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サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

山口素堂と松尾芭蕉の部屋

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山梨県文学講座 素堂と黒露
 前にも触れたが黒露は素堂の一族に属する人であるが、これといった資料が見当たらないが、散見する諸書から推察を試みてみることにする。諸書の記載には、「甥」・「姪」『通天橋』の後文では「ふたたび翼氏にあふ」、『摩訶十五夜』でも「翼氏・亜父」、との記述が在る。これらの用例からすると黒露は、素堂の姉妹の子、素堂の母方の「おじ」ということになる。なお古文書に記述される血筋、
血統での文字の用例は実に厳密である。
 ・甥 ・:(そう・おい)をひ、姉妹の子。或いはむこ(娘の夫)。妻の兄弟姉妹の夫。外孫にもつかう。
 ・姪 ・:(てつ・をひ)兄弟の生んだ男子。めひ・兄弟の生んだ女子。妻の兄弟の子。
 ・舅 ・:(をぢ・しゆうと)母の兄弟。
 ・翼氏・:(きふし・をじ)伯父・叔父。
 ・舅甥・:(きふさう)母方の「をぢ」と「をひ」。
 ・亜父・:(あふ)尊敬語。おやじさん。父につぐとの義。
 
以上の用例から推察すると、黒露は素堂の妹の子として生まれたが、事情があって後に素堂の所に元禄の終わり頃に引き取られた。黒露の生年は没年から逆算して貞享3年(1686)である。素堂の親族については別に記してあるが、『甲斐国志』の素道の項に記載されている甲府府中魚町四丁目の山口蓋は素堂とは関係が見出すことができない。『連俳睦百韻』の寺町百庵の序に「雁山の親は友哲、家僕を取り立て山口氏を遣し、山口太郎右衛門、その子雁山なり。後に浅草蔵前米屋云々」とある。家僕とは身分制度の確立していた頃は、「一家をなしていない者」・「独立していない者」などは家僕と記される事もある。素堂親族の寺町百庵や山ロ黒露は放蕩生活も長く、素堂もその扱いには苦労したようである(この項は別述)

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山梨県文学講座 素堂と子光 『素堂句集』を編んだ子光

 子光については享保六年(1721)に『素堂句集』を編んだことは判明しているが、子光自身の姓氏経歴は伝わっていない。俳諧書にも「子光」の名が散見できるがこれが『素堂句集』を編んだ子光とは判別できない。ただ句集の中で
「私にはまた一つの力助がある。それは素堂の食事のせ世話や身の周りの仕事である。私は幸いに素堂師について十数年になる」
と記している。
子光は文章も書き慣れた風が見えず、素堂に師事して俳諧や文学などを習っていたのでなくて、雁山(黒露)に素堂逝去を知らせた「僕伝九郎」と同様な書生的な存在であったのかも知れない。天明3年(1783)晩得編『哲阿弥句集』に子光追善の句があり、寛政8年(1796)素丸編「素丸発句集』にも子光追悼の句があるが、これが句集を編んだ子光と同一人物かは計り知れない。前掲の子光の名の見える撰集からすれば、子光は天明頃までは生きていたのであろうか。ただしこの時期子光は高年齢に達していて追悼の対象人物は別人である可能性も残されている。

山梨文学講座 山口素堂と通天橋 辞世句

 また『通天橋』の雁山の文中に
それの春(享保元年)野夫(雁山)京師に侍りしに、この便りに此句にて心得よとて、いひ送られしか、猶その際迄も、都の花を慕ふ心、いと浅からずや。実に今おもひ合すれば、とく其期を知れるにや。かの文の奥に、
  初夢や通天のうきはし地主の花  素堂
 とあり、素堂の辞世の句が示されている。
また京都に居た雁山に素堂の急逝を知らせた僕伝九郎の存在や、晩年素堂の周辺居た子光のことは、資料不足で明確にはできないが、旧友の追悼文を見ると杉風(衰杖)は、同じ深川でも新開地の海辺機近くに、早くより別荘の採茶庵を開き、退隠後はそこに住んでいた。後世の書には杉風の姉が甲斐に住んでいて、天和三年の春に芭蕉が甲斐谷村に来た折りにこの姉を頼ってきたとの記載もあるが、根拠資料が不足しており、確定していない。別荘は「近き辺りに軒を隔て」で歯堂の近所に居て往来していた。
雁山は幼い頃は甲府から京都に出て入山していたようで、素堂も京都には頻繁の出かけていて、素堂への移住への思慕を表わした句文もあり、晩年は京都で越年することも度々あった。『通天橋』は京都臨済宗東福寺にある橋の名称であり、嘉禎2年(1236)に藤原道長が創建し、禅宗の一派の寺院で唐の普化禅師を祖とし、建長6年(1254)に東福寺の法燈国師覚心が普化宗を宗より伝えたという。東福寺大本山として江戸時代には幕府から普化宗の総支配寺とされた。この東福寺に元禄年間に通天機が建立された。
今日では紅葉の名所として有名になったが、通天機の本来の意味は、現世を虚無とする道程を示すもので、解脱することにより完遂すると説き、これにより天への架け機を渡れるとしたものである。素堂も上京の硯には立ち寄りあるいは請われて宿坊とし使用したのかも知れない。なお業堂は日蓮宗を深く理解し、母没年の元禄八年の夏には深草の元政の故事に憧れ甲斐身延山久遠寺に詣でている。
素堂は谷中の感応寺(現在の天王寺)に葬られたが、その後雁山により他の寺へ移葬されている。
 業堂と京都の関係を示す資料は多くあり、本文に収録してあるので本文を参照のこと。その他『通天橋』には多くの追悼句文が掲載されているが、拙著『山口業堂の全貌』の本文に掲載してあるので一読されたい。
また文中に「……けらし」「……ならし」らの語句が見えるがこれは素堂がよく用いたものである。

山梨県文学講座 『通天橋』にみる素堂の人柄

『通天橋』 山ロ雁山(黒露)編。素堂一周忌追善集。享保2年(1717)刊。

序文、内藤露沾(風流大名内藤風虎の息子で職を継がずに俳諧を継承した)
 かつしかの素堂翁は、やまともろこしうたを常にし、こと更俳の狂句の達人なり。おしひかな、享保初のとしハ貝中の五日、終に古人の跡を追いぬ、予もまた志を通ること年久し。しかあれど猶子雁山、をのをの追悼の言葉を桜にお集んとて予に一序を乞。
 おもふに彼翁、周茂叔が流に習ふて、一生池に芙蓉を友とせしは、此きはの便りにもやと、筆を染るものならし。
造園軒
月清く蓮の実飛で西の空露辿

 追悼 狙公をうしなふて朝三暮四のやしなひだにあたはず。
猿引にはなれてさるの夜寒かな 雁山
 
悼 素堂翁は近きあたりに軒を隔て、月雷花鳥のころは、互に心を動し、句をつづりけるに、時こそあれ、仲秋中の五日に世を去て筆の跡を残す。
枕ひとつ今宵の月に友もなし  衰杖(杉風)
愛蓮のあるじ尋よくはゐ掘   専吟

 其むかしの句を
目には青葉うつり行世の野分哉 青雲(甲斐の人)
 山口素堂子さりし八月良夜、また月に思ふ。宗鑑が下の客いかに宿の月、といひしは三十年碁年にとなふ。
下の客に折まて世界柴の露   沾徳
深川の旧庵をおもへば、あるじなし。文の巧みは人口にありて、おもひだすに
蓑むし蓑むし錠に錆うき水の月 祇空

 来れるは何ごとぞや。なつかしの素堂、しかじかの夜復命すとや。我此人をしらず。それを唯しらず。まことに蓮を愛して周子に次ぎ、名を埋て炉下に帰ス。されば其情を同じうして其世を同じうせざることをうらむ。愁て今さらに其ことをしらんとすれば、炭消えて灰となり、灰空しうして一炉寒く、残るものとては唐茶に酔し心のみなりけらし。猶その趣を携て一句を積とは、我をしてなかしむるか。汝におなじきものは何ぞや。葉は眠るに似てうつぶき、花は語るに似て笑。誰か是に向かひて昨日をしたひ、けふを啼ざらめやは。花散菓折て非風謡ひ芦花舞て池水秩なり。かれはその秋の冥々たるに入、我は偶然と口明き偶然と手を打て後あゝこゝに呈す。同じくはうけよ。
秋にして舞ふて人けり風の笠  謝道

素堂翁は、世にありて世をはなれ、富貴は水中の泡と貧泉を苦しまず。前の大河、後ろの小流を常に吟行し、武江の東葛飾に住居し、一窓に安閑をたのしみ、花の日は立出てとかなで、雪の朝は炉中に炭などものして、沁(?)音にしたしき友を待、さて月のゆふべは即興の章おもしろく、拙からも筆をしめて、まことに其名都辺までも著し。折こそあれ、享保のはじめのとし名月の其夜果られしこと、哀も殊勝になつかしくおもひ侍りて
名月に乾く日ごろの硯かな   麦々堂昌貢

はづかしの蓮にみられて居る心 素堂
 此句世の人口にとどまり候。此度の一集へ御加入可被成候。
   雁山サマ          桃隣

 三潭印月硯釈心越禅師及有一見。竹洞記(幕府儒者)
 端石円而大不満尺。
 石而如高山聳時有其中自然淵。
 濃意味不似異石。
 所謂為硯海有三孔偶通墨矣。
 謂輿西海一景三潭印月硯。
 尚二子於記中詳焉。
雲起す硯の潭の秋の風     雁山
 
一とせ野竹洞老人より素琴を送られける趣を
月見前聞たことありいとなき世

 少し引用が長くなったが、素堂の在世中のことが多少理解していただけると思う。この他にも素堂の『とくとくの句合』の蹟を草し
た高野百里や旧来の友京都の言水も句を寄せている。謝道は館林の人で江戸の茶瓢とともに素堂の座像を作っている。
 前書きでも触れているが、この『通天橋』の連衆は素堂の生前に素堂亭に集まった、芭蕉門の杉風や其角・嵐雪・桃隣らの関係者や沾徳を始め未得・調和・不ト・才麿らの関係者や、露沾・青雲・言水など江戸から上方まで参加している。
 この一周忌追善を主催した雁山(後の黒露)露沾が云うように、素堂の猶子になっていたと考えられるが、雁山と素堂の家系上の関係については複雑な為に後に譲り、素堂の周辺に現れたのは元禄末から宝永年間で、雁山本人が『摩家訶十五夜』(まかはんや)の中で
*本人が船に乗って浅草にまで芝居見物に行く下りがあるからである。

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