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山梨県文学講座 山口素堂 2、俳諧及び俳諧生活(北村季吟との関係)
資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
文献に見ゆる彼の句のうち、もっとも年代の古きは寛文七年素堂二十六歳の折、『伊勢踊』集に江戸山口氏信章として入集してゐる五句である。彼は恐らくはその二三年前より俳諧に手を染めゐたのであらう。當時の句が、純貞門風のものである事は、今いふまでも無い。彼が季吟に學んだとは、『綾錦』(享保十七年)以来定説となってゐるが、少くも『伊勢踊』當時は 末だ季吟とは交渉さへ無かったのである。同じ年、季吟は湖春をして、彼の門下その他彼と交渉ありし人々の句を網羅して『続山の井』を撰ばしめてゐるが、素堂の名は見出し得ない。
『伊勢踊』に依れば、素堂ははじめ、玄札・立志あたりを師としたと思はれる節がある。寛文時代の彼の句として知り得るのは、右『伊勢踊』所見のもののみである。
併し、『廿曾集』(延宝二年霜月廿三日、
江月より信章の下りて興行
いや見せし富士を見た目にひえの山 季吟
世上は霜枯こや都草 信章
とあり、是に依って見れば、彼が江戸信章として、相當俳壇に地歩を占めてゐた事が想察され、その間俳諧に全然疎であったとも思われ無い。めて季吟との関係を見出すのであるが、此関係が寛文七年以後に生じたものである事はいふまでも無からう。
恐らく素堂は、寛文七年より延費二年の間に上洛した事があり、その際二人の交はりが結ばれたものと推測される。これに就いても.一般にいふ如き密接な俳諧の師弟関係であったかどうかは疑はしい。
今、此、『廿會集』を措いて両人の交遊を忍ばしむる材料は、全く見出し得ないのであって、季吟撰の『續蓮珠』(延宝四年)さへ、素堂は一句も採録せられなかった。延宝五年の季吟任口判の『六百番発句合』には、彼の二十句見ゆるも、之はその書の内容性質より見て、両人の師弟関係を裏付けるまでの資料とは考へ得られない。
芭蕉を季吟門とする事に、今尚疑を持つ人もあるが、素堂に於いては更に証拠不十分といはぬばならないのである。単に『廿曾集』のみによっては、到底未だ、素堂を季吟門なりとは断定しがたいと思ふ。
惟ふに、素堂は季吟にたゞ俳壇の古老に對する霊を執つたに過ぎす、師弟の契りいふ如き深さ閥係にまで立ち到らなかったのではなからうか。
尚立ち入って考へれば、彼は或は、季吟に国學古典に就いて疑義を質した事があったかも知れない。即ち両人は国學上の師弟関係を有してゐたかも知れ無い。季吟の古典注解に於ける力量、及び素堂が古典に深い理解を持ってゐた事等より推してかくも考へられるのである。
さて、彼は、『廿曾集』に依って窺へば、その頃貞門の固陋煩瑣なる風を厭ひ自由を求めんとしてゐたものゝやうで、此態度は、翌三年五月東下中の宗因を迎へ、桃青等と共に興行せる歓迎百韻に及んで俄かに著しい展開を見せてゐる。即ち全く談林に近づいてゐるのである。同年、高政の『俳諧絵合』に彼の句が採禄せられてゐる事も、彼の談林への接近を示すものである。
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山口素堂と松尾芭蕉の部屋
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山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(旅行)
資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
元禄八年以後、彼はその歿するまで、前後八年に六回旅行を試み、就中、京洛の地をいたく愛惜したものと見え、元禄十四年の如きは、春秋二回上洛してゐる。彼には京に住居を求めんとする心さへあったのであった。
小野川洛陽に住居求むとて登りける頃
予も亦其志なきにしもあらねぱ
蓮の實よとても飛なら廣澤へ (とくとくの句合)
閑寂を愛し古典に親しみ、對人的関係は煩瑣の外何物にも感じられ無かった彼が旅を好み、殊に史的背景に富み典雅なる京洛を愛して事は自然であった。尚、彼の無繋累の安易さ、及び、元禄七年親友芭蕉を失って、江戸に風雅を語る友を見出し得なくなった事も、しばしばの旅に彼を誘ひ出した有力な理由と考へられる。後年、彼の生活が豊かで無かった事は、彼の門人黒露が「……素堂翁は柱昔家富壮なりし時云々」(白蓮集解説)といってゐる事によっても推知されよう。これに就いて、もっとも筆を努してゐるのは百里の『とくとくの句合』跋である
(原文参照)。
併し、これは素堂の死歿十二年の後に草されたものであって、その間、記憶の誤が全く無かったとは保し難い。少くも、素堂が、芭蕉生前より窮迫してゐたといふが如き、百里の言は大いに疑はしいものである。
彼の晩年が財政的に恵まれてゐなかつた理由としては、彼の庵がしばしば火災にあった事、及び甲府山口本家の零落等を擧げ得られよう。
彼は儒を雋つて此不如意の生計に資したらしいが、それは勿論、隠逸の心境を辭す程のものでは無かった筈である。足らぬ勝乍ら、彼は貧を逃れん為の醜い愚かな足掻などはしなかった。遺作によって、彼が牡丹の富貴をにくみ 蓮の清きを愛してゐた事が知られるが、その彼が清貧に甘んじた事は當然であった。むしろ却って、それを好もしい境涯として享けた事であったらう。かくて、彼が、葛飾の庵に七十五年の長い生命を終ったのは、享保元年八月十
五日であった。彼の遺骸は下谷感應寺に葬られ、戒名を廣山院秋厳素堂居士と云ったといふ。
(註一) 彼が長崎へ行った事は、
長崎にて
珠は鬼灯砂機はつちのごとくなり(とくとくの句合)
長崎にて
入船やいさゝそよきて秋の風 (俳 枕)
の句に依って紛れも無い事実である。此旅行は『俳枕』上木の延宝八年以前に行はれた事は明日であり、又「珠ハ鬼灯」の句の全く談林風なるを見れば、延宝三年五月宗囚に會して談林の息吹を受けた後の事であるのも明である。
尚又、『俳枕』及び『蛇之鮓』(延宝七年)
山は扇汗は清見が關なれや (江戸蛇之鮓)
勢田にて
夕立や虹のから橋月は山 (俳 枕)
中山
爰ぞ命顔淵が命夏の月 ( 同 )
宮島にて
廻廊や紅葉の燭鹿の番 ( 同 )
右の如き彼の句が見えてゐるが、これらは此旅行往途の吟と思はれる。彼は江戸を夏の頃立ち、既に宮島にて秋を迎へ、更に長崎へと行を進め、同地にて前記秋の句二章を得たのであらう。彼は九州に於て翌年の春を迎へたものらしい、即ち『富士石』(延宝七年初夏の序)に見ゆる
此頃の龜を
二万の里唐津と申せ君か春 来 雪
は肥前唐津に於いて迎年した事を示すものである。
尚『とくとくの句合』に見ゆる左のものはこの帰途に於ける詠吟に違ひ無い。
西国に下りし比周防長門の間の堤に大木の柳ありけるを
胴をかくし牛の尾戦く柳かな
かく見てくる際には、彼は夏の頃江戸を立ち、翌年の春半ば過る頃漸く再び江戸に帰還したものと推測されるのであつて、此施行はまことに前後略一年に至る長期のものであつた。
先に此旅行を延宝三年五月より延宝八年の間の事と概定して置いたのであるが、此間に於ける彼の動静に依て更に見直す時は、此旅行は延宝六年の夏より翌七年春までの事とより外患はれないのである。三年より六年春までは年譜に依ても知るごとく、彼は江戸俳壇に於いて活躍していのであつて、その間かゝる長期の旅行などをなす時日の余裕は全く無かったと思はれる。
又延宝七年初夏の序の『富士石』 前記に九州唐津にての吟ある事より察すれば、此旅行は延宝七年以後の事でも無かつた。かくて、私は、素堂の長崎旅行を延宝六年夏より翌七年暮春までの事と推定したのである。
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山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(甲斐入り?)
資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
彼は『甲山記行』に見ゆる如く、元禄八年甲府に帰ってゐるが、その翌年、再び甲斐に至って、濁河の治水に力を盡した。
此事は、彼の實際的才能の一面を窺い得る事で興味ある事ながら、今縷述を避け、ここにはたゞ、此治水が元禄九年三月二十八日に起工され、五月十六日に竣工を見たといふ『山梨県水害史』の談を擧ぐるに止めて置く。
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山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(母の死? 素堂は結婚しなかった?)
資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
元禄三年、素堂は母を失ひ(註二参照)、天涯孤独の身となったのであった。(要は既に早く寛文の頃世を去ったらしい)彼が母に仕へて至孝であった事は、諸書の傳へる所であり、彼が後妻を迎へなかった事も、一は母の意にたがはん事を恐れたためであったらしい。母の死に際して、彼が痛惜したのは、もとよりの事であったらうが、それも一面より見れば、彼の閑居を更に徹せしめる事になったと思はれる。
(註二) 素堂の母親の歿年は、『韻塞』所見の素堂の母の喜寿の賀宴が、いつ行はれたかに依つて相違してくる。
一般に此賀宴は元禄五年に行はれたとせられてゐる。成程此説にも無理からぬと思はれる節もあるのであって、若し斯く、此宴が元禄五年に挙行せられたとすれば、その歿年を元禄三年とする如き説は當然誤謬である。
だが併しながら、かの元禄五年説も絶対的肯定を強ひるには未だその證憑乏しく、そこに此の私説も生じてくる次第である。
先づ私論の根拠を示さう。
昨年の夏、素堂一家の菩提寺である甲府の尊躰寺を訪れた際、私は光譽清意禅定尼なる一つの墓碑を見出した。その墓碑の正面には、右の如き戒名の外に、元禄三年午十二月十四日と毅年を記し、且つ墓碑の側面には、魚町山口市右衛門尉老母と註してあった。前述の如く市右衛門は山口家の家名である。素堂は早く家督を弟に譲ったのであるから、此市右衛門は素堂自身ではなく或は彼の弟であるかも知れない。
併しながら、いづれにせよ、此老母なるものが素堂の母親である事に狂ひは来ないと思ふ。かくて、若し此墓碑に信を置く時は、素堂の母は元禄三年十二月十四日に歿した事になるのである。更に又、喜寿の宴に於ける芭蕉以下七人の賀句は、『韻塞』以外に素堂一周忌追善集『通天橋』にも録されてをり、同集所載の賀句は左の如きものである。(『通天橋』は未見。黒露編の『秋七草』に右の七人の賀句を記し『通天橋』集に見えし由を附記せり)
松江の鱸薄のほしを釣る 嵐 蘭
此句は句調佶屈にして未だ天和調の影響を脱し得ぬものであって、到底元禄五年の作とは受取れない。むしろ貞享頃の作と見るが至當である。もし今、此句を貞享頃の作とし、従ってかの喜寿の宴を貞享年間に行はれたものとする時は、素堂の母の歿年を元録三年とするにいさゝかも不思議はないのである。如上が元禄三年説の根拠であつて、これ又強ちに否定も出来なからう。勿論、私としても、これを以て決定的な説として主張するものでなく、単に一説として提示するのみである。
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山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(素堂と名乗る 葛飾の庵)
資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
彼が素堂と號し初めたのは延宝八年からであって、これも彼の致仕退隱と関係があらう。此退隱の理由が何であったかは今知るに由ないが、こゝにも彼の執着心の乏しさを見る。兎に角、彼は今や、人生に於ける新なる道を踏み出だしたものといふべく、隠士素堂の生活の第一頁は開かれたのであった。
貞享二三年の頃、彼は更に静関の地を求むべく居を葛飾の阿武に移した(一般に此葛飾移居を天和年間の事と傳へて居るが誤である。此事に就ては既に俳誌「筑波」に寄稿して置いたから今は煩はしい考証は省略する)その折の作といふ。
長明が車に梅を上荷かな
に依って知るごとく、鴨長明の隠栖を慕っての移居であった。此新居の附近には芭蕉庵があった。これより芭蕉及び其門下の諸士との交情が更に懇に、彼の境涯がいよいよ、隱逸の色彩を濃くしてきて事は想像に難くない。
それかあらぬか、貞享四年の蕉門代表撰集たる『続虚栗』に彼は序を與へ、且つそれにはじめて江上隠士と署してゐる。
彼は此葛飾の庵にあって庭池に蓮を植え、又菊園を作って俗塵を避け、人を訪ぬるをを厭ひ、「客半日の閑を得れば、主は半日の閑を失ふ」といって木下長嘯の言を隣み(嵯峨日記)、ひたすら閑静に身を置いたのであった。
彼の和漢の古典に對する強い愛好、及び、後述の如き彼の多趣味は関を□す好き材料となったに違ひ無い「素堂はあつまの長明ともいはんや」(とくとくの句合)と百里もいひ、許六も、「江戸山素堂は隠士也」(歴代滑稽談)と評してをり、隠逸の一言は退隠後の彼を評してあまりあるものであらう。
尚素堂の門人子光が、「非輿人對話則黙而如泥塑人」及び「其庵中所蔵書契数巻及茶器爨炊之鍋釜而巳」(素堂家集序)といってゐるのは約に彼の隠逸振りを躍如たらしむるものである。
私は今、彼が長明の境涯を慕ひ、又百里に依って長明に比された事を述べた。併し、両者は、物に頬はされる事なき閑境を愛し、それに處したといふ點で共通しているのみで、長明の底に流れる厭世観の如きは、素堂には見出し得ない。彼の句に就いて見るも暗い影は無い。
錦江の『白蓮集解説』にも「志不尚佛豊儒使之然」と素堂に就て記してゐるのであって、彼には佛教的きの如きは全く無かったのである。かくて彼の閑居にあるは、ただ端然さと静寂さであつた。此點、 又、同じ隠逸といふも、かの佛にこもり厭世的傾向強く、むしろ病的ときへ考へられる丈艸(草)のそれとは甚しい逕庭を認むるのである。
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