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サブやんの気まぐれ調査研究の続編です

山口素堂と松尾芭蕉の部屋

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山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(濁河治水事業)
 資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
 
彼は後にもいふ如く、元禄九年甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛の依頼によって助力したのであるが、その當時の事を記して例の『甲斐国誌』には「素堂ハ薙髪ノマゝ、挾双刀再ヒ稱山口官兵衛」といってをり、又若海の『俳諧
人物便覧』には、素堂の職を「御普請役」なりしと明示してゐる。
これらによっても元来彼が双刀を挾んだ地位にあった事が覗はれる。これら後世の編著はしばらく信じがたしとするも、彼自身の遺作によってやはり略似に結論を導き出し得るのである。  
 
山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(俳諧生活)
 資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
 今天和二年の『武蔵曲』を見るに
 (前略)
 閑人閑をとはまくすれどきのふは
けふをたのみ、けふはまたくれぬ
行すして見五湖煎蠣の音を聞
 の句が見出される。此句は『去来抄』『白蓮集解説』にも説く如く、上野の素堂より深川の芭蕉庵へ送ったものである。此句の詞書に依れば、此當時既に世務を避けて上野に閑居してゐた事を知るのであってこれは「素堂翁退隱の後しのはすの蓮池に十蓮の佳句あり」と「連俳睦百韵」に於て寺町百庵の述べてゐるのと一致する所である。更に同書に左の句が見える。
 
  鰹の時宿は雨夜のとうふ哉 素  堂
 
 句意は白氏文集十七の「蘭省花時錦帳下廬山南夜草庵中」を踏んで、上野忍之岡を以て廬山になぞらへ自己の隠栖を官途にある友人の栄達と対比せしめたものである。以上の二句を考へ合はす時は、彼が上野へ退隠したのは官職を辞した後である事が明かになる。彼が何を以て仕へたかは明言出来ないが、彼が後年濁河治水にて算用の才をあらはし、又儒学の嗜み深かりし事より考へて、いづれ智適技能を以て仕官してゐたものと思われる。
 かくて又更に、彼の上野退隱は、既に『武蔵曲』の二三年前、延宝七年の事であったらしい。即ち、廷宝八年板の『江戸弁慶』『向之岡』に左の句が見える。
 
  宿の春何もなきこそなにもあれ   (江戸弁慶)
  亦申上野の秋に水無瀬川      (向之岡) 
  蓮の實有功經て古き龜もあり    (
 
 第一句は、退隱後の閑居の有様をよんだものであらうと思われ、第二第三は共にいふ迄もなく上野での事である。これらに依て延宝七年暮春長崎よりの帰還(註一参照)以後間もなく致仕して、上野へ移った事と推察される。
 かの『花見車』(元禄十五年)に素堂を記して「若き時より髪をおろし」といってゐるのも、此時の事ではなかったらうか。
山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(出生から甲府山口屋)
 資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
 
 山口素堂、名は信章、字は子晋又公商、通称を勘(官)兵衛(太郎兵衛・松兵衛・佐兵衛・太郎衛等の異説あり、今一般の呼稱に従ふ)素堂は素仙堂の略といふ(連俳睦百韵)。別號として来雪、松子等を稱した。尚来雨の號があったと『連俳睦百韵』はいってゐるが、之は明かでない。彼は、又茶道に於ける庵號として、今日庵、其日庵を稱してゐる。
 山口家は、その祖山口勘助良侫(蒲生家の家臣)以来、甲斐国北巨摩郡教来石山口に土着した郷士であった素堂は、その家の長子として寛氷十九年五月五日(一説に正月四日)に生まれたのである。
 即ち、芭蕉に先んずる事二年であった。彼は幼名を、『甲斐国誌』に依れば重五郎といひ、長じて家名市右衛門を継いでゐる。暫くして、家督を弟に譲り、勘兵衛と改名して上京した。
 山口家は、後年甲府に移住したのであるが、それは恐らく、素堂の少年時代であったらうと思われる。
 山口家は、甲府に於いて、魚町西側に本宅を構え、酒造業を営み巨富を擁し、(功刀亀内氏蔵…『写本酒之書付』及び『貞享上下府中甲府再見』に依る)
 『甲斐国誌』にも「家頗る富み時の人山口殿と稱せり」と記す如く、時人の尊敬を享けたのであった。
 かゝる正しき家柄と、巨富ある家に、幼少年期を過した素堂は、必ずや、端厳且つおっとりした気風を持って長じた事と思はれる。
 とかくして、彼は、江戸に遊学のため出づる事になった。その時期は、勿論明確な事は云へないが、先づ寛文初年廿歳頃と推測される。
 元来山口家には好学の血が流れ、素堂の末弟の如きも、林家の門人にて、尾州摂津守侯の儒臣であったといふ。彼も又少より学を好み、為に、あったと思はれる。彼が性格として又好学のため、酒造の如き家業を厭つた故もあつたらうが、ともあれ此巨萬の富ある家を惜気なく弟に譲った事は、以て、彼の執着心の乏しさを、察するに足るものである。
山梨県文学講座 山口素堂 1、生涯(甲府から江戸へ)
 資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
 江戸に於いては、一般に、林春斎に就いたといはれている。 これに就いて、確たる文獻は無いが、人見友元が素堂を評して、「林門三才の随一たるべし」(斎藤氏紹介の『含英随記』に依る)と述べてゐるのに依って、少くも彼が官学の流を汲んだ事は疑ひ無い。
 彼が、斯く若くして、漢学を学び、しかもその深さ素養を有するにいたつた事は、彼の後年の人物俳風を考へる際に、かなり大きな意義を持つものであり、閑却出来ない事である。
さて、彼は寛文五六年の頃、大和三輪神社に詣でてゐる。京へも勿論その折上った事と思われ、彼が和歌を清水谷家に、書を持明院家に受けたといふ『甲斐国誌』以下の説が、もし真ならば、この上洛の際に学んだのであるかも知れない。
 大躰、江戸出府以後、寛文末までの彼の消息は、甚だ明瞭を缺き、いかに穿鑿するも要するに憶測に止まり、たゞわづかに、彼の俳諧生活に就いて、二三の知識を得るのみである。彼の俳生活については後に一束して述べる。兎に角、此頃の彼が、未だ立身出世を目指して、齷齪してゐた事は信じて誤なからう。
延宝年間に至れば、彼は後述の如く風雅にいよいよ傾いてゐる。併し、その頃、彼は尚、疎にすべからざる何等かの公職(恐らく儒を以て仕へしなるべし)を持ってゐたのであって、彼がさらりと職を抛ち、風雅専一の閑居生活に入ったのは、延宝七年長崎旅行より帰還した後であった。(こゝにいふ風雅とは箪に俳諧に限らず更に廣汎のものを意味する)今、彼の職に就いて、私は単に何等かの公職とのみ記して置いたが、事の序に茲でいさゝか筆を費して置かう。
山梨県文学講座 素堂講座 資料「山口素堂の研究上」荻野清氏著 『国語・国文学』 昭和七年一月号
 
 『春泥発句集』『鬼貫句選』の序跋、及びかな『點印論』に於いて、蕪村が他の四子と共に素堂の風格賞揚し素堂の洒落を法とすべしといっているのは、洽く知られてゐる事である。
 蕪村には、尚、素堂の「浮葉巻葉」に模した句があり、又同じ素堂の句を發句とした脇起しの試もあった。蕪村の實際の作句に就いて見るも、彼が素堂の粉骨を模した跡は明かに看取出来る所で、
   柳ちり清水かれ石ところところ
 の如きも、嘯山の言を待つまでも無く、そのまゝ素堂の風格である。かくて、素堂は天明の偉才蕪村に依つて摂取せられ、その骨肉となったもので、之に加ふるに、更に素堂が蕉風の開発に参興したといはれる事、芭蕉と終始渝らざる懇情を持してゐた事、芭蕉没後にも元老として隱然俳壇に重きをなしてゐた事、及び彼が葛飾派の祖と稱されてゐる事等を併せ考へれば、當然彼の名は俳謎史上逸すべからざるものとして恩惟せられてくるのであり、彼の人物及び俳諧の検討が、決して疎にせらるべき性質のものでない事に思ひ到るのである。今、彼を論ずるに當り、私は順序として、まづ彼の生涯より筆を起さうと思ふ。
誤伝山口素堂の背景 五、実録 山口素堂 『甲斐国志』他について 信濃の小林一茶は素堂信奉者
 
一、素堂は甲斐巨摩郡教来石村字山口の生まれとする説。
一、素堂は甲斐甲府府中魚町の生まれであると云う説。
一、素堂の生家は魚町山口屋市右衛門である。    
一、素堂の家は「山口殿」と呼ばれた。    
一、素堂は二十歳の頃、江戸に出た。    
一、素堂の仕官先は
(否定 桜井孫兵衛の僚属となるは年齢で無理)
一、素堂は甲府代官桜井孫兵衛の僚属であった。
(否定 形跡は無く、両者の年齢から云って無理)
一、素堂は林家の門人か
(肯定 資料から裏づけられる。元禄六年)
一、素堂は父母の墓は甲斐尊躰寺か。
(疑問 素堂の墓は江戸であり、母や妻の墓も江戸であり、尊躰寺の墓  は山口屋のもの)
一、素堂は甲斐濁川の工事を指揮したか。
(疑問 『国志』の以外の文献が無い)
一、甲斐は素堂の出身地か。  
(疑問 素堂は自ら著した『甲山記行』で「甲斐は妻の故郷ととれるく  だりがある)
一、素堂の墓所は(否定 『国志』のみ甲府尊躰寺説。素堂の墓所は江戸の感応  寺(今の天王寺)後甥の黒厳浄院に移す。位牌は天王寺に現存)
一、濁川工事の完成にともなって建立された「山口霊神」は (疑問 桜井孫兵  衛の生祠も死後のもの。山口霊神は『国志』以後の諸本のみ)
一、素堂の母の没年は元禄三年か
  (否定 素堂の母の死は元禄八年)
一、素堂は官兵衛・市右衛門を名乗ったか。  
  (否定 『国志』のみ。名乗った形跡は見えない)
  素堂の家系にある寺町百庵の『連俳睦百韻』の序文によると、素堂は太郎兵衛
一、素堂の祖先は山口に住んでいた郷士か。  
 (否定 資料がない)
一、素堂の生誕日は五月五日か。
 (疑問 『連俳睦百韻』では正月四日とする)
 
 他にも疑問点があるが、『国志』一書のみに記載された事項が如何に多いかが理解していただけると思う。一書のみで史実とするのは危険な事で、歴史書は後世書されたものより時代が近いものが優先されるべきである。『国志』より三十年前に刊行された『連俳睦百韻』には素堂の家系を伝えている。もし『国志』に素道(素堂)の記載が無かったら、『連俳睦百韻』の云う「素堂は太郎兵衛で鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助である時点で蒲生氏郷から離れ町屋に下ったと云う。素堂の出生については定かではないが、その後の活動から見て江戸とするが妥当であろう」となる。残念ながら『国志』の編纂者は『連俳睦百韻』を見てはいなかったのである。
 素堂の仕官先の考察については本分を参照していただくとして、素堂は延宝六年から七年にかけて九州旅行に赴き唐津で越年する。これは素堂が仕官先への別離の挨拶に行ったとの説もあるが、この後に素堂の俳諧活動は活発になる。素堂の仕官先は現在でも不明であるが、九州旅行が深い関係をもつことは間違いない。長崎や唐津と素堂の関係はこれも資料が見えないが驚いた事に長崎県の山口姓は全国でも一位である。素堂没後において芭蕉の門人の向井去来に俳諧の再興を促す。去来は長崎の出で家は代々儒家であり軍学は甲州流の奥義をきわめ、素堂が晩年移住まで考えた京都の広沢の池に近い落柿舎に寓居していた。後に『俳諧芭蕉談』を著した長崎の卯七は、去来の門人でその著の中に「素堂云」を多用していて素堂に近い人物なのである。
 山口素堂に最も近い人物として甥の山口黒露がいるが、素堂の晩年には京都にいて、素堂の逝去の後始末をし翌年追善興行を催した人物である。黒露は甲斐府中の魚町山口市右衛門の家僕が太郎右衛門を名乗り、後に山口屋を継ぐとする説もあるがこれは『国志』と『連俳睦百韻』を都合良く結びつけたもので、実証できる資料は無い。中には蒲生氏郷の家臣であった山口勘助が何らかの理由で甲斐教来石村字山口に移り住み郷士となり云々などの資料を持たない推論が史実の様に伝わっている。素堂の家柄については『連俳睦百韻』が詳しく信憑性もあるのに『国志』主論の補佐的に利用されているのが現実である。
 しかし私は『甲斐国志』の説が真実で素堂は甲斐の出身である事を祈っている。三年間の調査の結果を拙い文章で綴ったのがこの研究書である。多くのご批判を仰ぎ、今後も素堂の真実の事蹟に近づきたい。
 
  信濃の小林一茶は素堂伝来の『仮名口決』を大切に所持して常に参考としていた事は余り知られていない 
 
山梨県文学講座 誤伝山口素堂の背景 四、調査活動から見える素堂の事蹟 
 
 芭蕉時代の素堂の活躍と事蹟については正確に伝わっていない。幕府儒官人見竹洞(宣卿)とは特に親しくその親交は深く長い。竹洞は素堂の家を訪れた時の様子を日記に書しているが、その屋敷地の広さは広大なものである。また元禄六年に取得した深川の抱地は芭蕉庵に隣接するか、包含する場所で四百四十余坪の敷地で幕府郡代伊那半十郎の屋敷跡地である。
 素堂は門人ではないが水間沾徳を林家に紹介したり、甲斐谷村の藩主で後の幕府老中になった秋元但馬守に芭蕉と同じ伊賀出身の和田蚊助を俸禄二百石で仕官させている。芭蕉の筆頭門人とされる宝井其角や服部嵐雪も素堂の周辺の人で俳諧集の序文や跋文を与える程の間柄であった。素堂が序文・跋文を与えた俳諧人は多く時の有名な俳人は全て素堂の指導を請い慕ったと言っても過言ではない。重ねて言うと素堂は俳人ではないのである。一時はその道に没頭しようとした時期もあったが、それは芭蕉に任せて学識者として地方に出かけそれは晩年まで続いた。芭蕉亡き後には俳諧の復興を目指して活動し京都とには頻繁に出かけている。晩年の活躍は『国志』も語られていないものである。晩年は困窮した様な記述書もあるがそれは違う。素堂は没年の前まで活動を続けたのである。
又芭蕉の俳諧集の中には素堂の編集意見や素堂と模索した新風論もあり、二人で奏でた数々の試みは絶妙の二人三脚と賞賛する文学者も居られる。
 『江戸両吟集』京都の伊東信徳を加えた『江戸三吟集』や素堂と芭蕉の心の葛藤を描いた「蓑虫句文の遣り取り」や『甲子吟行』(『野晒紀行』)の絡み等は当時の俳人の追随を許さないものである。
 しかしこうした素堂の事蹟を芭蕉の事蹟にすり替えてしまった功罪は多きくそれが後世の素堂伝に大きな影響を与えた。   
 私は素堂と芭蕉の句作の優劣については触れる事は出来ないが、客観的に見れば新風を提示する素堂は芭蕉等の俳人に大きな示唆を与えていたのである。その素堂の句に奥行きがないと云う指摘は当たらない。
 芭蕉中心の俳諧論は戦国時代の武将中心の記載内容と良く似ている。織田信長が本能寺で明智光秀に殺害されたと云う定説も、矢切止夫氏が資料をもって史実で無い事を訴え、最近でもその説を取る人もいるが、歴史学界には何の変化も起きない。一旦定説になるとなかなか訂正されないのがこの世界なのである。
 隣の長野県の考古研究者は縄文時代既に稲作があった資料をもって主張したが、多くの考古学者は一笑に伏していた。最近では実証される遺跡が出現し定説の改変が迫られている。一部の学者の説を定説化してしまった事が起因している。素堂や県内歴史についても定説を繰り返すのみでなく確かな資料や遺構の出現が期待される。
 話は横道に逸れたが素堂の功績も長年にわたって芭蕉信仰で来た文学界では見直される事はなく、最近更に希薄になって来ている。素堂の事蹟資料は現在でも生きているのである。表面に出ないだけの事である。
 私は調査では作品よりは生活の一端を窺わせる部分の記述を重視した。また序文や跋文、及び俳文や前書きを拾うことで素堂の事蹟と人物像を探ることに専念した。理解不能の箇所については師と仰ぐ小川健三氏にお願いして理解を深めた。
山梨県立図書館に納められている数々の素堂関係書のうちで特に俳諧作法秘伝とも云うべき「素堂口伝」は重要なもので、素堂没後も与謝蕪村や小林一茶にも少なからず影響を与えていたのである。俳諧にのめり込む事のなかった素堂の句作を「奥行きがない」「追求心がない」「愚作が多い」などは素堂を理解されない人の妄説で、俳諧を業とする人と一芸として俳諧を嗜む人を一緒にして論じる事は避けるべきであり、素堂に対するこうした評は素堂の人間性にまで及ぶ事もあるので十分な配慮が必要である。素堂は芭蕉や他の俳人の様に業俳宗匠では無く、広い活動を展開し俳諧はその一部分であったことの理解が欲しい。

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