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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂の疑問点と事績記載書検証
ここで山口業堂についての幾つかの疑問を示してみる。
一、素堂は本当に巨摩郡教来石字山口で生まれたのか?
三、素堂の生家は酒造業を営み「山ロ殿」と称されたか?
五、素堂の家系と家族は?
七、素堂の山口、甲府、江戸での住まいは?
二、素堂は重五郎、市右衛門、および客兵衛を名乗った?(その資料は何か)
四、素堂は甲斐を結びつける歴史史料はなにか?
六、素堂の幕府での仕客先は何か?
などであるが、これらが『甲斐国志」を何回読んでも理解出来ない事柄である。最大の疑問は「国志の基の資料は何か」である。記述内容からして確たる資料は無かったと思われる。現在までの調査資料を元に述べてみる。
一、素堂は本当に巨摩部数来石字山口で生まれた。?
この説は『甲斐国志」を引用した功刀亀内の『甲州俳人伝」の説で他にはその根気を示す歴史資料は現在のところ見当たらない。
功刀亀内の『甲州俳人伝」には次の様な部分がある。
(一)市右衛門を市左衛門とする。
(二)素堂の家を酒造業とする。
(三)素堂の妻の存在を否定している事。
(四)濁川改修工事を緑町に仮居して指揮した事。
(五)山ロ霊神の石祠の存在したこと。
このうち一、二、三、五、については誤りである。四については『澪つくし』 (山口黒露追善句集)にある記載を引用して濁川改悛工事に結びつけて入る。ここで『甲斐国志』「素道」の項を見てみる。
『甲斐国志』 一、素道
山口官兵衛と云う、姓は源名は信章字は子晋、一に公商と云う。「其の先は州(甲州.甲斐)の数来石村山口に家す、因って氏となす。」
とあり、「其の先は」を「祖先」又は「何代か前」を指すのか、『甲斐国志」の他の項の「其の先」は殆ど「祖先」を指している。『甲斐国志』の記述は素堂の何代か前に山口に住んだ祖先が、その地名を採って山口を姓を名乗ったととれるがどうであろう
か。しかも多くの著書や著者はこの記述をとって「素堂の家は山口に住んだ郷士であった」と勝手な解釈をしている。例え高名な文学者の説でも何の根拠も持たない説である。多くの紹介書は『甲斐国志」をどう解釈するだけのことであり、それをもって素堂の家が甲斐山口に有り素堂が育ったことにはならないのである。如何にも根拠が希薄である。
この『甲斐国志』は文化二年(1805)に始まり同年十一年(1814)に完成した甲斐の一級歴史書である。
村々からの調べ上げを元にして松平定能が家臣や甲斐国の知識人の助力を得て完成したものであるが、当時既に歴史資料が散逸していてその編纂にあたった苦労は並大抵のものではなかった事は国志の解説にも記して有る。素堂記述の基の資料は未見であるが、編纂にあたり求めた当時の教未石村からの書き上げには素堂のことが記されている可能性はない。もし素堂名や関係の記述が 「教来石村書上帳」に存在すれば後世の研究者も引用するはずである。衆堂が没して百年が経ってからの『甲斐国志』のこうした 「伝記的」な部分は他の国志の地誌の部分の信憑性とは同一視するわけにいかないのである。勘違いされては困るので付け加えるが、私は『甲斐国志』を全面的に否定する者では無い。あくまでも「素道の項」に関しての事である。
さて『甲斐国志』は続いて「後に居を府中魚町に移す」これを「素堂は幼少の頃、一家で府中魚町に移住する」と解釈する書が多いが、この部分については素堂は魚町の生まれとする説を採る人もいる。最近の辞典には素堂は巨摩郡上教来石の生まれであるとするものが圧倒的に多く[別人素堂」が定説化している。
しかしその根拠は無く前述のようである。辞典の記載も特定の先生の説を掲げているのである。生地についてもそんなことはどちらでもよいではないかと云う人もおられると思われるが、素堂の出生地とされる白州町住民としてここが一番大切なところである。飯田蛇骨先生も生地には根拠を示す何も残されていないと暗に指摘されておられる。
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山口素堂と松尾芭蕉の部屋
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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂の事績の誤り 濁川改悛工事記載書検証
生まれたとされる寛永十九年(1642)から江戸に出たとされる寛文元年(1661)まで、素堂と素堂の家が巨摩郡教来石字山口に生まれ甲府府中魚町移住して酒造業を成して山口殿と称されるに至った間が『甲斐国志」及び後世の『甲州俳人伝』以外の歴史伝書には無く、また他書による素堂の青年期の活躍をしてみると『甲斐国志」の記述は他の資料文献と比べても、大幅の相違があり、又、『甲斐国志」内の他の項の記述方法に比べても差異があり、特に桜井孫兵衛の事跡の箇所と素堂の濁川改修工事の関与の箇所は変に講談調であり、孫兵衛の側に立った者の記述のようにも受け取れ、その著述方法は余程確かな生きた資料の裏付けと相当の思い入れが無いと記せない内容であるが。時代考証にも随所に間違いが見られ、しかも不思議な事に素堂周辺の資料には「濁川改修工事」関与の記述は一切見えず『甲斐国志』素堂の項の著述者の一方的な解釈による記載である可能性が商い。
「山口官兵衛」=「山口素堂」では無い。
『甲斐国志』巻之四十三【庄塚の碑】
蓬沢村、西高橋の堺に在り。一条と油川の庄の分界に標し(シルシ)を立し処なりと云い伝う。(中略)文昭廟(徳川六代将軍家宜)本州領国たりし時、代官桜井孫兵衛歌仙は功を興して民の患を救う。濁川を浚い剰水を導き去らし
む。手代の山口官兵衛(後に素堂と号す。別伝に委し)其の事を補助し、頗る勉るを故を以て、二村の民は喜びて之を利(サイワイ)とす。終(ツイ)に生祠を塚上に建つ。桜井霊神と称し正月十四日忌日なれども今は二月十四日にこれを祀る。側(カタハラ)に山口霊神と称する石塔もあり。云々
上記の傍線の部分が後世誤り伝えられる、原因になった。他の歴史書に記載のない事項を『甲斐国志」一書を以て確実とする事は出来ない。同じ【庄塚の碑】でも、
『甲斐国志」を遡ること六十年前の宝暦二年(1752)になる
『裏見寒話」巻之三【漁釣」の項には次のように記してある。
蓬沢(前文略)
湖水の眺望絶景なりしを、桜井孫兵衛と云し宰官、明智博学にして、此の湖水を排水し、濁川へ切落す、今は一村田畑にして、農民業を安んす、農民此の桜井氏を神と仰ぐよし。
とあり、山口業堂については一言も触れてはいない。『裏見寒話』は当時の甲斐の国のことについては詳細に記してある歴史書である。「桜井孫兵衛」・「桜井霊神」の伝承はあっても「山口官兵衛」・「山口霊神」の伝承は無かったのである。如何に忽然と 『甲斐国志』に現れたかが判る。
調査が進めば進むほど業堂は甲斐と『甲斐国志」より遠くなり引き寄せても直ぐ離れてしまう様相を呈する事になって、どうする事も出来ないジレンマに幾度となく襲われる結果となってしまった。独学の限界を感じる日々であった。しかし筆者の研究に理解をして下さる人も増えきた。
もし素堂が甲斐の出身でなく、有名な濁川改修工事に関与していなかったら一体どういう事になるのであろうかと考えると眠れない日もあったが、勇気を持って真実を解明することが素堂翁に対してせめての手向けになると信じて現在も調査を続行している。そして真実が少しづつ明らかになって来ている。
例え『甲斐国志』でもそれが著名な歴史家や文学者の言であっても盲信することなく着実な資料を基に誤りがあれば訂正し、見直しをする必要が歴史に取り組み携わる者の責務ではないかと思われる。
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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 底の浅い山梨県の歴史と文学評伝
残念なことに山口素堂は山梨県が生んだ(?)俳人、文人として誰より中央で活躍した人物であるのに、周囲の対応は冷ややかで、確かな資料を持たずに元禄九年(1696)の「濁川改修工事」の指揮者として素堂を祭り上げて俳諧に於ける事跡はなおざりにされている。何とも寂しい限りであるとともに何故長い間誤り伝えられてきたのか不思議でならない。
しかも素堂の紹介も誇張と誤りが多く、俳諧事跡は永年そのままにされていて濁川工事指揮者として最近では業堂は[生き神様」に昇格している。「計算に長じ」と「濁川工事責任者」との結び付けはどの様にして産まれたのであろうか。そしてそれを疑うことなく継承され記載内容が上乗せされてきた事実は一体何を意味するものは何か。
この原因は素堂の事跡が甲斐の人々の心の中の歴史に生き続けていなかった事と国史偏重の気風に起因する。『甲斐国志」から始まった業堂の事跡は国書を疑うことを事を知らない歴史研究者や文学者により過大評価と誇大紹介により「別人山口素堂」を創り上げ、人々の心の中から真の業堂像を消し去ることなった。いわゆる「創作歴史」である。それを証拠に『甲斐国志』のみ記載がある甲府尊体寺の墓所には訪れる人は少なく俳人・山口誓子氏の卒塔婆だけが傾いて立っていた。素堂の俳諧精神を継承する人々も訪れた様子は無く、そうした記述もない。甲斐の俳諧愛好者にしても同然である。筆者は幾度となく訪れ、素堂の墓前(後世のもの)に立ったときの虚しさは今でも忘れることが出来ない。線香を手向ける。薄く立ち上る煙りの中に浮かび上がる微かな業堂の姿が「真実を解き明かしてくれ」と訴えているような感さえした。
文学には全く縁のない浅学無才の私にとって「素堂像の解明」は未知な部分への挑戦である。しかし本当に素堂が郷土山梨の出身であり、その事跡が放置されている現状を愁い今のままではならないと考え、素堂の研究を始める事となったが、それは予想以上に賎しい道のりの始まりだったのである。既に今年で三年目になる。資料も年々増え、少しづつではあるが新しい真の素堂像が浮かび挙がってきてはいるが、残念な事に素人の発表の場がないのである。
郷土や他郷の図書館巡りから始まり、出先の図書館や古書店を漁る。俳諧書や郷土歴史資料の収集と一日五時間から六時間の収集した文献の読み込みや整理に追われる事となる。正直に言ってトンデモナイ道にはいってしまった。
集めた資料も難文や解読不可の文章が多く、幾ら睨めっこしても無意味な日々が過ぎる。幸いにも同じ白州に住み今は私の師と仰ぐ小川健三氏に出会い何かと相談する内に少しずつ方向がわかってきた。そして小川氏は業堂の事跡は芭蕉関係の資料の中に多く含まれていると示唆され、又幅広い資料の裏付けと当時の時代考証及び社会情勢の必要性を説かれた。私にとっては本当に心強い存在の師である。
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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂の事績を示す資料
芭蕉・蕉村・一茶にしても業堂の影響を大きく受けているのである。芭蕉は業堂の影響を受けた事は云うに及ばず、蕉村は業堂の生き方及び句作法を基本にして、その蕪村の門人により『業堂句集」が編まれている。一茶は素堂を信奉する俳人達との交流が深くその門に入り、寛政七年九州旅行の折には帰国の途中に四国に於いて、業堂・芭蕉・其角の三幅一軸を見て感激した。また業堂の俳諧秘伝書の内『仮名ロ決』を写し学び句作手法に取り入れている程である。業堂は『好色一代男」なので有名な井原西鶴とも交友があり、一部俳諧書で素堂の俳諧の師と誤り伝える幕府歌方北村季吟、幕府老中秋本但馬守、磐城平七万石の城主内藤風虎・子息の露沾、壇林の旗頭西山宗因、幕府儒学者林春斎、人見竹洞、和歌の戸田茂睡、原安適、茶道において千利休の流れを汲む千宗旦の愛弟子山田宗偏、書道家の佐々木文山、浄瑠璃、歌舞伎役者などなど素堂の交友は留まることを知らない。
特に人見竹洞との交友は深く、竹洞没年の元禄九年まで続く。「素堂の家」や「素堂の母の死」はこの竹洞の『竹洞全集』(国会図書館蔵)により知ることが出来たのである。
『甲斐国志』によると茶道に於ける素堂は裏千家の代々の号、茶道の[今日庵」を名乗ったとされるがこれは間違いである。[今日庵」は子家の元伯宗且が一世を名乗り、二世常叟宗室、三世事叟宗安、と継承されて現在に至っている。『甲斐国志」が素堂が今日庵三世を名乗ったと誤ったのは、素堂没後の翌年の追善集(山口黒露編)の『通天橋」の記載されている「草庵五物」の中に記載されている宗旦筆の「今日」掛け軸に由来すると思われる。
○素堂草庵五物は
・灯篭高眠石・手水鉢夢山(甲斐根産)
・今日の掛け軸(宗且筆)
・三渾の硯(銘 人見竹洞記)〕
この掛け軸は推察ではあるが宗旦の愛弟子で宗旦の替わりに三州小笠原家に茶道頭に就任した山田宗偏が晩年数任して江戸本所に住み、素堂とも深く交わる。元禄十五年(1702)宗偏の編んだ『茶道具図絵」に素堂は序文を草しているほどの仲である。
素堂「今日庵」の由来は一時「今日庵」を名乗った宗偏から素堂が宗旦筆の「今日」の掛け軸を譲り受けて庵室を「今日庵」と称した事によるものであり、別に茶道の号ではない。宗偏は「四方庵」・「不審庵」(裏千家の号)を号する。この宗偏はかの有名な「赤穂浪士討入」の吉良上野邸に出入りしていて、赤穂浪士の大高源吾は宗偏に弟子入りしたとされる。この大高原吾は俳諧に於いて素堂に近い宝井其角の門人でもある。其角は討ち入りの日には隣家にいたとされ、素堂はこの期間京都にでも赴いていて不在であったと思われるが、勿論事件の事は知っていた筈である。
この「赤穂浪士」の顛末については祖先が甲斐の出身とされる柳沢吉保が裁いている。後、山田宗偏の流派(宗偏流)も代々継承され今日に至っている。其角の門人の赤穂浪士の大高源吾は討ち入りの前夜に其角と接触を持つがこれさえ偽りとしてしまう研究者もいる。著者の推察と推論での偽書扱いは避けるべきであろう。偽書と断定するにはそれ相当の確証が無くては成らない。
過去の文学研究者の中には素堂の俳諧指導伝書とも云える『松の奥・梅の奥」や『素翁口伝』は偽書扱いし、芭蕉の「素堂先生」宛の手紙さえ偽書としてしまう始末である。芭蕉を崇める余り芭蕉を聖人化してしまい他を排除する傾向は芭蕉の没後急速に進められ、特に俳諧を業とする人達や伝書作成者により自分の優位性や芭蕉との関係を強くすることと乃ち「はく」をつける為にである。しかしそんな中でも地道な研究者により素堂に関わる芭蕉や曽良などの【真跡書簡】が次々に発表されていて、中には素堂の【曽良宛の書簡】や【江戸素堂の家】も発表されている。この書簡の内容は素堂の妻や身内の不幸や芭蕉の句作に素堂が如何に関わったかがを窺える内容である。
全国津々浦々の芭蕉の句碑などは芭蕉の名声にあやかり、利用したもので、地域宗匠などの俳誰人の手によるものが多い。山梨県内にも数ヵ所あるがその由来は希薄である。
素堂の伝書が例え偽書であれその内容には重要かつ大切な部分が多く含まれていて、素堂でなければ書けない部分もあるのである。後世書き直しや写し違いが有ったにしても長い間食重な書として扱われてきた書を「偽書」の一言で抹消してしまう事はどうかと思われる。素堂が芭蕉没後に於いて芭蕉の俳諧精神を継承し門派を統一しようとした。その事を伝える書簡内容さえも「偽書」扱いにしてしまう。派閥構成の強い歴史・文学界に於いては高名な人々のこうした言はそのまま継承され偽書扱いされた書は再び生き返ることなく消えていく事となる。しかし裏を返せば偽書が生まれるくらい素堂の価値があったことにもなる。芭蕉の手紙にもある「先生」は現在の誰でも先生と呼ばれる時代とは違い、特定の人に与えられた呼称であり、素堂と芭蕉の関係を如述に表している。
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誤伝素堂の背景 真実の素堂像に迫る 素堂と芭蕉
即興詩人素堂と推敲詩人芭蕉
例えば芭蕉の代表句である
古池や娃飛び込む水の音
も初出は
古池や蛙飛ンだる水の音
である。もし「飛ンだる」のまま推敲が為されなかったらこの句に対して現在の評価が与えられたであろうか。
昭和初期の頃の研究書や論文を読むと中には如何に素堂が芭蕉の俳諧や人生態に影響を与えたかを認め論じて居られる研究者も見られるように芭蕉の俳諧と生活の重要な部分に素堂は深く関与していたのである。それを端的に表しているのは素堂と芭蕉の「蓑虫」関連の遣り取りである。是の発端は素堂からの呼びかけから始まり、奥行きの深い内容であるが、一般には芭蕉の呼びかけから始まるとして、芭蕉中心で記されているが。芭蕉を「蓑虫」に仕立て悩む芭蕉の生活態度や句作姿勢について進む道を示唆する素堂、そこには「諭す素堂」と「苦悶する芭蕉」の遣り取りが『蓑虫諸句、文」である。素堂の求める真意が理解できない芭蕉の姿勢が見え、芭蕉が業堂の考えを理解するのは「幻住庵の記」の頃である。視点を変えて見れば主導は業堂であることは明白であるし、素堂が芭蕉の晩年まで心の支えであり越えることの出来ない師でもあったのである。
芭蕉死すときの遺書には素堂に宛てたものは資料には見えないが、しかしその後の業堂の芭蕉に対する心遣いには去った心の友に対する慕情と無念な心情が句に表れている。
時代が現代に近づくにつれて、芭蕉の偉大さだけが強調されそれにつれて業堂や他の俳人の影は薄れていく。最近ではその影さえ抹消されている書物もよく目にする。
現在は芭蕉.蕪村.一茶が全てであり業堂以下当時に於いて活躍した俳人達は既にその道の人々からも忘れ去られて、芭蕉の付け合いとして必要の時だけ思い出されているような感さえするのである。
県内でもまず素堂について書かれた本は無く、又研究書も少ない。例えあっても見る人も居ないのかも知れない。
(清水茂夫先生の「山ロ業堂の研究」諸論は奥行きもあり、是までの定説を揺るがす部分もあるが、残念のことに山梨大学の研究紀要に掲載されているので目に留まることが少ない。業堂についての貴重な著述なので是非一見をお進めしたい。前記の昭和七年の『山口業堂の研究』とは違う)
又、山梨県人として俳句の隆盛に尽くし、全国に多くの支持者を持つ飯田蛇骨氏は業堂を尊敬して自分の裏庭に「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句碑を建立しているほどで、素堂の深い人間性を理解しておられ、業堂と芭蕉との関係についても直視しておられる。(昭和十四年刊・『雲母」)
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