新!サブやんの気まぐれ調査研究

サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

災害全般

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荒れはてる祖国の山河
(『日本の災害』小出博氏編著昭和29年刊 一部加筆)
毎年6月から10月ごろにかけて、日本には多量の雨が降り、洪水が出て、水害か各所に起る。そして、これはさけられない日本の運命であり、天災であると、あきらめている人々が多い。「のどもとすぎれば、熱さを忘れる」の諺どおり、水害の時だけは大騒ぎをするが、すぐ忘れてしまう。水害に対して、目本人はいわば不感症にかかっている。はたして、これでよいのであろうか。祖国の山河は荒廃を続けているのに。
水害の実態は、まことにつかみがたい。補助金目あての水増し報告があり、また、長く10数年にわたって尾を引くような、農民経済に対する深刻な打撃は無視される場合が多い。とくに注意しなければならないのは、いわゆる人災や政災と自然の災害とが、常にごっちゃにされ、ある時は意識的にすりかえられたりすることである。明治初年から、そういうことは繰り返されている。ところが、人災ないしますますひどくなり、もうかくしおおせないところまで、深刻かつ明瞭なものとなった。これが、遇去数年来の水害の様相である。とくに昭和二十八年度における水害は、北九州において、近畿地方において、人災の正体をいかんなく暴露したといってもよいであろう。そこでます、明治初年からの水害史をふりかえって見ることにしよう。

荒れはてる祖国の山河 昭和災害史の幕開く
室戸台風(昭和9年9月)と満州事変拡大
(『日本の災害』小出博氏編著昭和29年刊 一部加筆)
昭和9年9月の室戸岬台風は、死者3036名、全壊流失家屋4万1千48戸といわれ、日本の各地に深刻な風水害を与えた。そのころはちょうど、あの満州事変が次第に拡大して、日華事変に発展しつつあった。今思えばなにか目に見えない強い力が、目本全体をするする泥沼の中に引きずりこんで、とうとう太平洋戦争という、とてつ
もない不幸な人工災害をまき起してしまったのである。
戦争が経って10年の年月がたった今日でもまた、目本全体は深い泥沼のなかにもがき続けている。
いつになったら、この泥沼からはい上がれるのかわからない。室戸岬台風はこうした目本の運命を告げる警鐘であった。
昭和年代の災害史は、この窒戸岬台風にはじまり、太平洋戦争を境に、それまでには見られなかったさまざまの質的変化が災害の上に現われてきた。その一つは、水害が年々量的にも質的にも大きく深刻になって行くことである。いつになったら大きな水害がおさまるか、ここのところちょっと見当がつかない。昭和10年ごろから、日本は多雨期にはいったという説もあるが、こうした雨の周期説ではたして間題を解決できる希望があるのだろうか。この間の事情を、明治18年以来の水害の推移の上で、なかめて見るごとにしよう。
《註》日本における「雨の周知」については、35年周期説、70年周期説、7年周期説などがある。まちまちである。気象学者の間でも一致した意見があるわけではないが、日本が現在雨の多い周期にあるというのは、通説のようになっている。といって、それが水害の多いことの、いわば口実やいいわけに狂っては困る。

荒れはてる祖国の山河
明治18年から昭和25年までの間に、水害の多い三つの顕著な時期がある。
河川法・砂防法・森林法などが制定(『日本の災害』小出博氏編著昭和29年刊 一部加筆)

第一は明治の20年代から30年代のはじめにかけてで、この時期には全国的に水害が起き、おもな川はたいてい荒らされている。そして、この時期の水害がもとで、治山治水の近代化への法的な措置である河川法・砂防法・森林法などが制定されたのである。
第二は、明治の末期から大正の初期にわたる数年間で、やはり広い範囲に水害が超っており、この水害がきっかけになって、治山治水政策は一段と強化された。そして大正3〜4年ごろから昭和の初期まで、約20年の間はあまり大きな水害はなく、平穏反時期であった。
そこへ昭和9年の室戸岬台風がおそって、大きな水害となり、昭和災害史の幕が切っておとされ、それ以来ほとんど息つく暇もなく、年とともに水害は量と質とを大きく深かめ、ついに昭和28年のあの大水害の年を迎えたのである。この第三の期間は、ほとんど20年にわたるのであるか、比較的水害のなかった年をひろって見ると、わずかに昭和11年、14年、15年、20年、27年の5年だけであるしかしこれらの年でさえ、水害の損失額の上では、昭和9年以前の大水害に相当するのであって、この調子で進んでゆけぱ、災害亡国という不安も現実の問題になりかねない情勢であろう。

つかみにくい水害の実態(『日本の災害』小出博氏編著昭和29年刊 一部加筆)
このように災害のようすを損失額だけで見ることには、いろいろの批判がある。
従って、損失額の数字をそのままうのみにして、明治・大正・昭和の災害をそれぞれ個々別々比較するのは危険である。しかし、全体しての水害の深刻さの傾向は、損失額から十分うかがえるのであって、戦後の水害がとくに大きいことは別の視野からも閉らかである。
明治43三年以来昭和23年までの水害で、洪水の氾濫面積、農地や宅地が流久したり土砂で埋没した面積を見ると(第一表)、毎年平均31万3千町歩が洪水の氾濫をうけ、4万7干町歩が流失埋没の被害をうけている。そして、この被害は、とくに昭和20年の終戦の年から急に大きくなっている。ことに、昭和22年は、洪水の氾濫面積が約100万町歩、流失理没が60余万町歩という、驚くべき数字になっているのである。
ところで、ちょっと注意しておきたいと思うのは、水害の実態を示す統討の数字が非常にまちまちであって、どれを信用してよいのかわからないことである。これは水害の実態調査が十分にできないとか、また災審復旧費や補助金を目的とすることから、どうしても実態が大きく報ぜられがちになるという、主として政治的・社会的な理由からくることであるが、水害の統計的な表示を読むときには、内容を吟味する前に、まずこのことを考えに入れてかからなくてはならない。
そこで参考までに、昭和22年から26年の5ヵ年間の水害の状況と、終戦直後の洪水による被害の比較とを、一般に公表された数字について前頁に示して見た(第二表および第三表)。さらに、水害の内容を吟味して見ると、例えば、畑の流失というのは、土が流され、石ころの川原になってしまうような場合であるから、誰が見ても深刻な水害である。ところが、埋没ということになると、石や砂で埋まった場合と、泥をかぶった場合とで被害のようすはまるでちがうし、また埋めた土砂の深さによってもひどく被害はちがってくる。新しい泥をかぶると、旧畑はかえってよくなる場合が少なくない。また冠水の被害ということになると、水害の評価はさらに一層困難で、冠水した時期・時間などできまる間題である。そして冠水した面積がいくらというだけでは、水害といえない場合が少なからずある(75頁参照)。こういう水害の内容にふれて吟味して見ると、これらの数字をそのまま信じこむわけにはゆかない面がないではない。しかしながら、人的被害や家屋その他構造物の被害状汎にも、戦後はとくに調査不十分で数宇に信頼がおけないことや、政治的な意味の水増しが狂いとはいえないが、これらの被害状況から見ると、絡戦後の水害が深刻であるごとには異論がないと思う。

荒れはてる祖国の山河
昭和28年の水害は深刻(『日本の災害』小出博氏編著昭和29年刊 一部加筆)
明治以来の水害を、表面に出た数字をもとにして、ざっとながめて見ると、こういうことになる。ところが、水害には、表面に出たこのような数字だけを見ていたのでは深刻のでは、どうしても理解できない面がたくさんある。水害の実態を正しく理解するには、そこまで掘りさげて見る必要があるが、昭和28年の水害ではこの問題が各方面からとり上げられか、そこで、こういう問題も考えに入れながら、明治以来の大水害の一つといわれる、昭和28年の水作をふり返って見ることにしよう。
まずはじめに、昭和28年におこった水害を、主として各新聞の報道その他からひろって見ると、第四表のとおりである。
このなかでとくに大水害となったのは、
6月下旬の北九州、
7月18日の和歌山県有田川・日高川流城、
8月14日から15日の京都府南山城三重県伊賀上野地方、
9月25日の台風13号による京都府舞鶴地方と福井県若狭小浜地方の四回の水害である。
なお、台風13では、洪水の氾濫による水害のほかに、三重県・愛知県・静岡県などでは、高潮のために海岸の防波堤が破られ、深刻な災害を越している。これら四つの水害はどれをとって見ても、みな記録的な大水害である。そして四つとも、昭和28年に突発したものではなく、明治以来同じ水害を経験しているところが多いことも、興昧深い点であろう。

荒れはてる祖国の山河 昭和28年北九州の水害
堤防を削り、山を削り(『日本の災害』小出博氏編著昭和29年刊 一部加筆)
北九州の水害は梅雨明け、梅雨前線がもたらした豪雨が原因であった。
6月26日から28日にかけ、域後川流域、阿蘇火山から白川流域、門司市がそれぞれ中心となって起こった災害である。このほかにも、失部川流域、遠鮒岬流域、嘉瀬川流域、さらに山口県下にも被害があったし、また、長崎県には大地滑りが起ったのである。実に広い純囲にわたり、山間部や平野部に、さまざまの型の災害を起したことが、北九州水害の一つの特徴であろう。まず、当時国福岡管区本部と国警山口県本部とで調査した、7月9日正午現在の西日本の水害を一覧して見よう(第五表)。そして、当時の災害の状況を7月10日の朝日新聞はこう報じている。
「九州北部を襲った気象史にも稀れな700ミリの大豪雨・濁流は堤防をちぎり、鉄路をヒン曲げ、山肌さえけずり取った。英彦(ひこ)山に源流発する遠賀川が26日朝決壊し、筑豊炭鉱を洗ったのにはじまり、つづいて矢
部川、同日夕刻には「筑紫次郎」(筑後川)も決壊して、ついに筑後・佐賀両平野に狂奔、人をのみ、家をのみ、穀倉八万町歩を湖水に化させた。「火」の大阿蘇も豪雨の前にはその山容を変え、ヨナ(火山灰)は白川の濁流とともに、「森の都」熊本全市をうめた。鉄橋流失、道路決壊で、鉄路はズタズタに寸断された。降り続く雨は、さらに、28日北九州五都市を襲った。筑後が水なら、熊本は土砂、北九州は門司市風師山などの山津波に、よって岩を浴びた。本土と九州を結ぶ海底の動脈、関門トソネルも完全に水と土砂に封じこまれてしまった。雨はさらに。山口県を侵した。かくて、鹿児島・宮崎両県をのぞく、九州五県および山口県の一郡が大惨事にのまれ、その被害は実に100万人を突破した。あの日から二週間もたったいまもなお、有明海には死体が漂流している。復旧作業のシャベルの下からも、行方不明者が発見されている。あまりにも被害が大きかったが故に、まだ県庁など官公諸機関でも被害状況の調査は、詳細にはわかっていないところもある。

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 最近の森林事業は山地保全の思想は全く失われている。
 皆伐採事業は時には災害拡大の要因となることを農林水産省や林野庁は確認すべきである。
行き場所を失った水は何所へ?

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 植林事業の目的は山地保全ではなく、事業消化のための事業になってきている。税金で植林して壊滅(約1000本)する現場。
 調査の結果すべてに被害痕が確認できる。来年には枯れ木の山となり、仮に成長しても奇形木や腐食内臓木材となり、用材にはならない。

 確かに鹿の害ではあるが、獣害が増大する中で、植林することは鹿の増殖に加担する一面を持っている。

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 植林はけっして善意の行為ではない場合もある。最近のように不必要な森林事業や植林事業が獣害を増長させる事例が多くなっている。

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 これはマツノマダラカミキリムシに侵された赤松材(樹齢推定50〜60年)目の高さ直径40cm。
 病気が確認できたのは2年前。現在はいつ倒木しても不思議ではない。
大災害になる危険性が増したので、駅に位置とともに連絡しました。早急に対処が望まれます。

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