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北杜市文化財教室

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町の史跡名物を探る【大武川】諏訪神社、七奇石に塩沢鉱泉
 
諏訪神社中の社
○大武川部落にある諏訪神社は建部名方命を祀り、上世建部名方音が出雲の国よりこの地に至り、武みか槌命と誓をして始めて和議が整いし処と伝へられる。
後崇神天皇の時代、武淳川別命の東征の功により本州西辺の地に封ぜられ、孫大臣命の須波(すわ)国造りを任ぜられ其の祖廟を此所に立てたのが即ち当社の起因であり、信州の官弊大社を上社、この諏訪神社を中の社、下諏訪に在るものを下社と称へられ、その由緒最も古き社であるが、回禄の災にかかり社殿、古書類等焼失して今は由緒の微すべきものがないのが誠に残念である。
 
七奇石
○この大武川には七奇石と称するものがあり、烏帽子石、粟粒石、駒つなぎ石、三ツ石、夫婦石、転び石、赤石等で皆形状及び色彩によって名づけたものである。その内烏帽子石は大きさ形、共に本物そっくりである。今も部落の公民館に保存されている。
 
塩沢温泉
○大武川部落の東方に釜無川に注ぐ塩沢川の流域にある塩沢鉱泉はその源泉温度二十八度Cが湧出して開発されたもので、いづれも大正時代、当時は現在の福島館、信行館のほかに今はないが大正館もあり、皮膚病緒疾患の治療に特に効果を見られるほか、胃腸病や農閑期に附近の人々の保養施設として人気を維持して現在に至ったものである。
 地元の人の話しによればこの地の湯は多分に流動的であり昔は部落に野天風呂さえあったと伝へられるとか、最近の話では戦時中に鉱物採取の目的で手摺りされた抗道が横穴式で五十メートm掘ったところで温水にあたり湧出したがそのまゝ終戦を迎えて埋まった儘であることや、昭和三十四年の災害のときも部落内に三ケ所も同様の温水の湧出を見ながら、いつか枯れてしまった、など此処の地域に対する温泉開発への科学的なメスの投入を希望する声も現在なおしきりであります。
神取(かんどり・明野村)『山梨県の地名』昭和58年 NHK甲府放送局編
 北巨摩郡明野村(現北杜市)は、昭和三十年三月一日に朝神、上手、小笠原の三村を合併して発足した村です。朝神村は、幕末のころまでは巨摩郡逸見筋に属した浅尾、浅尾新田、上神取、下神取の四カ村が、明治八年に合併し、さらに旧打名から一字ずつ取って組み合わせ、浅尾の「浅」を朝日の朝にかえ、神歌の神をとって朝神打としたのです。
 朝神村の大字上神取と下神取は、もとはそれぞれ一打をなしていたのですが、慶長六年(一六〇一)に実施された慶長検地の結果、打ち出された『慶長郷村帳』には、
一、      神取村高三百六十石七斗六升
とあって、まだ上下の二村に分かれていません。『甲斐国志』によれば、神取村が上神取、下神取の二村に分けられるのは、それから五十六年後の明暦三年(一六五七)のことで、慶長以後、水利の開発や原野の開墾が進み、村高も上神取村四百石、下神取材三百五十石となって、慶長当時の高の二倍を超えています。
 さて、この神歌の地名はどうしてできたのかといいますと、これには古来、二つの説があります。
第一説は『甲斐国志』の古跡部の説で。神取は神服部から出たとするものです。いわく「神服部、按ズルニ神取村是レナルベシ。『日本紀』ニ、神護景雲三年、神服部ヲ天下請社ニ奉ルト。神田ヲ寄セラルルナリ」と。しかし原典(これも『日本紀』でなく『続日本紀』である)によりますと、称徳天皇の神護景雲三年二月十六日の詔に「神服ヲ天下ノ請社ニ奉ル、社毎ニ男神衣一具、女神衣一具ナリ」とあるだけで、神田を寄せたということはまったく見えません。察するに、神取が神服部と音が似ているので『甲斐国志』の編者が早合点のままを記したものでしょう。
 第二説は『甲斐国志』神社部の説で、神取は村の氏神・香取明神の香取にちなむとするものです。下総の一宮香取明神は小笠原牧の守護神として、牧の一隅、塩川段丘上に勧請され、付近は香取郷と呼ばれました。この神社は後に白山神社となりますが、祭神には香取明神がいます。香取郷が中世のころ、座取郷と書かれ、加島県とも呼ばれた資料が幸いに残っています。
 中道町の真言宗七覚山円楽寺所蔵の大般若経の一冊に「上座取折損寺常住、貞和二年十月十一日」の奥書きが見えます。上座取は上神取で、南北朝時代まで香取郷の上座取折損寺什物だった大般若経が、後年、円楽寺に移ったものです。
 次に山梨市矢坪の永昌院にある県文化財の梵鐘は次の銘のあることで知られています。「甲州香取郷、山は集雲と名づけ、寺は大林と号す。永和丁巳三月下訴」。丁巳は水和三年(一三七七)で、前の貞和二年より三十ツ年後に当たります。当時集雲山といった大林寺は今は神竜山と山号をかえています。大林寺の鐘は、のち、応永二十七年(一四二〇)に甲府の東光寺に移り、さらに武田信昌のとき、山梨市矢坪の永昌院に移りました。
また塩出向岳寺開山の抜隊禅師語録には、香取郷を加取の県と記しているのも興味深く思われます。これによって、南北朝には、まだカトリ郷(県)と呼んだことがわかります。
 以上の資料から考えて、神取は、初め香取といったのが転じたものと考えてよいでしょう。
 

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 小説や映画、テレビ、歌舞伎と江戸幕府の悪役として定着、みんなで弄くりまわして架空の人物を作り上げる。現在山梨県における山本間助協奏曲と類似している。市川文書に振りまわされて、虚像を真実にしようとする行為は公的歴史家の進む道ではない。
 甲府城を武田信玄の居城のように扱うイベントも問題であるが、この城と吉保公の関係など知る人も少ない。
 そうした中での武川町柳沢集落の取り組みは傑出している。歴史とは史実の積み重ねである。他意をもって展開すると、別の歴史を創りあげてしまう。

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