新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

武田三代研究室

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『甲陽軍鑑』起巻第一

一、

この書物は、仮名づかいすべてにわたってつたなくて、心ある人が読まれたたら得るところも少なく、内心お笑いになることであろう。それというのも、私(高坂弾正)はもともと百姓だったが、はからずも十六歳の春に信玄公にとりたてられて、地下(平民)から武士となり、春日源五郎として奉公することになった。その上、何かにつけ気をゆるせぬ勤めなので、学問するひまもなくて過ごしたから、私の浅学のほどは以上の通りである。だが各々のご判断で仮名づかいも含めて適宜に取捨遺選択なさってお読みになり、当主の武田勝頼公から、その長子信勝公までの上下諸武士の作法になさるべきことを記した。

一、

長坂・長閑老、跡部大炊助殿におかれてはお忘れでありますまい。

信玄公の・御世は訴訟事はもとより、万事にわたり吟味することが多くあったので、それらを皆記すことは際限がなかった。

それで各事、各事項について不審めいた疑問に思われる、あれこれ取沙汰されたなかから、わが信玄公よりはじめ、そのほか家老衆の批判に耐えたおよそ納得できる事につき、すこし書き記した。

一.

この本が仮名書きなのはどんなものかというが、あえて漢字に直すのは必要ない。かえって漢字のところは、仮名に直してけっこうである。けれども元本として一冊漢字のままのものを書いておき、そのほかに仮名の本を一冊作って重ねて置かれよ。

その漢文とは、信玄公五十七ケ条の御法度書のような文のことである。さて仮名の本のよいところは、世間で学問があって書を読む人は百人のうちせいぜい一人二人だから、無学な人でも仮名ならば読める。雨の日のつれづれにも、無学の老若、誰もが読書なさるには仮名がよいと思ってのことである。

一、

武士ならば誰かれといわず学問に通じていることが肝要だ。いかなる本でも一冊をよみこなし、二冊三冊と読んで、しっかり理解吟味できれば、多く学問をしたのに匹敵するはずでそれでよい。とくに和漢連句の方面にまで手をのばされることは、よけいなことでつまらない。とはいえ地位高い一国の旧持お大名に近い大将ならば、学問も深め連句などもなされよ。文武二道に精通したとして、在世中はもとより後々まで人から尊敬されることになりましょう。

けれども国持ち大将といえども、書物を幾冊となく読みこなすにつれて、それよりも武道に関する経験がすくないと、すこし鈍い国持ち大将だとうわさされるものである。そこのところをよく理解してかからねばならない。

一、

学問をすることは国持ち大名でさえどんなものかと思うのに、まして普通の武士の場合、奉公を大切にしながら、しかも学問をしっかり身につけようということになると、つい奉公がおろそかになって家職を失い、不忠節の侍になりがちな点はよく心すべきことである。何事もない時の座敷の上の奉公をしっかり勤めることが、敵に向う時に通ずる忠節の道である。

とにかく家職を失うことは、不都合なことだ。家職とは武士と生まれたからには本公をおいてない。

奉公にも二つある。一つは戦乱のない時の座敷の上の勤め、もう一つは戦中の奉公である。

僧侶ならば仏道修行が家職であり、儒者なら儒学に専心するのが家職である。町人は商いに、百姓は耕作に専心する事が家職である。

以上のほかの人力、諸芸能にたずさわる人もそれぞれの道において自分の修行を心がけることは、当然のことだ。家職を途中でやめて他の事をし、それに夢中になるのはよくないことだ。非義だ。非義というのは僧侶が学問を怠って武道面を心がけたり、武上が奉公の武道をおろそかにして学間を第一に思ったり、あるいは乱舞(能の舞)を好むようになるのは、皆家職の道を知らないものだ。

もっとも侍も百人のうち一人二人学問のある人物がいるというのも、それはそれでよいことだ。というのは、国持ち大名ともなれば学問のある僧を扶持、かかえることもできるけれど、二、三百騎の侍大将は一隊を三勢に配置してうまくやりくりは出来ても、祖先の威光もなく知識のある僧をつれていることも稀なのであるから、そこで家中の侍に物知りの者がいるのは、たとえば鞍を二つ持つ馬のように便利なわけで、百人のうちに一人二人物知りの侍がいるというのはよいというのも、以上のような道理からだ。

一、

俸禄のすくない人で知識があり、詩歌の方面にまで造詣の深い武士は、それをあまり表へ出してはいけない。というのは、そういう武人はすばらしいと人はほめるにはちがいないが、なんというか、足利学校の学僧の還俗に似て、たいてい見苦しいものだ。京都の大惚寺や妙心寺の禅僧は、物をよく知っていても知らないふりをする。不立文字.以心伝心ということで坐禅にうちこみ、励む。そういう坊主は、出家したといっても武将のように厳しく立派にみえる。

一、

武十は寝てもさめても、あるいは食事の時もエヘの忠節忠功を考えるべきだ。

一、敵方であっても国持ち大名ほどの場合は、足軽大将とか何とか呼ばずに、ただ大将とだけ呼ぶものである。敵の大将を口ぎたなくいうのは、弱将の下に属する未熟な兵たちのする作法だ。だいたい一国の大将ならば、敵味方にかかわりなく、話す時でも書面でも敬意を表すのが礼というものだ。理由は、口木企体でも一国の将といえるのは百人にたらず、六十六人にすぎないからだ。

そういうわけで一国の将で古来から続いている大将には家柄を尊び、敬うべきである。同様に新興の国持ち大将には、その知恵や強運を考えて、卑下するのは非礼でよくない。敵をそしるのは自分の国が逆に弱いからである。

戦いということになれば、もちろん強い方が勝つ。十中八九そうだけれど、しかし劣勢の軍がまれに勝つという運がついてまわることがある。そういう時に弱い侍が強い武士に勝つと、えてして強い敵の大将を口ぎたなくそしるものだ。

たとえば町人が侍と切りあって勝つと、手柄とばかり吹聴して相手をばかにする。というのも、常に町人は武土と争ってはなるまいと思っていたところ、たまたま町人が勝ったりしたので、武土もたいしたことはないとそしることになるわけだ。

また武士が町人と戦い、手間取って勝ったりすると、武十より町人をほめたりするのも、本来弱いはずと思っていた町人が不思議にも苫戦したからだ。

それと同じように大合戦があったりした時、敵将を口ぎたなく言って、あらぬことまででっちあげておとしめるのは、勝てそうにない敵にたまたま運よく勝ったにすぎないとみすかされて、相手の考えに乗ずることになりはしないか。

勝頼公の家中では敵をあまり批難してはならない。信玄公の時代にはそういう御法度はなかったが、諸侍は自然この道理にてらして、敵方について、作り事をいっておとしめたりはしなかった。

昔も源氏平家の戦では、平家、が源氏を口汚くののしった。平治の乱での夜の内尖をめぐる戦いでは、源義朝の軍を、平重盛の車が破って義朝を罵倒した。その後源氏がまた平家に勝つわけであるが、源氏方から、清盛の子の重盛に対して小松殿、清盛を大臣殿と、呼んで罵倒しなかった。それは、平敦盛が一ノ谷で討たれたおり、義経がそれをみて人の死の悲しさに落涙した儀礼にならったからだ。だから源氏の侍は誰も平家への悪口を言わなかった。こういう善悪の態度を理解なされる事。

一、

御一家衆・家老衆・出頭衆といった、そうじて大身衆の高位高禄の式上をもてなす宴会の時は、かならず.毒見をするのが当然である。これは人のためではなく自分のためである。この点を軽視する者は軽薄だと心得るべきだ。このこともよく理解しておかれること。以上九ケ条は本書の発端、前書きである。

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