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山梨県歴史研究室

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山梨県歴史講座 『甲陽軍艦』・川中島合戦の真偽 
《江戸 卯花園漫録筆(石上宜續 文政6年・1823序)一部加筆》

 甲陽軍鑑を高坂弾正書たると、世に伝ふる事久し。勝頼に仕へし反町大膳武功の入にて、甲州滅びて後、引籠り隠れ居て書たる物には、「香坂」としるせり。姓も違い、偽妄多き書なりといえども、軍国の事情を能く書たる故、その虚妄を人疑はず。控弦の家事読むべき物と、古人も言いしなり。しかれどもその事実を按じ、その真偽を考へずば、大に惑はれなん事は必然たり。
 川中島九月十日に合戦の事、記せしに依り是を論ずる内、信玄の敗北たる事疑ふべからす。卯の刻に初りたるは越後の方の勝ち、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を踏みたる方をもって勝ちとする事を、『甲陽軍鑑』に論ず、明白なり。然ればその日の戦、信玄芝居を踏へられしとは云べからず。既に山本勘助がその軍を豫め云たりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陳西條山へさし向け、合戦を始めなば、越後の軍勝つとも負るとも、川を越え退かん所を、旗本組二陣を以って、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思う勝利を得たりとも、越後へ引返すは極まりたる事なり。是主戦の敵に勝たればとて、宜しくその地に在るべきに非ざるを以ってなり。是を以っていえば、信玄芝居を踏たればとて、勝とは云うべからす。これひとつ。
 また信玄芝居を踏みえたりとも云い難きは、廿糟近江守、犀川を渉りて三日止りたるを、甲斐より押し寄て軍する事能はざりき。これ越後の軍芝居を踏みへたるに非らずや。これ二つ。
 むかし老人の物語に云伝えし事あり。信玄、義信将□に換わらして、信玄は広瀬の方へ引退く、敗軍と云いながら、義信捨殺すべき勢いなりし故、義信深く恨めるを以って終わりに不和に及びて殺されしに至れるとなり。信玄その場踏むこと能はずして、逃げたるを以って、芝居を踏みえたると云うべきや。これ三つ
謙信もとより甘糟を以って、川を渡る後殿と定められしが、三日止まりたるを以って見れば、『甲陽軍艦』に甘糟が兵散乱せしと記せるも、虚妄なる事は論を待たず。廿糟三日芝居を踏みえたるに、謙信何事に狼狽して、主從二人高梨山に還りて走るべきや、謙信すでにその前夜軍評定ありしに、謀しごとくなる旨、『甲陽軍鑑』記せし所明らかなり。初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦いは、父の弔い合戦なり。信濃に師を出すは村上義精に頼れて、その求めに応じて是を救ふなり。相模の軍も上杉憲政の来るを容て、巳む事を得ざるなり。故に其詞にも、強いて勝敗を見るに非らず。当たる所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大将の愼むべき事にせり。ここを以って深く頼みたるには始終約をたがえず、またその兵を用るに信玄の及ぶべきに非ず。山の根の城を攻落せしに。信玄・氏康両旗にて後援する事能はす。遥々と敵の中を旅行して京郡に赴きたるも、勝れたる事ならすや。信玄は譲信が小田原へ攻入たる跡に、討ちてなしたるはなし易きに非ずや。
 『甲陽軍鑑』に、長沼に城を築かれし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を興へ、信州戸隠にて密供を修す。ここに北越の輝虎世に識臣を企つと、〔割註〕此訳切れて見えずと訓せり。」永禄十一年、謙信戸隠山にて、謙信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑い、弓箭とる身の恥なり。末代の寶物にせよと、神職に云われし由語り伝わる。今その書紀州高野山にありと云う。事詳に書記せる物あり、實は謙信を恐るゝ事、虎のごとしとも云うべきにや。村上義清信州に再帰り入りし事、『甲陽軍鑑』に載せずといえども、永禄年中信州の中四郡謙信に属し「義清を信州へ入られし事を記する物あり。『甲陽軍鑑』に長坂調閑、跡部大炊助二人を、姦曲の臣として、勝頼寵せられし事を深く慣れり。實にさる事なれども、二人権を取ること勝頼に始れるに非らず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威権ありき。信玄の時北條の兵に跡都敗れ走りしを、皆寵愛を惜みし由を、『甲陽軍鑑』に載たるをもって知るべきなり。
 また云伝へし説に、『甲陽軍鑑』を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿樂彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅びて後、大久保忠隣の所にありて、東照官の御事を書加えて、一書となした名となり。またある人の表しは、川中島合職の事を前夜に論じて、謙信強敵たる対々の人数にてさえ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存は埋りなりと云う事を、『甲陽軍鑑』に載たれば、勝は謙信にある事、分明なりと論ぜし人もありき。また同じ書に載たる持氏生害、両上杉ほこり恣にて、武州川越にて北條に負たるは、天の罰なりと云えり、持氏と両上杉と時はかはれり。持氏の滅せしは永禄十一年にて、氏康とは百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北條早雲は延徳二年(1490)に相模に打入たり。其頃上杉顯定は越後にあり。顯定は越後信濃の境長森原には、高梨に討たれぬ。早雲さへ両上杉と如斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、『甲陽軍鑑』に記せし事誤りなり。
 天正六年七月十五佃、管領朝定と北條氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此合職を両上杉と氏康、夜軍となして記せるにや。天正十五年四月二十日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて氏康と含戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を『甲陽軍鑑』に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管額を両上杉となすなり。持氏四男成氏、成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長勇晴氏なりといへり。『甲陽軍鑑』に載る功名の事、その虚妄多し。中に就いて釆配を手にかけてありし敵を討とりて首を得し事、いくばくと云事を知らす。すべて甲州の敵せし十八人がた、釆配を手にかけしと見える。寔(まこと)に笑うべきの書の記しざまなり。そのあまり虚妄勝ちて計るべからす。然れどもその時に居て、戦国の勢を能知り、且士の事情に達せし事の書たる書なるゆえ、弓箭とる者の翫ぶべき書にて、虚妄をもって棄てべきにはあらず。また上杉義春入庵、京郡に閑居してありしが、徒然のあまり『甲陽軍鑑』を讃せて聞かれしが、勢實謬れる著のみなり。高坂が死後の書を多く書載せ、川越の軍も年月大いに違い、人の姓名も以っての外謀れる事多く、また、なき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、如斯誤れるなれば、この書更に信ずるに足らずとて、復讀ずる事なかりしと云えり。
今をもつて是を見るに、『甲陽軍鑑』の過半は贋物なり。

また按ずるに、今世に専ら行はるゝ書に、『川中島島五戦記』と云へる書あり。この書は川中島の戦い五度なりと記せり、然れどもその中に擬ふべき事なきにあらず。これまた正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ケ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、開束の諾将人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁れ得て越後へ帰りしと、「甲陽軍艦」に記したるも心得られず。関東の諸将なびき従いずば、いかでかその年京に上る事あるべき。これ年の滞時勢の顯然たる事にして、『甲陽軍鑑』の虚妄論を待たず。御上の説『常山紀談』に見えたり。

○荻生徂徠の『南留別志』に、高坂檀上と云う者、高野に書状あり。香坂弾正左衛門虎綱といへり。されば「甲陽軍艦」他人の偽作なること、いよいよ明らかなり。

『松平家忠日記』(橋本昌広氏著)
富士山から方広寺大仏殿の材木引普請
 
天正17年7月〜
七月九日、家忠は富士山から大仏の材木を引く普請をするために、ニ八日に駿府に来るように吉田(富士吉田)の酒井家次から命じられた。大仏は秀吉が方広寺(京都市東山区)に建設中のもので、この材木は大仏殿の柱として使用されるため、巨木の切り出しが要求されていた。
『多聞院日記』によれば、大仏の建設は既に天正十六年に開始され、五月には大仏を据える石壇が積まれている。秀吉は大仏殿をはじめとする各種の建物の資材として、秋田杉や屋久杉など全国から名木を進上させている。
秀吉は日本に存在するすべての物を所有し、それを自己のために奉仕させることができるという理念を持っていたと思われ、この時には家康に富土山の材木を伐採して、方広寺まで運搬するように命じたのである。
家忠は一六日に「夫丸・ぶまる」(人夫)を出発させているが、この人夫は領内の百姓が徴発されたものと思われる。家忠は一九日に駿府に到着して城に出仕したところ、家康から人夫は大宮(静岡県富士宮市)まで先発させ、家忠白身は能を見物するように言われた。能は二一日に井伊直政の所で行われる予定だったが、雨のために延期となり、二六日に行われ、家忠も見物している。能も茶の湯同様に家康家臣の問で流行していたものである。
二一日には榊原康政が真田昌幸の沼田城を北条氏に渡す使者として出発している。これは従来からの係争地沼田領の三分の二を北条氏に渡し、残りの三分の一を真田氏に安堵するという秀吉の裁定を実行するためのものであった。
日記には富田知信と津田信勝が検使として康政に同道し、沼田城を北条側が受け取った後に氏直が上洛するとも書かれているので、家忠には秀吉と北条の交渉が伝わっていたことがわかる。
さて、家忠は
八月二日に駿府を出発して興津に到着し、本多忠勝から振舞を受けた。
翌三日条には「かしまの舟てこし候」とあり、鹿島(愛知県蒲郡市)の舟と舟手(乗組員)が材木の運搬のために徴発され、興津(静岡県清水市)に到着していた。鹿島は深溝から形原へ行く途中の三河湾に面する所にあり、形原松平氏の所領と思われるが、家忠は鹿島の村人と以前から顔見知りであったので、彼らが来たことに気づいたのだろう。家忠は鹿島の舟までが徴発されていることを知り、材木引が徳川氏の総力を挙げて行われる作業であることを実感したことだろう。
 
富士山での木引と富士川での木流
八月三日に家忠は上出(静岡県富士宮市)の小屋場まで行き、いよいよ材木引の作業に入った。
すでに一昨日から道作りの作業が開始され、作業小屋も完成していた。この作業は家忠ら家臣を複数の組に編成して行われていて、家忠は三日には井伊直政の組に入ったが、翌日には酒井家次の組に変更になった。
五日には木引が開始され、長さ二五尋の大木を引いたが、全く進まなかった。六日は雨が降ったので道作りだけを行い、七日に再開して三〇間だけ引くことができた。八日には二二〇人で引いて一六〇間進み、九日には八○間、一〇日には二〇〇間進んだが、九日以降は雨が降り続き、木引が中止になることも多く、作業は遅々として進まなかった。
一七日には酒井家次と平岩親吉の両組で別の大木を引くように命じられ、家忠も大木引に従事したが、この大木に「くち目」(朽ちた部分)があったために、元の大木を引くことになった。
こうした大木を引くには大量の労働者が必要であり、各地から多くの百姓が徴発されたことであろう。
八月二五日条に「着到付候、百五人木引候」、
八月二九日条に「着到付候、百二十七人」
とあり、作業の際には着到が付けられて、従事している人数が把握されていた。木引に携わる奉行が作業開始の際に人夫を整列させて、人数を数えて紙に記録したのだろう。こうした作業に従事する人夫には食料が与えられるのが一般的なので、この場合も着到に基づいて米や酒が支給されたはずである。人夫たちは山盛りの飯を食べて、木引に従事したことであろう。
八月二九日、平岩親吉組が担当している材木を酒井家次組も加わって、富士川岸の沼久保(静岡県富士宮市)まで引くことになった。早速、家次組に入っている家忠も加わって木引が開始され、
九月四日には沼久保まで引くことができ、富士川へ材木を置いた。しかし、ここから河口の吉原まで材木を下すのも大変な苦労であった。
九月五日と六日にはそれぞれ二〇町ずつ下ったが、六日には鵜殿氏の人夫が負傷するという事故も起きた。
また、七日には材木が洲に引っ掛かって流れなくなったが、翌日の雨で増水したため、ようやく洲を脱するということもあった。
九月九日には川が浅くなり、木を下すことが困難となり、仕方なく陸地を引くことになった。富士川は急流として有名であり、しかも下流には砂利が堆積し、大木を流すには困難が多かった。こうした苦労の末、
二一日に材木は吉原に到着して、家忠も安堵したことであろう。
だが、これも束の間で家忠には門木を引くという別の仕事が割り当てられ、一七日から門木引を開始した。門木とは大仏殿の門の木と思われる。この最中に家忠は振舞を受けたり、他の家臣を振舞っているが、これは普請や城の在番の時と同様である。
日記の一〇月の部分には三日を除いて、判で押したように「木引候」の記述があり、連日木引が行われていた。 
だが、二四日には当年中に必要な木だけを引いて、普請衆は引き上げてよいという命令が入った。
十一月に入っても木引は引き続き行われたが七日に終了し、家忠は駿府を経て十日に深溝へ帰った。
 
方広寺サイト
方広寺大仏殿
 

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