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素堂と俳諧 素堂後継者と後裔
山口素堂については、松尾芭蕉のように詳細には伝えられてはいない。これは素棄堂が早くから隠遁生活に入ったことにもよるようである。
芭蕉は俳諧の宗匠として自立し、後に退隠して俳諧の芸術性の追求に突き進み、晩年は俳聖と称え称されるようになった。一方時代を同じくする素堂は俳諧の宗匠として道を極めることをやめ、隠士として多くの文化人や著名人たちを交流を深め、芭蕉に俳諧の新風を起こすことを託して助言や提言を繰り返した。多くの識者が芭蕉のものとする、「不易流行論」などは、すでに素堂が芭蕉に先がけて提示しているのである。(『其角編『続虚栗』序文)素堂が芭蕉に先んじていることを示す資料としては、元禄六年(1693)の折り、芭蕉の門人で素堂とも親しい杉風が奥州の公羽に宛てた手紙に、
「宗匠にて之無き者にも名高き者は素堂と申す者にて御座候」
ときしていて、また芭蕉の本屋嘉右衛門宛ての手紙にも
二日にもぬかりはせねそ花の雲
改め、
二日にもむかりはせじな花の春
はまくりにけふは責かつ若葉哉
改め
はまくりにけふは責かつ若菜哉
右の両句申進候。
其外に二三句斗も有之候へ共あまりおもしろからす候故御目にかけ申すまし□□、
近き内に素堂可参候間御聞可被下候。
此間は何角用事しけく候故早々申入候。以上
十九日 桃青
本屋嘉右衛門様
とあり、他にも多くの識者が偽書とする芭蕉の「素堂先生」の手紙もあるほどである。
さらに元禄六年(1694)52才の折りにはこれまで出入りしていた林家の正式な門人(『升堂記』)として、親しい人見竹洞と共に活躍した足跡を残す。当時の素堂は人物・識見・教養とも秀でた存在であり、それは大名級の文人や当時の多方面に於ける著名人との交流の深さを見れば一目瞭然である。
元来素堂は和漢学者で儒学を修めた詩人であり、和歌・連歌より出発した俳諧者であったから、洒落風や比喩体(本人は狂句などといっているが)の傾向のある作風がみられるが、正風体の句も早くから詠んでいる。後世の俳諧研究に携わる人々が「素堂は句作が少なく学者的句が多い」などと批評しているが、これは素堂という人間の研究と追求が浅いことに起因している。
素堂は俳諧で世を渡った人ではなく、隠士としての立場を守りながら俳諧者であり、その俳風も軽妙であり、その奥行きでは芭蕉に及ばないかも知れないが深く追求しないのが素堂の持味でもあったのである。従って詠み捨て的な作風もあり、素堂の及ばない部分を刺激された芭蕉が蕉風(正風)という大きな流れを作り上げたのではと思われる。
素堂は基本的に隠士の立場を守り、生涯門弟はとらなかった。後世の俳諧系統図などに細かい素堂の俳号が掲載され、恰も素堂が生存中から存在していたかの内容をみるが、素堂周辺の資料からは「信章」・「来雪」・「素堂」・「素堂主人」のような号は散見できるが、これは殆ど号と本名一致している。『葛飾正統系図』〔嘉永三年(1850)馬場錦江著〕に見られるような「山口霊神」・「信章斎」・「蓮池翁」・「今日庵」などは後世の素堂門を名乗る俳諧者たちの創作した号である。
「素堂」の号は山口素堂→寺町百庵(本人は固辞)一佐々木来雪(素堂三世)までは資料にみえる。(別述)素堂の家や亭には和漢の教えや俳諧のことを尋ねて来るものは芭蕉門人とされる其角をはじめ、蚊足など何人か居たようで、素堂没後に『素堂句集』を著した子光や後の馬光などもそれであろう。また親族の中にも寺町百庵や山口黒雲など素堂の影響を受けた人々も居た。素堂の家系の後継者としては素堂の嫡孫山口素安が確認できるが、こうしたことは素堂を論じる人々の記載内容には見られないことである。
結論づけてしまうと、素堂には門人が居なっかったということになる。
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