新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

山梨県歴史研究室

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信玄の玉言の事   松屋叢話(小山田與清)

 武田信玄大夫晴信の金言に、人は大小によらず、七八歳より十二三歳までに、大名ならば、能き大将の行儀作法を、語りきかせて、育てるがよく。また小身ならば、大剛のものが、武勇の働き、其外忠心の善き業作を語りきかせて育つべし。総じて人の心は、十二三歳の時聞入て本附たることが、一生の間失ずして、谷水が川水になり、川水が海の水になるごとく、人の智慧も、若輩のとき聞たることが、次第に廣大になる計也。十四五歳より後は、婬欲をさへたしなめば、人になるもの也とぞ。

安田遠江守義定後裔   松屋叢話(小山田與清)

 余が實父は武蔵国多摩郡小山田の里人にて、田中忠右衛門源本孝といふ。安田遠江守義定の子、田中越後守義資(よしすけ)の後にて、世々越後国にすめりしが、永世元年に、大炊介義綱はじめて武蔵国にぞうつりすみける。義綱より弾正義昌、和泉義純、宗右衛門某。喜四郎政喜、佐次右衛門政カツまで、六代歴て本孝にいたれり。本孝字は笠父。號をば添水園とぞいひける。うの庵に名づくる説は橘千陰が書たり。詞はわすれたり。 歌は、
  小山田の山田のそぼかくしつゝ
 秋てふ秋にたちさかえなん
 本孝和漢の書にわたりて、詩歌俳諧に心ぞふかめたる。云々

山梨県歴史講座 『甲陽軍艦』・川中島合戦の真偽 
《江戸 卯花園漫録筆(石上宜續 文政6年・1823序)一部加筆》
 
 甲陽軍鑑を高坂弾正書たると、世に伝ふる事久し。勝頼に仕へし反町大膳武功の入にて、甲州滅びて後、引籠り隠れ居て書たる物には、「香坂」としるせり。姓も違い、偽妄多き書なりといえども、軍国の事情を能く書たる故、その虚妄を人疑はず。控弦の家事読むべき物と、古人も言いしなり。しかれどもその事実を按じ、その真偽を考へずば、大に惑はれなん事は必然たり。
 川中島九月十日に合戦の事、記せしに依り是を論ずる内、信玄の敗北たる事疑ふべからす。卯の刻に初りたるは越後の方の勝ち、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を踏みたる方をもって勝ちとする事を、『甲陽軍鑑』に論ず、明白なり。然ればその日の戦、信玄芝居を踏へられしとは云べからず。既に山本勘助がその軍を豫め云たりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陳西條山へさし向け、合戦を始めなば、越後の軍勝つとも負るとも、川を越え退かん所を、旗本組二陣を以って、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思う勝利を得たりとも、越後へ引返すは極まりたる事なり。是主戦の敵に勝たればとて、宜しくその地に在るべきに非ざるを以ってなり。是を以っていえば、信玄芝居を踏たればとて、勝とは云うべからす。これひとつ。
 また信玄芝居を踏みえたりとも云い難きは、廿糟近江守、犀川を渉りて三日止りたるを、甲斐より押し寄て軍する事能はざりき。これ越後の軍芝居を踏みへたるに非らずや。これ二つ。
 むかし老人の物語に云伝えし事あり。信玄、義信将□に換わらして、信玄は広瀬の方へ引退く、敗軍と云いながら、義信捨殺すべき勢いなりし故、義信深く恨めるを以って終わりに不和に及びて殺されしに至れるとなり。信玄その場踏むこと能はずして、逃げたるを以って、芝居を踏みえたると云うべきや。これ三つ
謙信もとより甘糟を以って、川を渡る後殿と定められしが、三日止まりたるを以って見れば、『甲陽軍艦』に甘糟が兵散乱せしと記せるも、虚妄なる事は論を待たず。廿糟三日芝居を踏みえたるに、謙信何事に狼狽して、主從二人高梨山に還りて走るべきや、謙信すでにその前夜軍評定ありしに、謀しごとくなる旨、『甲陽軍鑑』記せし所明らかなり。初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦いは、父の弔い合戦なり。信濃に師を出すは村上義精に頼れて、その求めに応じて是を救ふなり。相模の軍も上杉憲政の来るを容て、巳む事を得ざるなり。故に其詞にも、強いて勝敗を見るに非らず。当たる所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大将の愼むべき事にせり。ここを以って深く頼みたるには始終約をたがえず、またその兵を用るに信玄の及ぶべきに非ず。山の根の城を攻落せしに。信玄・氏康両旗にて後援する事能はす。遥々と敵の中を旅行して京郡に赴きたるも、勝れたる事ならすや。信玄は譲信が小田原へ攻入たる跡に、討ちてなしたるはなし易きに非ずや。
 『甲陽軍鑑』に、長沼に城を築かれし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を興へ、信州戸隠にて密供を修す。ここに北越の輝虎世に識臣を企つと、〔割註〕此訳切れて見えずと訓せり。」永禄十一年、謙信戸隠山にて、謙信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑い、弓箭とる身の恥なり。末代の寶物にせよと、神職に云われし由語り伝わる。今その書紀州高野山にありと云う。事詳に書記せる物あり、實は謙信を恐るゝ事、虎のごとしとも云うべきにや。村上義清信州に再帰り入りし事、『甲陽軍鑑』に載せずといえども、永禄年中信州の中四郡謙信に属し「義清を信州へ入られし事を記する物あり。『甲陽軍鑑』に長坂調閑、跡部大炊助二人を、姦曲の臣として、勝頼寵せられし事を深く慣れり。實にさる事なれども、二人権を取ること勝頼に始れるに非らず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威権ありき。信玄の時北條の兵に跡都敗れ走りしを、皆寵愛を惜みし由を、『甲陽軍鑑』に載たるをもって知るべきなり。
 また云伝へし説に、『甲陽軍鑑』を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿樂彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅びて後、大久保忠隣の所にありて、東照官の御事を書加えて、一書となした名となり。またある人の表しは、川中島合職の事を前夜に論じて、謙信強敵たる対々の人数にてさえ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存は埋りなりと云う事を、『甲陽軍鑑』に載たれば、勝は謙信にある事、分明なりと論ぜし人もありき。また同じ書に載たる持氏生害、両上杉ほこり恣にて、武州川越にて北條に負たるは、天の罰なりと云えり、持氏と両上杉と時はかはれり。持氏の滅せしは永禄十一年にて、氏康とは百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北條早雲は延徳二年(1490)に相模に打入たり。其頃上杉顯定は越後にあり。顯定は越後信濃の境長森原には、高梨に討たれぬ。早雲さへ両上杉と如斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、『甲陽軍鑑』に記せし事誤りなり。
 天正六年七月十五佃、管領朝定と北條氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此合職を両上杉と氏康、夜軍となして記せるにや。天正十五年四月二十日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて氏康と含戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を『甲陽軍鑑』に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管額を両上杉となすなり。持氏四男成氏、成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長勇晴氏なりといへり。『甲陽軍鑑』に載る功名の事、その虚妄多し。中に就いて釆配を手にかけてありし敵を討とりて首を得し事、いくばくと云事を知らす。すべて甲州の敵せし十八人がた、釆配を手にかけしと見える。寔(まこと)に笑うべきの書の記しざまなり。そのあまり虚妄勝ちて計るべからす。然れどもその時に居て、戦国の勢を能知り、且士の事情に達せし事の書たる書なるゆえ、弓箭とる者の翫ぶべき書にて、虚妄をもって棄てべきにはあらず。また上杉義春入庵、京郡に閑居してありしが、徒然のあまり『甲陽軍鑑』を讃せて聞かれしが、勢實謬れる著のみなり。高坂が死後の書を多く書載せ、川越の軍も年月大いに違い、人の姓名も以っての外謀れる事多く、また、なき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、如斯誤れるなれば、この書更に信ずるに足らずとて、復讀ずる事なかりしと云えり。
 今をもつて是を見るに、『甲陽軍鑑』の過半は贋物なり。
 
 また按ずるに、今世に専ら行はるゝ書に、『川中島島五戦記』と云へる書あり。この書は川中島の戦い五度なりと記せり、然れどもその中に擬ふべき事なきにあらず。これまた正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ケ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、開束の諾将人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁れ得て越後へ帰りしと、「甲陽軍艦」に記したるも心得られず。関東の諸将なびき従いずば、いかでかその年京に上る事あるべき。これ年の滞時勢の顯然たる事にして、『甲陽軍鑑』の虚妄論を待たず。御上の説『常山紀談』に見えたり。
 
○荻生徂徠の『南留別志』に、高坂檀上と云う者、高野に書状あり。香坂弾正左衛門虎綱といへり。されば「甲陽軍艦」他人の偽作なること、いよいよ明らかなり。

勝頼夫人哀愁の願文(泉昌彦氏著)
うやまって申す。きがんの事
南無きみょう山りょうらい八まん大ぼさつこの国の本主として竹田の太郎(源義塚)とこう(申)せしよりこのかた、代々守りたもう。ここふり世のけき新(古来よりはじめての逆臣)いできたって因家を悩ます。よって勝頼運を天とうにまかせ、命をかろんじて敵陣にむこう。しかりといえども始祖をつりあえざるあいだそのこころまちまちなり。なんぞ木曾義政そくばく(束縛)の神慮を空しくし、あわれ身の父母をすてて(人質)敵兵をおこす。これみずから母を害するなり。なかんづく勝頼累代の十恩のともがらけき新と心をひとつにして忽ちくつがえさんとする。万民の脳乱、伝法のさまたげならずや、そもそも勝頼いかでか悪新(心)たからんや思いの炎を天に上がり、神威なお深からん。我もここにして相共にかなしむ。涙又らんかんたり。神慮天明まことあらば五逆(悪)十逆たるたぐい諸天かりそめにも加護あらじ。この時にいたって神官わたくしなくかつかうきもにめいす、かなしきかな志ん里よまことあらは、うんめい此ときにいたるとも、ねかわくはれいしんちからあわせて、かつ事をかつ頼一しんにつけしめたまい、あたをよもに志りそけん、ひやうらんかへむてめいをひらき、志ゆめう志やうおん志そんはんしやうの事、ミきの大くわん、ちやうしゆならは、かつ頼我ともに、志やたんミかきたて、くわいろうこん里うの事、うやまつて申
     天正十祢ん二月十九日       ミなもとのかつ頼うち

うやまつて申 きくわんの事
南無きキやうちやうらい、八まん大ほさつ、此国のほん志ゆとして、竹たの大郎とかうせしより此かた、代々まほり給ふ、ここにふりよのけき新出きたつて、国かをなやます、よつてかつ頼うんを天とうにまかせ、命をかろんして、てきちんにむかふ、志かりといへとも志そつりをさえるあいた、そのこころまちまちたり、なんそきそよし政そくはくの神りよをむなしくし、あわれ身のふほをすててきへいをおこす、これミつからははをかいする也、なかんつくかつ頼るいたい十おんのともから、けき新と心をひとつにして、たちまちにくつかへさんとする、はんミんのなうらん佛はうのさまたけならすや、そもそもかつよりいかてかあく新なからんや、思ひのほのを天にあかり、志んいなをふかからん、我もここにしてあひともにかなしむ。涙又らんかんたり、志んりょ天めいまことあらは、五きやく十きやくたるたくひ、志よ天かりそめにもかこあらし。此時にいたつて神かんわたくしなく、かつかうきもにめいす、かなしきかな志ん里よまことあらは、うんめい此ときにいたるとも、ねかわくはれいしんちからあわせて、かつ事をかつ頼一しんにつけしめたまい、あたをよもに志りそけん、ひやうらんかへむてめいをひらき、志ゆめう志やうおん志そんはんしやうの事、
ミきの大くわん、ちやうしゆならは、かつ頼我ともに、志やたんミかきたて、くわいろうこん里うの事、うやまつて申
     天正十祢ん二月十九日       ミなもとのかつ頼うち

おどりヶ原の伝説(泉昌彦氏著)
(国道二十号の伝説)
韮崎市(中央線)駒井上野に、「おどりヶ原」という遺蹟がある。木曾義昌(信玄の娘が妻)の反逆によって、わずかに支えていた土台すらくずれ、もはや衰亡は目にみえていた。勝頼ののぞみは上杉景勝の援軍であった。景勝の夫
人は勝頼の妹甲斐御前だ。景勝文書は勝頼が窮地におちいったときに勝頼書信に対して発したものだ。(信濃史料叢
書巻十五)「木曾殿逆心についてその国正体なきよしに候、千坂対馬守、斉藤下野守をはじめ十旗差しこし候。かの者と相談堅固の仕置肝要に候。悪逆無道の族色々と沙汰せしむるの儀無念次第なり。即お談合あり相静めらるべきと専に候云々……」と、申しわけだけで尻をあげない。
各諸将から勝頼は多くの人質をとっていた。新府城にもこの「人質くるわ」がつくられてあった。そのなかで上野豊後守にあづけておいた義昌の人質は義昌の母、男子千太郎、その妹の三人だった。勝頼は義昌のうらぎりに対するいきどおりから、駒井につくや、義昌の人質を原っぱにひき出し、「うらぎり者を産んだる女め」とまずその母の首を落とし、次々に幼ない少年少女を斬り殺してしまった。いくら数十旗となってしまっても、一国の大将が手をくだしたとは、勝頼はすぐに「カッ」とするわがままのなところがあったという伝説を示している。
このくやしさあまって勝頼がおどり上って刀を振りおろした「オドリ原」は、のち三人をあわれんだ小幡勘兵衛景憲の手で碑が建てられた。光明寺に三人の墓があるが、ウバ(姥)石の寺と墓を盗みあったので二つにわれている。なお墓に金の大黒と紫のスズリ(硯)が埋めてあると、ひところ掘った者があったが、まだナゾである。史蹟案内には土屋惣蔵が人質を介しゃくしたとある。


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