔舎弟信濃守とあるが、刑部は武田十六代信成であり、信濃守は穴山義武である。武田信武、信成、信春の三世は中央史上においては足利尊氏、義詮、義満の三代六十年間にわたる時代であり、南北朝合一に至るまでの世代である。
甲斐の武門も南北の二派に分かれたもうろうの時代であった。信武は足利氏の殊遇を被り、その男の義武を穴山に拠らしめて穴山を氏号とする一族を創立させたが、武田勢力の辺見台地進攻の拠点を七里岩、穴山台に選定したことは、天険を利用することが居館と山城の築設から人工をはぶき威力を有ならしめるためである。西から南にかけて釜無の断崖、東は塩川の段層に亘る壮大な天険に立地している。
乳房山すなわち能見山を要害の中心として、近接するわし山、飯森山、おさごし山の小円丘、小丘陵を物見のとりでとして、山下の平地能見山東方の駒形神社付近に居館を配している。
能見城の構造については築城期を二期に分けて見ることが必要である。第一期は南北朝期穴山氏発祥当時の純然たる山城である。第二期は天正年間(天正九年五月起工、同年十二月まで)新府築城計画による能見城の修築改造である。第一期は前述の穴山氏の拠点であるが、時代の性格から大規模な築城ではなく、あくまで天険を主とした地形の利用であり、城地も居館も小規模簡単なものであった。居館、要害の分離した分散式構造である。第二期においては能見城の要害の一切を包む新府城の築設である。
穴山氏は当時南部氏の奥羽移封後の所領に拠り南部下山を領した。穴山氏の本所領地である穴山台を本家の武田氏に譲渡して大規模な新府築城が、穴山梅雪の進言によって具体化したことについては、今日なお郷土史上の大きな研究課題のひとつである。今日に残存する城跡遺構は天正築城に由来するものが多い。
塁跡は東門である竜の口門跡と、西門である鎮門跡には四間、五間の枡形塁跡を存している。東に能見山ろくをめぐる土塁をみとめる。
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見徳寺に室町の弥勒木像(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社)
【竜王新町厄除け不動尊】
第一日(竜王町・双葉町・韮崎市藤井・中田・穴山泊まり)
山村の生活史を探る夏草甲州西道中が八日からはじまった。この朝八時、出発点の竜王駅前に九十一人の参加者を集めて結団式が行なわれたが、一行は最年少の甲府北中二年内田慎吾君(一三)から高根村の輿水善重老(八二)まで色とりどり。野口山梨郷土研究会長のあいさつ、斎藤竜王町長、保坂同教育長らの祝辞に続き、一行を代表して佐藤双葉東小学校長が「規則正しく行動して道中の目的をはたしたい」と宣誓、式をおわり、地元婦人会、青年団の歓迎を受けながら町当局者の案内で、まず空海四十二歳の作という竜王新町厄除け不動尊を見学した。小宮山彦一郎同区長からもとは宝憧出光善寺の本尊であったと説明され、斎藤町長らは県文化財指定の申請を進めているという。
【山県大弐の実兄山県斎宮(いつぎ)宅跡・有富山慈照寺・古墳】
ついで山県大弐の実兄山県斎宮(いつぎ)宅跡を見て、有富山慈照寺に進み、昨年県の文化財指定となった山門を見学した。これは寛永十六年建立されたものだが、桃山時代の建築様式を巧みに江戸時代に取り入れているのが特徴だ。山門二階の五百羅漢は安産信仰から寄付されたものと伝えられ、産婦に貸したのが返って来ないものがあり現在は三百ほどしかない。また本堂に陳列された家康の禁制、信玄印書など古文書を見ながら大森住職から説明を聞いた。
同寺裏から赤坂に出ると両目塚、双つ塚、狐塚など昔の豪族の古墳であったと思われるのが並んでいるが、一部の人々がこれを踏査した。
【赤坂・稲荷・三権茶屋】
赤坂は昔日、甲州街道の信州へ通ずる要路だったが、中現で信州への道は今はすっかりさびれている。赤坂の赤坂稲荷に立ち寄り、いまでも甲府若松さ姐さん方が縁起をかついでお参りにくるという稲荷信仰になつかしさを感じ、さらに坂をのぼれば昔三軒の茶屋があって、いまも三軒茶屋の名が残っている赤坂の頂上で、中村双葉教委長ら十散人双葉町から出迎えていた。三軒茶屋もいまは一軒しかないが苦労して掘った井戸など往時、街道筋の茶屋として栄えた名残りをわずかながらとどめていた。
【然記念物の″楊子梅″】
北上して中宿へ出、武田信玄が信州への遠征途上、立ち寄り、
弁当の梅に楊子をさして捨てた種が生長したものと伝えられる天然記念物の″楊子梅″を見た。「樹齢三百五十年を誇る老木だが、実際にはアソズで種には楊子のさせる穴があいている。こんなところから信玄にまつわる伝説が残っているのかも知れない」と楊子梅の持ち主井上重郎元登美村長と佐藤八郎講師から説明かおり、ここでは中島双葉町長はじめ町民の大歓迎を受け、諏訪神社に向かった。
【諏訪神社・オタメ石・勤番の士、中村六右衛門の住居】
竜地のこの神社では、ひとかかえもある蓋つきの石箱を見、屋敷割りによる集落の移動など街道筋の盛衰について佐藤講師から話を聞いた。これら屋敷割りのあとは宿を作ろうとした名残で、信玄時代には要路であったことが実証された。また宿の通りはカギなりに曲げることを特徴とし全手の名が出た根拠だともいい、一つは敵に対する防ぎの意味からだそうだ。集落の移動に際しては時の代言所からご祝萱をくれたというが、そうした文献はどこにも残っていなかった。双葉東小学校でスイカの接持にあずかり、水争いで名の知れた楯無しセギの由来、田用水を下流へも公平分配するために用いたというオタメ石の話やオタメ石番の勤番の士、中村六右衛門の住居、セギの水のはけ口大涌井入り口(これは代官所の許可をとってやったものと伝えられる)などについて長田元村長、中村教育委員長、三枝善衛、佐藤八郎両講師から説明をきき、また中村恭民氏からは先祖の住まった建物が江戸中期の旗本屋敷の建築
モのものであることが説明された。
【看廻り塚・見徳寺参道・当麻戸神社】
団子新居から宇津谷の看廻り塚前を通りヽ新府城落ちのさい勝頼夫人が炎上する城をながめて涙を流したと伝えられる上の山沢の森で昼食。沢の森をあとに一行は小尾街道をすすみ、塩川を渡って相岱婦人会の歓迎をうけ、韮崎市藤井町へ。途中北下条で以前は見徳寺参道だったという田んぼ道で六地蔵を見、高松山見徳寺に参詣、本尊の弥勒菩薩木像は寄せ木遣りの室町期の作、近く植松県文化財調査委員が調査するという。駒井上野の当麻戸神社に参拝すれば氏子や婦人会が歓迎に待っていた。中田町中条の昌福寺、穴山町稲倉の穂見神社で往古への考察をすすめ、第一日の行程を終わり、能見城跡を展望しながら宿舎穴山温泉へと到着した。
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