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山梨県歴史研究室

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武田家最大の屈辱の一戦「長篠の戦い」前日 武田勝頼の手紙

天正三年(1575)五月二十日(史上名高い長篠・設楽原合戦の前日)。
武田勝頼、家臣宛書状(医王寺山の本陣)
当陣の様子心許なきの旨、態(わざ)と飛脚祝着に候。よろず方本意に属し候の間、安堵たるべく候。然らば長篠の地取詰候のところ、信長・家康後詰として出張(でばり)候といえども、さし指たる儀もなく対陣に及び候。敵手立ての術を失い、一段逼迫(ひっぱく)の体に候の条、無二に彼の陣へ乗り懸り、信長・家康両敵共、この度本意を達すべき儀、案の内に候。
なお其の城の用心別して御念を入れらるべき儀肝要たるべく候。
恐々謹言、追って両種到来喜悦に候
   勝頼 (花押)
(天正三年)五月廿目
三浦左馬助殿
 解説
当陣長篠の様子について心配され、わざわざ飛脚をさし遣わされたこと、喜ばしく思う。
万事につげ思い通りに運んでいるから安心してもらいたい。しからば、家康の属城長篠城を包囲したところ、信長と家康が救援のための後詰として背後から攻撃しようとやってきたが、これというほどの事もなく対陣している。
しかし敵は手段に窮してちぢこまっている有様であるから、一気に彼の陣へ突撃し、信長・家康の両敵ともに撃破を遂げることもたやすかろう。なおその方の守っている城の用心に念を入れるごとが肝要である。二種類の見舞の品を届けてくれたことを喜悦に思う。

勝頼がこの手紙を書いた前日の十九日、織田・徳川連合軍三万八千余の勢揃いの報に際して、武田軍の本陣では勝頼を中心に重臣たちが、決戦か退却かで激論をかわし、意見は対立した。
参考『当代記』
○ 馬場信房・内藤昌豊・穴山信君らの信玄以来の重臣たちは、数倍の敵に戦いを挑むことの無諜を説き、退却を圭張した。
○跡部勝資や長坂長閑斎は反対し、強硬な決戦論を唱えた。
○評議は決戦と定められた。
○書状の宛名の三浦左馬助という人物は不明、武田方の属城の守備家臣か。


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